10.8.10

東京というコミュニティと私

自分を振り返る暇も少なく、様々に起こってくる問題を考えております。考えの方は、発展しているようですが、目に見えることの変化は少しです。

MediActionsという展覧会に参加することになっており、そのプレイントとして、昨日、Mapping Dateという秋葉原の町を、歩いて、地図を作る企画があり、参加しました。その機会にと、先週「秋葉原は今」という本を読み、秋葉原について調べました。自分の興味としては、まずその町の変遷、それから、再開発計画で、様々な人たちの考え、都合、思い、希望などが、どう進展して、どんな結果になっているのかも、興味深いものでした。歩くと、とにかく、窮屈な町です。のびのびできるところはほとんどありません。様々な文化があると言われていますが、どれも、消費者として関わらなければ、良さがわかるというものではないでしょう。ぶらぶらして楽しいという町ではないです。わたしは、昨日は2人の参加者とともに、再開発ビルのどこまで、自由に入れるのかどうか、という視点で、侵入しました。すぐに警備員さんに止められます。3人で、いろいろ感想を言いながら歩くのは楽しかった。なぜ、これはこうなのだろうか、などと推測、想像、妄想しながら。なかなか良いトリオでした。
ただ、個人的な悩みとしては、そういったリサーチを行いながら、どう自分の芸術家として関わり、作品を作るか、がまだまだ、ぴんと来ていない、ということです。
まず、ローカルなコミュニティ 対 行政の都合、という構図があります。ローカルなコミュニティというものが、人間の生きていく基盤に必要なものだということはわかります。だから、芸術家としての立場は、コミュニティ側にシンパシーがあります。
しかし、これまでの、私のストリートでのパフォーマンスは、無責任なことに、旅人としての行動でした。コミュニティのための行うということは、全く、ありません。参加型と言っても、参加してくださっている方たちと共有しているものがあるわけでもありません。避けていたからではなく、縁がなかったというべきでしょうか。「私のコミュニティ」ではないから。もし、彼らがアーティストに何かを求めたとしても、彼が求めていることがあるのであって、私の芸術家としてのキャリアで積んで来たことが、彼らの求めていることとつながるかどうか、わからないのです。

わたしは、社会から孤立した人間として、作品をやってきたのです。

わたしでも人間ですから、なんらかのコミュニティに参加しているはずです。私のコミュニティといえば、もっとエリア的に広くて、「東京」と言う場所です。そのことを、今年はじっくり感じたいと思っています。なので、この企画はその第一歩です。でも(笑)、わたしは埼玉県人です。ははは。ことはシンプルではない。
東京というバックグラウンドには、アートは驚くくらいたくさんあります。正直、わたしが付け加えるべきことがあるような気がしない。皆さんの欲しいものは、もうすでに、たくさんあるんではないですか?

縁があって、エマさんというキュレーターが、わたしを彼女の企画に、入れてくださいました。感謝している。他の人になくて、私にあるものがあると、考えてくれたのです。私は、ここで考えています。
私はたぶん、秋葉原の町会の方たちに、喜ばれるような表現をしてきた人間ではないのです。技術も、テクノロジー系とは言いにくい。身体というメディアを扱って来てはいる。わたし、独特の、物事との関わりかた、これしかありません。
わたしが、育んできたことと、この企画との出会いで、何かがスパークして、現れることを祈っています。でも、まだ見えません。やはり、孤立している、ということでしか、どうしようもありません。

昨日は、展覧会会場となる3331ArtsChiyodaから帰る時、少し歩いて、上野駅まで行きました。東上野口という入り口から、入りました。階段がたくさんあります。その階段の所に、たくさんのホームレスの方がおられました。増えました。ショックでした。ざっと見たところ、30人はおられると思います。わたしには、このことの方が、ずっと、胸にせまる。電気街の商店がつぶれても、長い事、儲けてきたんだし、永遠ってのはないでしょう、という気持がいます。そうだ。シンパシーがあまりない。

誰のために表現をしているかと言うと、結局のところ、全く自分のためなのです。社会人として、言葉を発する私とは全く違った、私の心をさらすことしか、しようがありません。そして、共有できる人が、おられればうれしい。私は、それの心を特定の個人のものだと思いません。特殊な誰かとしての、自分ということは考えたことがありません。むしろ、匿名的な私の気持なのです。やはり、だから文化なのです。社会から食み出てしまうような気持ちを、誰だって持っている。その気持へのシンパシー。そうなのです。それも文化でしょう。はぐれてしまう気持ちを、拾うことが、私の倫理。社会への抵抗なのです。

だから、どうしたら、良いのか。私が立っているところに、私がすることはありますか? それはやっても良いことでしょうか。