24.9.09

今日の考察

仮説1:ディスカッションはアーティストに向かない(?)
理由:本来、ディスカッションは、民主主義のツールである。民主主義では、言論の論理性の強さ、あるいは、印象の強さ、あるいは、コントロール力などのパワーゲームが行われる。
もちろん、ディスカッションには、もうひとつあって、個人的な立場は横において、テーマの様々な方向から検証する、という研究のためのものもある。

それにしても、日本人には、後者のディスカッションは、「絶対に」できないようだ。これまで、何度も感じたけど、やはりかと思うし、何と言っても、アーティストには向かない。仲間作りだと思っている人もいるかもしれない。テーマを話し合いたいのに、勝ち負けの感覚が抜けない。そういうことに興味がないと、遠巻きになってしまう。

何しろ、アーティストは、「多くの人の声」を代表したりしない。
ポップシンガーはそういう言われることもあるけれど、そこには、陶酔などが入っていて、政治に近いことが始まっているかもしれない。「歌詞」のないミュージシャンには、それはない。

仮説2:民主主義が、芸術家の地位を低くし、誇り高い芸術家は、政治志向になって行く。
提案:あえて、アルティザンを目指す。抵抗である。この位置を守り通すことが、この危機の時代の多くの、個人の、心のために、確実な何かを、少なくとも壊れないですむ何かを、届けられる。危機の時代に絶望し、それを感染させようとする輩の、毒を、遠ざけるため。マグマのように何かの情念が流れているような社会で、木々を眺めたり、鳥の声をまねしたり、湖の水面の模様を楽しむための、涼しくて、かつ熱い別の場所と時間を確保する.............。

これは、あくまでわたしの考え。


なんてことを考えた。今日、思いついたので、夕方会った、ミャンマーのアーティスト、モサに「わたしはアルティザンになりたい」と、言ってみた。彼はぽかーんとしていたけれど、彼のガールフレンドがわたしに賛同した。たぶん、この台詞は、生まれてはじめて言ったかもしれない。

ま、そんなこと言っている暇があれば、スケッチのひとつでも、動きの一つでも。家の門の前で、手をもやもや動かしていたら、前方から歩いてきた人が、遠巻きになった。電車の中でも少し。


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そういえば、宮本常一の「忘れられた日本人」にあった、村の寄り合いは、何日もかけていて、寝ている人もいるし、お弁当を食べている人もいる、何を話しているのかよくわからないが、ある結論は出る。たぶん、それは、ちょっとしたパワーゲームだったのかもしれないと、思っている。誰の意見なら、なんとなく丸く収まる、というやつを、さぐっていたのだ。村の長たちは、マグマを扱っている。