10.8.10

市民の表現手段、としてのメディアと、わたし

もし、無条件で受け入れられるコミュニティがあるとすれば、それは、そこに住んでいると言う場合です。日本ではとりあえず、それは保証されている。もし、私が外国人であっても、おおよそ大丈夫でしょう。この「おおよそ」がかなり心配ではありますが、ここでは、この点は置いておきます。私は、無条件ではアキハバラには受け入れられない。東京のアートというコミュニティでもはずれている。東京を普段利用している東京とその周辺の市民という意味では、通過、短期滞在を許されている。

今朝からきのうの続きとして考えているのは、秋葉原という町と、一般的なローカルな町との決定的な差は、秋葉原がそこに住む人だけによって「生活」されている町ではないということです。秋葉原は、東京駅からほんの3つめの、しかも乗換駅です。東京近辺の方たちにとっての利便性を高めるあるべきだと東京都が考えるのも、当然かもしれません。電気街、パソコン、ITとくれば、先端技術のラボを誘致するという文脈は、一応成り立ちます。でも、電気街の商品と、先端技術はずれています。電気街の商品は、オタクカルチャーにシンパシーがありますが、先端技術は、国家や大企業主導のものです。文脈はあっているけれど、このことで、電気街にお金が落ちることはあまりないに違いありません。電気街から見ると唐突でも、それ以外の市民から見ると、納得いくものかもしれない。いつまでも、オタクカルチャーが続くわけでもないし、あくまでも、サブであり、あれほどの一等地を牽引していくカルチャーではない。

さて、MediAction としては、どうなのでしょう。MediActionで言っているメディアとは、官主導のものではなく、市民の自分たちの表現手段としてのメディアです。それは「おたく」のメディアとも、「先端技術」のメディアとも違うように思います。

秋葉原で、多くの人を殺してしまった若者は、ネットでの他者との交流を、頼りに生きていたと言います。ネットでの会話は、しばしば、オタク会話になりがちです。「市民の声」である、その区別はどこにあるのか? ここがまだ、私は、わかってない。


そして、もう一度、戻りますが、わたし自身は「点」の人間です。様々な人とのつながりはありますが、それはニットとはなっていない。私の声を、「市民の声」と言うことはできないと思います。とすると、ここでのわたしの表現はどうなるのでしょう? あるいは、わたしの「点」の表現を、市民が、なんらかの方法で、支持する(おもしろがる)、という形が望ましい。もしかしたら、「オタク」カルチャーに似たものなのかもしれない。分類では、そうなってしまうけれど、そのあたりの違いを考えてみたいです。