23.3.11

仮説

日記を書く。
きのうの話のつづき。長くてごめん。

今日は少しtwitterも書いた。そして、


もともと日本語の、話し言葉と、公的言葉は別だったわけ。後者は漢文だった。これも、「公的」と「個人」の感覚に、ずれが起きている根拠かも。だから、「個人の気持ち」を「公的にする」技術がないのでは?日本語には。

とツイートした。

だと思う。これは私の仮説かもしれないけど、以下、断言口調で書かせていただく。


  自分の感じたことを、公的なこととして話すのが苦手な日本人。性格ではない、頭の善し悪しでももちろんない、日本語という言語がそのようであるからだと私は考える。その理由のひとつは、上に書いた通りだ。
  無理してでも、恥かいてでも、自由に、思ったことを、自分の可能な範囲の言葉で、相手かまわず、場所もわきまえず、しゃべれ、と言っているのはない。なんでも言えばいってもんじゃない。
日本語に、そういう表現方法がないのだ。(むずかしい、とくらいに、しておくかな)

   どれほど多くのえらそうな日本のおっさんたち、おばさんたちが、このおよそ20年間「現代美術はあなたが感じたいように感じればいいのです」という、めちゃくちゃなことを、言ってきたか。そいつらは、たとえばディーラーだ。お財布さえ開けてくれればそれでいいんじゃないの? あるいは、美術館の入館者数が増えればそれでいいだけで、まあいいんじゃない?と思っている人たち。

  芸術は経済活動である前に、文化なんだ(確信!!)。文化はシュミじゃない。文化は社会なのだ。だから、芸術に関わることは、社交である。芸術を鑑賞するのは、社会活動である。だから、それについて、考えなどを言うのが、まっとうな大人なのだ。だけど、当然なんだけど、そこにはルールがあるんだな。西洋言語には、そのための、いくつかの基本タームがある。それほど独創的でない人は、それらのタームをなんとか駆使して、自分の考えを組み立てる。「考え」のない人などいない。だから、彼らはそれを学んで、使う。さらに、独創的な表現が使える人は、そのタームとコンテキストを見事に使いこなし、さらに豊かな言葉や修辞を加えて、持論を展開する。それに、長けた人が批評家、作家になる。あるいは、完全にアマチュアであっても、誇り高き愛好家かもしれない。そういう人たちが、芸術の場を作っていく。自分たちの社交の場を作るためだ。そのために、芸術は鑑賞されるべき、レベルをもつべきなんだろう。そのように、表現のためのタームのある言語の人は、学習することで、他者と「話すこと」「ディスカッション」に、「公人」として参加することができる。
 そして、たぶん、誰かが、それらを完全に無視した「自分語」だけで話したら、誰にも相手にされない。それを決して「創造性」とは言わない。これは、芸術に限らないだろうと思う。たしかにどんな文化でもルールは、壊すためにあると言うけれど、ひっかりもしてないものは、いくら楽しくても、芸術とは彼らは呼ばない。

  こういう習慣が、ニッポン語にはほとんどないみたいだ。
その原因が、ずっと日本語の「公的な言葉」が漢文、つまり、自分たちの言語ではないものだったからだと、私はにらんでいる。インテリにとっての「文学」も漢文だった。そんな昔のことじゃない。夏目漱石にとってもそうだったんだから。「おんなのすなるにっきというもの......」というのがあるのは、あえて、そういう選択をしているんだろう。今からでは、とても遅いが、「漢文」にになら表わす事ができるかもしれない(笑)。だから、それに気づいている人は。四文字熟語なんかを駆使しちゃうんだ。だけど、それは今では「えらそ〜」と言われて、なかなか読んでもらえない。しかも、自分の普段の言葉と違うから、きもちがずれてしまってるんじゃない?

   それは、今回、スペインのジローナでワークショップをしてはっきり見えてきたことだ。私が与えたインストラクションに沿ってパフォーマンスをしてもらうのがメインだが、その前にまずグループで語りあい、パフォーマンスをし終えたら、今度はみんなで語る。これは、かつて、ボストン美術館と、チューリヒのなんとか言うアートスクールでのパフォーマンスの授業を参観させてもらった経験から、行ってみた。どのように彼らが話すのか、見たかったのだ。そして、驚くほど、皆、様々、興味深く、的を得たことを、しかもタイミングよくを言いあう。あまりに抽象的なテーマだったので、日本の学生みたいに「わか〜んな〜い」て言われちゃうかなと心配だったが、それは老婆心であった。彼らは、特別に知的水準が高いわけではないと思う(わからないけど)。そこでわかったのは、彼らには、いくつか、語るべき、用語を知っているということ。まっさらな頭で考えたりなどしない。押さえておくべき、いくつかの文脈の理解/表現方法があるのだ。
 どんなにおとなしめな子でも、ワークショップでは発言する。だって、勉強しに来ているのに、だまって帰ったら意味ないじゃん、そういう論理だと思う。「抽象的テーマなのに、とても興味深いパフォーマンスができてよかった」と言うと、「テーマは抽象的(abstruct) だけれど、インストラクションが実践的 (concrete)だったから」と答えてくれる。


   欧米の芸術文化に関わっている人たち、コレクターたち。彼らにとって、語るべきことを代弁してくれている、それが芸術作品なのだ。コレクターが部屋に飾ってアピールしているのは、経済力だけでもないし、趣味の良さだけではない。それについて、訪れたお客と語るために、飾っているのだ。ひとしきり、自説を披露したいから、飾るのだ。


 外交官や政治家の社交パーティの時に、芸術のひとつでも語れなくちゃ恥だとか言う言い方がある。そりゃ、順序が反対だ。社交=文化なのだ。


  スペインは、ソフィストケートされた文化の分厚い所だとよくわかった。確かに、若干、パフォーマンスアートのセンスがレトロだとも思った。だけど、老いも若きもやってきて、楽しむ。なぜ、ジローナでの私たちのパフォーマンスの時間が、午後12時〜14時なんて、日本では考えられない時間なのか、わかった。その後で長い2時間のディナー時間があるからなのだ。2時間かけて、見たことを話し、たっぷり食べながら、ほどよくワインをいただき、2時間気持ちのいい昼寝をして、18時の部にもう一度、出てくるためなんだ。私には、18時の体力はなかったけどねっ。


  そして、がっかりする人もいるかもしれないけど、彼らにとって、芸術とは「無限のイマジネーション」なんてものではなくて、ルールに則っている知的遊びである。彼らには、フォークアートやオリエンタルなものも結局、自分たちの文脈で解釈してしまう、というつまんなさもある。でも、もし、あなたが、ファインアートでやっていこうと思ったら、彼らの文化の良いところは、認めた方がいい。だが、そのことを、日本の美術教育も、美術活動は、まるで、わざと無視しようとしているかのように話して来なかった。でも、わざとじゃないな。今の日本語で語っている限り、限界なのだ。
英語やフランス語、イタリア語、スペイン語を使っている時は、理解していても、日本語で話し始めたとたん、わからなくなるのか? じゃ、私も同じじゃないの?


さ〜てどうする。自分流でどうしてもやりたいなら、「文化」の作り方を、再創造するよりない。私には、そんな体力はあるかな。




あ、でも、だからって、日本には芸術作品がないとは書いてない。あるのは確かだし、みんなが作っている。そうではなくて、芸術作品を感じて語るのに、適切な言語の力が弱いんではないか、と言っているの。




久しぶりに断言口調で話させてもらった。