20.4.11

アーティストの分?

私は悩んでいる。



アート作品って何なんだ? お金にすることができる。そして、それを義援金にする。それは一つの側面だし、それは意外とストレートで「分」をわきまえた考えかもしれないと思う。

一方、アーティストは、アートのアイデアを社会活動にしたい、表現活動として人々の役に立ちたい、と思うかもしれない。アートのお客さんを対象とした展覧会などで行なうのは、きっとやっている人もいるし、もっとあってもいいと思う。
  しかし、現地に入って行き、現地の中で、「義援」として行なうのはどうだろう。アートは本来、そういうことに深く関わっているはずだから、そういう役割は担えるだろうと私は思う(私は思いつかないけど)。ところが、友だちなど数人の人たちには、今はアートの出番ではない、アートは落ち着いてからだという意見が多い。もちろん、今すぐではないにしろ、準備している人はいてもいいかもしれないと私は思っている。もしかしたら、1枚のカレンダーに描かれた絵画が、誰かを癒しているかもしれないと思う。反対する人たちは、アートは「余裕のある時に楽しむもの」と考えているのではないか?と私は考えてみた。それとも、私が、アートに過剰な思い入れがあるからなのか? わからない。


さて。とある、有名国際アーティストがアースワークという形で、東北で作品のプロジェクトをしたいと言っている。そのアイデアには興味はあるけれど、だんだん、考えるにつけて、アートのアイデアを、こういうところで生かすには、たくさんの矛盾が出てしまうのではないだろうかと私は思うようになった。単純に「善意」と言いきってしまうことはむずかしいのではないか?と。喜んで受け入れられるか?の問いだけでなく、プレゼントとして贈ったとしても、そのプロジェクトの成功は、彼のキャリアなのだ。
そして、私は感じてしまう、アーティストの仕事の成功は、本人と、その回りで仕事した人のものにしかならないのではないか?しかも、彼の輝かしい実績の上にさらに、のっかってゆくことになる。世界最悪の惨事がきっかけになって。
それを、一般の人たちの多くと、本気で共有できるだろうか?「無名」の地元の被災したアーティストはどう感じるだろう?
やはり、アートは余裕のある人のためにあるのだろうか?
(マスターピースの発想がその可能性を阻んでいる。なぜ、遠くからやってきてそれをするのか。日本の為に何かしたいという言葉をそのまま聞くには、アーティストという生き物は名誉を求めすぎる。きれいごとは似合わない。地元の被災したアーティストから発せられたものに、賛同するという形なら腑に落ちるけど。あるいは、被災した地元にアーティストにアドバイスして、手伝うよというのも、良さそうだけど。)

社会彫刻。うん、わかっている。でもそれも、アート関係者にしか、通用しない概念なんだ...........


う〜ん。......................アーティストは、自分の表現に、あまりに多くを求めてはいけないのではないかな。たとえ、パフォーマンスのアーティストであろうが、「社会を変える」ようなことを考えるのは、どうか。やはり、アートとは「アーティストとアートファンの世界のことであり、それを文化と呼ぶのは、やはり、それが文化だからだ」。「人間の感情を扱っているからだ。」それは、誰にでも、うれしいものとは限らない。だから、アートスペースがあり、アートイベントがあり、観客は、それらの中から選ぶことができる。そして、被災地で、お客を選べるかどうか。


  たとえば、カズオイシグロの小説を読んだ人は、それを読んで感じた自分の心に、賛辞を贈るべきだと思う。たとえば、その小説のフレーズが、身近な人を亡くした後の心の痛みを癒してくれるかもしれない。カズオと出版社に対しては、本代を払い、小さくサンキュウを言うだけでいい。むしろ自分の心の動きをじっくり味わうべきだろう。それを選んだ偶然や、それを想像力を持って読み込んだ自分のセンスを、しみじみと感じるのが大事だ。アーティストは、その「発見」のために、いくばくかの報酬をもらう。それだけの「分」でいいのではないか。


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  あした、秋葉原のDress Hallという、小さなライブハウスで、パフォーマンスをする。人が忘れてしまうような、ささやかな「喪」のアクションをしたいと思う。しかも、これは、今回の災害の死者たちだけでなく、すべての、これまで「逝った」、身近の人たちに届けたい。そして、参加した方たちには、それは「ちょっとしたこと」という程度に、記憶してもらいたいと考えている。