23.4.10

young blood

まだ、その話かと思われそうだけど、少し、書きます。

父の入院先に出かける道々、いつも聴いていたiPodの中に入っている曲で「Young Blood」というのがあります。当時、そんなタイトルだなんて気づいていなかった。これを、リフレインで何度も聴いていました。

なぜ、あんなにかわいそうなことになったのだろう、ということが、繰り返し、繰り返し、今の私に押し寄せます。でも、程度の差はあるにしても、誰にしても「亡くなりかける」ということのは、「かわいそうな」感じが抜けないものです。
なぜなんだろう?
時々、亡くなるのがわかってからの人のお顔が「だんだん仏のような優しいお顔になる」と言うような事をききます。本当にそうでしょうか? そう思いたいだけではない? 少なくとも父は恐れと寂しさで一杯のように見えました。夜中が怖くて、暴れていました。みとるほうも、いくほうも、「さびしい」とか「かなしい」とか、そういう気持で満たされてしまいます。なぜ? 人生で一番大切なはずの瞬間が、なぜ、そういうマイナスな印象で記憶されるのでしょうか? 

何かが、欠けている.......。生きるということの理解に、何かが欠けているからだと思うのです。勿論、意味付けなんて、人間の勝手な妄想でしょう。でも、悲しいというのも、妄想。猫や象も悲しいだろうか?そんな問は、意味がないかな。生きることが美しいなら、死ぬものはもっと美しいはずだ。なぜ、そう思えないのでしょうか。

父が寝たきりになって一年の間に、中学3年生だった孫の身長が15cmくらい伸びました。彼はお見舞いにまる一年行かなかったので、一年ぶりに見た孫の「でっかくなった」姿を見て、父は、「まじ、ぶったまげ」ていました。まさに、「ぶったまげ、」という顔でした。目玉をぐりぐり動かして、見つめていました。それが、とても、楽しかった。みんな楽しかったと思います。成長は、なぜ、こうも朗らかなことなのでしょうか。


わたしがC&M Tをはじめたのは、そういうことと、まるで関係がないわけではありません。

個人の死は、ひとつの物理的個体の消耗衰退にすぎない、と誰か言いました。


このごろ、Twitterをよく書きます。忙しくても、一瞬の間に書けてしまうから。世界とつながっている、という妄想が、わたしを安心させるから。でも、1ヶ月書いて、それが妄想だとよくわかりました。
なので、自分のメモであることを原則にしようと今は考えています。

そのメモを日記形式にまとめてくれるツールがありました。こちら