25.3.11

墓参+ミーティング

今日は、もうかなり元気になった。元気というのは、身体が、どんどん動くって意味なんだ。

姉が言い出して、姪と姉と母と私の4人で父の墓参をした。父の誕生日だからなんだけど、なんか、震災後のお参りという気持ちだ。何かお願いした訳ではない。父は、何かをお願いするような人柄ではない。なんとなく。
姪が半月留学をしていたので、その時の様子を聞いた。向こうの大学で学んだ事、ホームステイの様子など。楽しかったって、言うけれど、楽しそうに聞こえない。質問しないと特に何も言わない。そして、しかも、姉や母は、あまり興味なさそうなのが不思議だ。母と姉は、停電の話をあれこれ、高校野球の話など話している。肉親って退屈なもんなんだな。亡くなった父が、うるさいほど、いろんな話を楽しそうに話す人だっただけに、ギャップを感じた。

それから、あるミーティングに出かけて行く。まったく会った事のない人々。若い。まだ、30歳代くらいの人たちと、学生くらいの人たちだった。優秀そうな人たち。なんだか、はぐれた気分。でも、やれることをやっておこうと思う。世代が違うと、ある種のニュアンスは、伝わらない。気持ちなんか伝わらない。言葉しか伝わらない。いや、言葉は通じる。だから、言葉は鍛えておかなくちゃな、とあらためて思う。唯一の伝達道具だ。目的の本当のところがいまいちわからなかったけど、手伝えることは手伝おうと思う。アーティストのできる事は、作品を作ることだけではないことを、実践する。

話がすれ違おうが、はぐれていようが、なんだろうが、ここで生きていることは確かだ。どちらのイベントもあとで、メールが来て、「とても楽しかったです!!」と書いてあった。あ、楽しかったし、良かったんだ。
私の役割ってもののあるんだといいな。


帰りの電車の中で、もし、原発で、しろうとでもいいから、スイッチを入れるとか、ものを置いてくるとか、必ず、被爆するけれど、誰かがそれをしなくてはならないことがあるなら、ぜひ私が行きたいと考えていた。しかし、母の悲しみを考えると、できない。姉の一家の驚きを想像したらできない。涙がぽろぽろ落ちてしまった。そんなことを考えるのは、私の弱さだ。センチメンタリズムだ。わたしにできること。わたしにできること。それを考える。
震災でも原発でもなんでも、別に今回のことだけではないんだ。私がなにかのためになれること、そして、母や姉が悲しまないこと、それはなんだろうかと、ずっと考えていた。


私の仕事ってなんだろうかと思う。実はまだわからない。