1.10.08

豊田

きのう、豊田市まで行って、「不協和音 6人」を見たし、パフォの手伝いをしてきた。

豊田市美術館の、お金持ちぶりにも、展覧会の内容の濃さにも、驚いた。聞く所によると、美術館の予算の半分は、TOYOTAが出しているんだそうだ。でも、お金だけでなくて、丁寧さにも、感心しました。
高級そうなレストランには、おそれをなしたが。でも、ランチ1000円はお得です。

6人のうち、4人はフルクサスのアーティストで、「生活の中のアート」を目指しているけれど、これほど、現代において、フルクサスの価値が上がってしまうと(国内ではぴんと来ない人が多いと思うが)、やっぱり、イクスペンシブアーティストだ。小野洋子さんは、ともかく、たぶん、最も、庶民視線の斉藤陽子さんの展示こそが、もしや、一番、お金も手間ヒマもかかったかも。少なくとも、手間ヒマはかかっている。税関で、検疫も大変だったそうだ。テマヒマが、かかるというのは、わたしたちのイベントと違って、職員の給料やアーティストのギャラや滞在費や旅費として反映される。

それから、気がついたのは、何と言っても、サイトウさんとオノさんの、キャラクターの大違い。サイトウタカコさんのあふれんばかりの、「楽しむこと」に重点をおいた自由さ、むしろ、童心に帰ってと言う感じの作品の、真反対の場所に、オノヨーコさんの作品、血の付いた丸眼鏡がぽつんとあり、そのミニマルな強さに、はっとするとともに、他人への厳しさも感じた。世界を甘く見るなよ、というメッセージが濃厚である。何もかも、もう間にあわないという絶望もある。死という......。

一方、オノさんには、モダンアートの世界の技法への信頼もある。だって、そんなもの(血のついた丸めがね)がアートと言えるためには、ものが、何かを表象するというシステムを運用しなくてはならいでしょう。タイトルは「家族のアルバム」。人は、それに彼女の家族であるジョンを連想する。サイトウさんは、モダンアートのシステムには、まったく頼らない。自分の手仕事しか信用しない。自分の手以上のことは信じない。だから、展示も自分でする。サイトウさんが、父権的な家族という関係(世界のシステムのもっとも象徴的なものでもある)を徹底的に切って、ひとりで生きているという現実の、厳しさをそこに見る。そうやって、彼女は鍛えて来た。よりラディカルなフェミニストは、彼女かもよ。

企画者は、イタリアのムディマファンデーションというところ。フルクサスと具体の研究がテーマのひとつらしい。いわゆる助成をするファンデーションではなくて、企画研究する機関。コレクションだけでなく、普及活動がなのだそうです。特に、フルクサス、ジョージ・マチューナスを一番に見いだしたのが、ここのファンデーションのボス。アメリカ人ではなくて、イタリア人が一番に見いだしたんだったのね。具体も、認められたのは、あっちの方だったね。

自分の立場も顧みずに、こういうところへ行くのが、好きな、さきこであった。アートは権威主義だと思う、本来。だからこそ、反権力という、もうひとつの権力も、アートにあるのだと思う。権威づけとガス抜き装置として、自由民主主義国家のブンカ政策には、両方ともが必要なのです。きっと。