7.9.09

質問をもらう

知り合いから、何かのサイトに私の活動を紹介したいので、文章を書いて欲しいと言われた。
わたしのどういうことを紹介したいのか、わからないから、質問形式にして欲しいと言ったら、4つほど、質問がきた。それで、がんがん書いたら、10000字くらいになった。でも、800字で、ということだった。そういえば、はじめにそう書いたあったような気がするけど、他の人は長く書いていたし、わたしもいいのかと思っちゃった。

で、減らしたけど、もったいないから、ここにアップします。質問1と4のアンサー。


Q:なんでパフォーマンス??

1991年頃のこと。ある人たちが、屋外で即興のパフォーマンスをしているところに出くわし、じっと見ていたら「あんたもなんかしたら」と誘われて、なんとなく参加したのが、最初です。(彼らは、毎週、上野の谷中墓地でやっていた)。歩き回ったり、掃除をしたり。はじめは、気晴らしくらいの理由でやっていましたが、ある日、誰かが撮っていたビデオを見て、とても驚いた。「誰だ?この人は」自分が、まったく知らない人に見えました。その動きをしている時の自分の頭に浮かんでいたことはおおよそ覚えているのに、ビデオ越しでは、まったく見えない。このギャップがとても面白かった。身近にいながら、最も、未知の存在でした。それで、このなんだかオートマチックに動く知らない女を、この世に、放ってみたいと思うようになった、というわけです。
 あとで、わかったのですが、そういう感覚は、身体芸術では、基本の基本だったのですね。「分身」と言う言葉があるでしょう? 

最近は、サイバー系のアートに関心大なのですが、お客さんとして見て歩いている段階です。今後もたぶんお客の立場から抜けられないと思いますが、センス的には、影響されています。手元、足下、具体的、ではなくて、それらから、どれだけ、遠くいけるか、そして、世界の見えない構造を、見えないまま、感じる。サイバー系は、結局のところ、バーチャルという「現実」で、本格的には遠くはないのですが、目に見えないということで、擬似的に、見えないものを体験できるところが今のところ、私の脳にかゆくていい感じです。そのうち、飽きるかもしれないけど、今は、楽しい。

遠い、という感じが面白いと思っています。

実は、ショーケースパフォーマンスの、やる人と見る人がひとつの空間に閉じ込められている感じが、どうも照れくさくて、苦手なのです。観客との関係性ということは、わたしが、面白いと感じてはじめた理由と、あまり、関係がない。それで、自分に向いた発表方法をあれこれ考えています。それに、第一、「パフォーマンス」という言葉は、あくまで「上演」という意味なので、あくまで、提出方法でしかない。「展覧会」と言うのと同じです。つまり、メディアそのもののことは、言えてないのです。ですから、最近は「アクションのパフォーマンス」という言葉をわたしは使いますが、これを「社会にコミットする」の意味で使っている人もいますね。それは私の意味とは違うかも。なので、いずれ「ボディアアート系」あるいは「身体意識系」と言えるようになりたいです。

提出方法は、展覧会、イベント、パフォーマンス、インターネット上など、様々あってよいと思っています。





Q:「we are elegant」、なんかほっこりする。簡単な説明とかしてもらってもいい?


 あれは不思議な作品です。実は、自分では「こんなこと作品になるのかな」と思いながらやっていました。ゆるゆるの感じでしょう? わたしには、人をコントロールする力はなくて、でも、そのかわり、「わかったよ、いっしょにやってあげるよ」的な気持ちにみんながなるみたいです。それが、中西さんのいう「ほっこり」なのかもしれない。

 元々あの作品は、大変にサイトスペシフィックなものです。
 インドネシアのジョグジャカルタに「Perfurbance」(Performanceと言う言葉のなかに、urbanという言葉が入っている。2004年より毎年)フェスティバルがあって、イワンという青年を中心にした若者が集まっています。2006年に、このあたりは、深刻な地震の被害をうけました。このとき、イワンたちがいつも世話になっている土地の有力者である人の住む村も、やはり、家がほとんど倒壊、死者も出た。そこで、イワンたちアーティストの若者たちが、手伝いに行った。半年をすぎたころ、ほぼ、復旧。死んだ人は帰って来ないけど、また、赤ちゃんも生まれ始めた。そして「ありがとう。では、今度は村が君たちのアートイベントを手伝ってあげるよ」ということになった。それで、イワンは、外国のアーティストたちにメールを送った。飛行機代もギャラも出せない。でも、村に泊まれるし、村で食事をすべて出す。いっしょに、復興を祝ってくれないか、と。そして、作品の材料は、すべて村の中にあるものだけで、やって欲しいと。この最後の提案を、わたしは、とても気に入りました。
 2007年4月。私は出かけて行きました。ところで、イワンは、かなり政治的なタイプのアーティストで、アグレッシブなスローガンを掲げるような作品ばかりやっていました。でも、「もう拳をあげるのはやめようよ。だって、イワンは実は、楽しいことが大好きな陽気な男の子ではないか」という思いがわたしの中にありました。また、私はアジアに多い20世紀的反体制系パフォーマンスのスタイルに少し飽き飽きしていました。それで、その「わたしたちは、戦わなくてはならない!」という20世紀的スローガンはもう終わりにして、21世紀型の新しいポーズを提案してはどうかと考えていました。
 そして考えたのが、「私たちはエレガントなのである」というスローガン。村人と作ろうと思いました。小さな村なので、あっという間に、みんな顔見知りになってしまいます。そして、皆、あまり家の中にいないで、ベランダみたいなところにいるので、歩けば、会ってしまうのね。それで、学生の女の子に通訳を頼んで、村を歩き、「エレガントなポーズってどういうポーズだと思いますか?」という質問をして、回りました。みんな照れくさそうだったけど、なんとか、いろいろやってくれて、いくつかスケッチさせてもらいました。ビデオにもおさめました。それを、翌日、パフォーマンスのプログラムとして、墓地に集まった人たちと行い、写真とビデオを撮りました。墓地で行ったのは、過去から、未来へつづく途上に立っている感じを出したかったからです。今度の地震で亡くなった人もそこにいます。子供たちが、お母さんたちに連れられてやってきました。いくつか行ったうち、わたしから見たベストのポーズは、右手を額にあてて、空をまばゆそうに見上げるポーズです。写真を見ると、カラフルで、大きさの違うみんなの、右の尺骨(腕の骨)がリズミカルの並んでいて、面白いのです。その足の下にいるご先祖様の尺骨もみえるような気がしました。

 そして、2009年6月。クロアチアのスタグリネツという村でのフェスティバルに招待されたので、是非、同じようなことをしたいと思いました。ところが、その元旧共産圏の村は、インドネシアの村とは違うのです。非常に管理されている。道に出て、おしゃべりしている人もいないし、農業は機械化されているので、遠くに、トラクターが一台見えたら、もう反対側には、目がかすむくらい遠くにしか、人影がない。そういう村でした。たぶん、オーガナイザーもわたしがイメージしている村のことがわからない。なぜ、村人と話したいなんてばかなことを言うのだろう、という反応でした。それで、結局、私は別のパフォーマンスをしました。
 でも、どうしても私はあきらめきれなかった。4時間にも及ぶ屋外でのフェスティバルが終了すると同時に、私は「みなさん! 協力を求めます!」と大声を上げました。実は、インドネシアの時の写真が、前日の新聞に載っていたので、知っている人はいたみたいでした。人々は興味津々でぞろぞろ集まって来ました。テレビ局のカメラが、小屋の2階に上がったので、観客は、「今度は、自分たちが映るんだ」ということで、楽しくなったのかもしれません。
 わたしは大声で「わたしたちは、21世紀に住んでいる。もう攻撃的なことはやめて、エレガントに生きよう。空を見て、未来を見よう」とかなんとか、我ながら、どうしたんだろうと思うようなことを叫んで、みんなとともに空を見るポーズをとりました。すると、なぜだか、皆が声を出し始めました。お〜〜、あ〜〜〜とかなんとか。午後8時の薄暗い中、不思議な気配です。そして、大喝采で終わりましたが、あれは、フェステイバルの終了でもあったからなのです。
 「このビデオは、インドネシアの友達に送ります。また、会いましょう!」と私はしめくくりました。 まあ、そういうわけで、あのビデオが出来ました。インドネシアのイワンにも送りました。とても喜んでいましたよ。

 でも、いまだに、あれはアートなのか?とわたしは疑問であります。わたしの頭は、たぶん、わたしの身体より、遅れているのです。なかなか、ついていけない。たぶん、間違った方向に行っても、止められない。でも、考えてからやって面白くなったことはあまりないので、何か、イメージが浮かび、それを実現する方へ、私が動いていくのを、犬がどんどん歩いていってしまうのを追いかける飼い主みたいに、なんとか、リースをたぐって、追いながら、作品を作っています。とんでもないところへ行ってしまうこともあります。それが、わたしのやり方のようです。これで大丈夫でしょうか(笑)。だから、いつも心配なのだ。自分のしていることに、誰よりも先に「なんだこりゃ」と批判の目をあびせているのが、わたし自身なのです。それもこれも、谷中の墓地で、「この知らない女を放ってみよう」と思った時から、はじまっています。