1.2.10

対話展

東京より数時間遅くなりましたが、うちのまわりも雪になりました。雪って、勝手に、情緒的な気分になってしまいますね。お酒を少しあたためて、飲むことにしました。

2008年は、2009年の秋に行うイベントの企画を立てていました。でも、そのプレイベント中に、何か、やたらと妨害が入ったので、2009年に企画は、やめることにしたという苦しい経験がありました。いろんな人にあやまりました。でも、不思議なほどの妨害でしたね。でも、それは、何モノかが私に「お知らせ」をしようと、悪魔の力を使って、行ったことなのかと今では思っています。もし、昨年秋に、企画を実行していたら、家でおこっていることとの狭間で、わたしは、想像ができないくらい、むずかしいことになっていたに違い有りません。雪を見ながら、しんみりです。あのプレイベントの場所を紹介してくれた人も、そういえば、その後2ヶ月ほどで突然、亡くなりました。無理なことが続いていたのではないでしょうか?

おととい、ちょっとでかけて、いろいろな人に会うことがあり、わたしのアイデアを話したりしたところ、すんなりと理解されました。不思議ですね。でも、あまり、表面的なリアクションで、物事を判断せず、背景などを考えながら、新しい歩みをしたいと思います。

今年は、どんな形で作品の発表をはじめるか、思案中。やはり、話が、やはらかく進むところで、行うべきでしょう。どうにも、理解できないところには、無理して行きません。と、宣言しておこっと。つい無理しちゃうのよね........


以下、件のプレイベントで手伝ってくれたG君に代表を務めてもらっている現在のプロジェクト。わたしは、コーディネーターやアドバイザーの対場であります。やるのは、若者たちだ!! わたしは、ネタだけ、運んでいるだけです。きのうは、彼らとSkypeで会議をして、楽しかった〜。

「イスラエルの若いアーティストからのプレゼンテーションとの対話展(略して、対話展)」 多摩美、上野毛校、鏡の間(演劇演習室)
2月12日〜17日 日曜休み 14:30〜20:00
  テルアビブの学生の作品の紹介展、写真、ビデオ、アニメーションなど。日本側の学生たちがホストになって、彼らの作品を紹介す
  る。彼らの作品を再現したり、e-mailやSkypeを通して会話で、話し合いながら、共同作業なども行う。テルアビブ側8人に、日本側
  は9人。ほぼ1対1で組んで、コミュニケーションをしている。
     13日 16:00 パフォーマンス(日本の学生によるイスラエルのアーティストの作品の再現パフォ)
         17:00 オープニングパーティ しやかしにきてくなはい
     16日 19:00 テルアビブとのリアルタイムパフォーマンス


桜木町にて。たぶん2008年9月30日。写真は、Jeremy Coleman。

29.1.10

ハイなテクではなくて

ようやくSkypeに登録した。ゴトウ君が、さっそく、かけてきてくれた。ありがたい。でも、映像が映るのが、どうしても納得できないので、私のPCのカメラのところに、ガムテープを貼った。ゴトウ君は、一応、こっちを向いている感じで話してくれていたが、見えないんだよね、悪いけど。こちらを見せることは、当分できない。嘘くさいセットを背景に作り、お面を被ればできるかも。屋外ですればいいけれど、わたしのPCは動かない。iPadならね。

デジタルデータのしまい方に、まだまだ、工夫がいる。バックアップとったものが複数になったりして、しくじる。MOのころは、すべてを把握していたけれど、CD、DVD、ハードディスクの時代には、どこにどれがあったか、あやしくなる。毎日のようにすべてを確認していれば、頭に入るかな。何が理由で、頭に入らないのか、わからない。MOのころより、頭が悪くなった?
目にみえないけど、MOよりも、バーチャル度が高い気がする。

けんたろうレシピで、クリームシチューをつくる。ホワイトソースなんか作らなくても、クリーミーになる、ミラクルな方法。冷えると、固まり度が高くなる。なんども火を通すと、劣化する(劣化?)。バターは使わないから、カロリーは低いと思う。

データ資料から出て来たなつかしいもの。TAKAKO SAITOさんのチェスのパフォーマンス。飲み物のはいったコップがチェスの駒になっている。何かルールで、時折、サンドイッチを食べなくてはならない。TAKAKOさんは、ものすごくまじめな人ですが、ユーモアたっぷりな作品を作る。フルクサスのメインメンバーのひとりだ。もう80歳になっただろう。デュッセルドルフに30年、ひとりで住んでいる。あまりにも芯の強い人なので、思い出すと、せつなくなる。いろいろなことや人を拒否しているけど、本当は、愛し合いたい気持ちでいっぱいな人なんだと、わたしは思っている。特に、母国に対して。

写真をカメラで撮った写真なのでぼけている。

28.1.10

ハイなテク

ノロジーが好きです。
自分の表現では、ほとんど使いません。映像プロジェクターは使いますが、映像程度のものは、わたしは、ハイなテクノロジーと呼びません。だって、映像はずっと前からあったじゃないの。もちろん、デジタルと、フィルムは違うし、逆に、利用者としては、デジタルの方が、ずっと安易なので、わたしには、単なる、メディアです。メディアアートという言葉は、あいまいすぎますね。
わたしを刺激するのは、構造的なこと。私の頭では、限界があるものの、現実の重さを持たないで、理論的に、動くモノを考えるのは、頭が、かゆくなるほど、気持ちいい。頭の体操として、好きです。

(でも、くだらないミスをやらかしたるするのよね、デジタルも。電源入れ直すと、直るようなことって、ばかっぽい。)

.........iPadが出ました。使いたい。ミーハー。

..........ところで、2月の中ごろから、C&Mの展覧会が多摩美であるのですが、そこの解説にiPodを使おうと思う、とゴトウ君が言いました。面白そう。うまく機能させられるかな。

...........お葬式にやってきて、久しぶりに会ったいとこが、富士通の技術部かから、NTTに転職しているらしく、うれしいです。インターネットの話がもっとしたかった。

...............昨年は1年間、ぼうっと暮らしていたため、様々なデータのバックアップを、今日ようやくしています。しかし、「CDの寿命は、10年とも100年とも言われています」と言うのは、本当に、困りますね。ええ加減すぎます。やはり、プリントしておくのが、正しいのかもしれません。動画は、テープに? だが、テープを動かす機材もなくなってくるらしい。困った、映像。ハードディスクは、どれほど信用できるのか。皆さんはどうしていますか?
あとは、インターネット上の記録が、確実かもしれません。Youtube より画質よくアップできれるところありますか?


関連別件。
思いがけず、刺激を受けたレクチャー。緒方洪庵出て来ちゃうからね〜。パフォーマンスも芸を楽しんでいる場合ではないと思っている。というか、これからな芸。


27.1.10

ペラリ

今日は、仏壇屋へ行った。わたし自身は、宗教に関心大だけど、宗教ビジネスをどう考えたらいいのか、わからない。なくていいとまでは、言い切れない。
人が死ぬ瞬間を見てしまえば、どうしても、物質主義にはなれない。何か、とてつもなく、センシティブなことを知ってしまい、どう、心に落ち着けたらいいのか、まだまだ、わからない。「社会」の制度に、この重さの一部を、肩代わりしてもらいたい気持ちがある。

.......ご本尊は、「サービスします」ということで、ただ、だった。画集の仏画よりも、ずっとちゃちな印刷物がペラリとあるだけだ。これに魂を入れるなんて、ほとんど、信じられない。こっそり、わたしの絵にすり替えておこうと思う。たぶん、そのペラリの後ろに仕込んでおいて、あとから、ペラリを取り除く。わたしのいれた魂と、お坊さんの魂が、お経のパフォーマンス時に、戦うのだろう。まずいかな。

ずっと前、好きだった南米の映画『南東から来た男』を、どこかのサイトから、友達Hがダウンロードしてくれて送ってくれた。20年ぶりくらいにちらりと見た。当時、本当にミステリアスに見えた主人公の男が、今回は、単なる気違いに見えた。むしろ、映画を作った側の意図とか、そんなことが気にかかる。フィクションはフィクションとして、見るくせがついた。それでいいんだけど。つくられたイメージが、大事なのではないということです。

......関係ないけど、友達Oに勧められて時々見ているブログ。アメリカ批判的ウオッチュアーという人でしょうか。そうとう厳しく批判する拳をあげ続けておられるが、「期待」がないと、ウオッチャーもしていられないだろう、とも思う。

...... わたしは、人間の話ばかりする人がきらい。疲れる。

25.1.10

キリストの身体

友達のKが、引っ張り出してくれたので、今年、はじめて電車に乗ってでかける。写真美術館で、チケットを3つ買い、たくさんたくさん写真や映像を見た。それから、多摩美に行って、また、写真や映像を見る。C&Mの若者たちの作品も、楽しむ。

その帰りの副都心線の中で、没頭して読んでいたのが、『キリストの身体 血と肉と愛の傷』(岡田温司著、中公新書)。図像や彫刻のキリストのイメージについて、西洋宗教史、美術史の文献から、読み解くもの。穢れと聖は対極でありながら、同じであること。あるいは、相殺しあうものであること。エデンの園での禁断の果実を食べるという禁断、負の食の遺産である「原罪」は、キリストが最後の晩餐で、パンを示しながら、自分の肉であると言い、それをわけ合って食することをすすめたこと=「聖体拝領」によって、ひとまず、帳消しにされるのだそうだ。それは、教会における聖体拝領と同じといえる。さらに、葬式での会食は、死者にはできないことを、選ばれた生者が共に行うことで、共同体の結束を固める。するとこの場合、帳消しにされたのは、何だろうか。いかなる罪か? 

 そんなことを読みながら、降りる駅に着いて、あたりを見回すと、生きて動いている人たちのすべてが、実体のない幻に見えてきた。写真の見過ぎか? すべて、映像、画像の世界のもののように見える。皆、わたしに背を向けて、ランダムな動きを止めない。皆、私の頭の中で、勝手に動いているイメージに過ぎないように見えてくる。どの人もいずれ、身動きをしなくなり、腐敗をはじめるまでの、束の間の、一瞬の出来事を、目撃しているような気がしてくる。そして、それは、たぶん、思い違いではない。

帰って、机におかれていたので、開いた本『人間というこわれやすい種』(ルイス・トマス、晶文社)は、ニューヨーク大学の病理・医学者によって書かれた医学エッセイ。ここでは、「脳は、この宇宙で最も複雑で精巧なものであり、おそらく宇宙そのものすらもこの中に含まれているかもしれないのだ。実際、宇宙じだいが脳なしには、存在しえないと考える人々がいる。つまり、人間の脳が実在であると知覚するものだけが実在なのだ」と書かれていた。

本は適当に手に取って、開いているだけである。それらは、わたしにしきりに、メッセージを送ってくる。



以下の写真は、全く関係なしだが、Facebookでの最年少のmy friend、クロアチアのMikota。8歳くらいだったかな。日本のアニメファンなのだ。ナルトとか、遊戯王とか。さて、写真は、何屋の前だろうか。マメ屋? 種屋?

24.1.10

絵を描いて、魂入れず

まだ仏事から、逃れられない。魂入れというのは、「墓」「位牌」「仏壇の仏像」の3種類があるそうだ。ちょっと、わからない。仏像は、作った人間が、魂を入れればいいような気がする。セットで、七万円。モノより、パフォーマンスに値打ちがあるらしいよ、この世界では。

絵を描いて、魂入れず。


夕方、葬儀屋の営業マンがやってきて、一時間30分話し続けた。息継ぎがなかったような気がする。聞いていた、母は、目がまわったと言っていた。
感じが悪かったわけれはないけれど、たばこ臭いので、こちらは、息を止めがちだったため、わたしも酸欠になった。
「ええ、競争に勝たなくてはなりませんから」と、言っていた。わたしが、あれこれと、聞いたし、いろいろなことも教えてくれた。「.....で、そのサービスのメリットは何ですか?」の問いに、つい、答えてしまったようだ。そして、すかさず、言い直した。「サービスというより、ケアですね」

働き過ぎだと思う。過労死しなければ、いいのにと、お帰りになる、後ろ姿に、お祈りをした。

22.1.10

子象

銀行、JCBカード、保険などの変更手続き。こういう場合の銀行とのやりとりには、コツがいるらしい。資産があるわけではないから、凍結はそれほど、怖くはないはずだけれど、随分、いろいろな人に、脅かされた。まあ、凍結という言葉の威力にやられるんではないだろうか。たぶん、うちの場合は、面倒なことが増える、という程度だろう。それでも、それを最小限におさえるために、注意深く、振る舞う。
各種公共料金、税金の払い方の変更などを時期を計算しながら、行う。家財保険も、資産だとは知らなかった。
などなど。疲れる一日。いらだつ母.......長年愛用したカードを破棄しなくてはならないのも、案外大きなストレスだ。

以下、友達がメールで送ってくれた写真。かわいいから、意味ないけど、のせる。


未来はあっても、なくて、今日は暮れる。

インターネットライブ念仏

ライブ念仏
あるそうです。おもしろそう。

浄土宗。法然上人800年大遠忌。

21.1.10

ソーシキ。

.........伊丹十三が感じたようなことを、感じるのかな〜と思ったら、そうでもなかった。
時代もあるかもしれない。

来て下さった私の友人の方たちに感謝。ありがとう。




香典返しのリストを作る為に、エクセルを起動した。同じマンションの人が、40人も来ていたのに、驚いた。地域社会は、やはり、強いのかもしれない。遠い親戚より、近くの顔見知り。





ひさしぶりにパソコンあけたら、せっぱつまった用事が一杯になっていた。たは〜、明日からのことで、頭がいたい。

17.1.10

決め事の本質 2

きのうの日記を書いたら、メールでコメントもらった。

「日本は、殺人が減って、自殺が増え続けている。他人と協議せず、自分ひとりで、決め事をしてはならん。」といったようなこと。確かに。わたしが、へえと思った2人の先輩の(先生も大学の先輩である)意見である「結局、人がどう思おうと自分で決めたらいいのだ」という言い方の危うさを指摘している。たしかにそうだ。

 わたしも自殺系の人間だと思う。相談しても、思うようでないと、無謀でもひとりで行ってしまう。というか、相談にのってくれる人など、いないしね。「ん〜、それは自分で決めてくださいよ〜」という返事が聞かずに、聞こえてくる。そういえば、昨日書いた、先生の口癖は「それは、あんたの問題でしょう〜」だった。

 たぶん、人は、自分に相応しからぬ社会にいると思えば、相応しい社会を探して、そちらにゆこうと努力する。だが、それがかなわぬ時に、自分では相応しくないと思う社会に居続けることになる。しかし、そこの社会の「のり」をはずすと、強力な抵抗にあい、孤立する。その時に、自分の理想を捨てれば、あっさり、生きやすくなるのだろう。もしかしたら、死ぬのさえ、楽になるかも。その社会のためなら。

理想を求めて生きることは、それほど大事なことではないのかもしれない。生きることで、学ぶことは、もっと違ったところにあるのかもしれない。

 ところで、きのう書いた「あれ」という決め事は、その社会で「あの人が決めるなら、それで良いだろう」と思うような人が、大事なことを決めてゆくシステムのことを言う。それは、権力者であったり、年長者であったり、その道の専門家であったり、人気者であったり、根回しの上手な人であったり、霊能者であったり、する。その決めた内容が、「大正解」かどうか、ではなくて..... というか、正解があれば、それにこしたことはないけれど、正解のないようなことに関しては........ 決断をあずける存在を求める、ということ。

 人は、事実のすべてを知らされたからと言って、自分で、それを解決できることは、めったにない。むしろ、知ってしまうとかえって、動けなくなることも、多い、のも確かだ。なので、「他の力」というものを、使う、というのが、昔の人の知恵なのだろう。

「あなた決めて!」と、言えるようになることも、大事なのかもしれない。人を信頼する力、今こそ。

と言ってみる。.......しかし、日本の近代史が、それを、しにくくしているのだ... と思ってしまう。..........