29.9.09

暴力性について

〇歳児の時に、テーブルクロスをひっぱって、テーブルの上の、母が買ってきて洗って並べていた新しいガラス食器を、ガラガラと落して、喜んだことがあるらしい。
覚えてない。
でも、ガラスの割れる音は、美しい。

破壊されるものへのフェティシュ。リンゴを何度も落とすと、落すたびに、音が鈍くなって、最後には、ぐちぇ、となる。ジューースになる。うひうひ。



暴力性とも関わると思う。

暴力の連鎖ということを思う。わたしは、かなり、叩かれた。何かというと叩かれた。頬を。鼻血を出しても、許してくれなくて、外を走り回ったことがある。ブラウスが、血まみれで、泣きながら、町を走った。姉が縁側にいて、こっそり家に入れてくれた。
消したばかりのマッチを頬にあてられて、火傷したこともある。まだ、幼稚園にも行ってなかった。


誰かに、力で脅された人は、力を使うだろう。排除されたことのある人は、また誰かを排除するだろう。これでは、エンドレスなのだ。強者が上だという考え方が、どちらにもあるのがいけない。誰かが、踏みとどまってその力を、別の形で、転化する、化学反応で別のもに変える、空に送る、自然に帰す、ということに努力すれば、連鎖は止まるだろう。その気になれば、できることだ。 War is over, if you want。


歴史学者などが聞き取り調査をするとき、明らかに、歴史上ありえないだろうということを地元の人が言う時、どうするか。
1.非現実的と否定する。
2.神話とする。

どちらも、結局、関係のヒエラルキーは同じである。

3.深いところでは共感できないが、あなたの真摯な経験だとはわかります。だから、あなたの経験と私の歴史理解のあいだの接続可能性や共奏可能性について、一緒に考えましょう。

こうやって、他者との闘いの連鎖を、止めるのはどうだろう。
これは、先日紹介した本「ラディカルオーラルヒストリー」に書いてあったこと。
闘いは、あってよい、しかし、連鎖は止めなくてはならない。


私に限らず、人は身体に、様々な暴力性を持っている。


誰かが言うように、芸術とは、ある種の「事故」の体験である。「事故」のまわりにまとわりつく、何か、行き場のない感情は、事故として、どこか外に、力が吸収されれば、と思う。人間以外の方向に。