1.4.11

母の疲労

考えてみると、うちは2008年の暮れに父が倒れて以来、ずっと、同じような空気が続いていたみたいだ。この地震が、父が倒れる前だったら、私たち家族の「びっくり」はもっとだっただろう。たのしくて、のんきな日々に突然やってきた、という感じになっただろう。でも、うちの50 年は続いていた「のんき」な生活は、とっくになくなっていた。父が倒れて、寝たきりになった日から。

今年の1月は、父の喪があけて、母はようやく、何かを始めようとしていたところだった。確かに、我が家では、私の部屋の本と書類がひっくり返ったこと以外に、さほど、被害はなかったと思う。だが、78歳の母にしてみてば、節電で風邪をひいたり、買い物に気を使わなくてはならなかったり、テレビが毎日、不幸で不安なニュースばかり送ってくるのでは、疲労するばかりだ。だからって、テレビがおもしろおかしい番組をしてくれればいいというわけではない。社会の不安は、ごまかせない。
母は、疲労している。母が、第5くらいの人生を楽しみ直そうと思った矢先に、より不安の多い世界になった。
しかも、市役所から「介護予防」と銘打った「プロジェクト」のお知らせが来て、これから、彼女が直面するかもしれない、「衰退」の可能性がびっちり書いてある「介護予防手帳」が送られてきた。つい、2〜3日前に、彼女は本のかたづけをしていて、私が生まれた頃の「母子手帳」を見つけて、読みふけって、とても楽しかった、ばかりなのに。
その「介護予防手帳」は、彼女にとって、「不幸の手紙」みたいなものだったみたい。一晩眠れず、起きてみたら「5歳はふけた気分」だったそうだ。

だからって、私には対策はない。かわいそうだけど、彼女の試練かもしれない。せめて、彼女の好きな推理小説を次から次へと買ってきたり、おいしいものを作ってみたり、失敗してみたりするくらいしか、することが思いつけない。

明るいふりをして、だまされるほど、母は馬鹿ではないから。

そして、私は私を試し続ける。
アーティストだとかいう言葉に甘えない。
アーティストとは、職業ではないし、芸のできる人でもなく、「体質」なのであるから、もし、わたしの疑問が「おまえはくずか」であるならば、「くずでない」証明をするために、何かをする。もし、私のすることが、ものをつくることではなくて、パフォーマンスであり、それが、ショーケースにとどまるつもりがなく、Missing in Yokohamaみたいに、「生活空間」の中で問いてみたいと思うならば、それを、実践するしかないのだ。

それは、
これを読んでいる人が、想像しているかもしれない「東北のために役立つ」では、実はない。結果的にはそうなるだろうけれど、私が、私に課しているのは、別のこと。

それも、また、母の疲労のもとなんだろうな。

..........せめて、ジョークを。
よし、あしたから、ジョークの連発にきめたぞ。
おとうさんのまねをして。(あの人、ちょっと軽い人だったのよね、と母は言う)