言葉は、特に日本語はもやっとしているので、案外隙間があるような気がする。言葉をあんまり信用していない人はけっこう多い。
でも、ビジュアルイメージはどうかな。絶望的なほどに、と思うのは、わたしのことかな。
だから、
体験的なものを取り込んだんだと思う。
にもかかわらず、体験そのものより、言葉を駆使したり、イメージを作る作業ばかり、している気がする。今は、展示のための準備ばかりだから、ストレスになっている。
言葉に頼りたくない。
でも、見た目って、どこまで、伝わるのか、わからない。
先入観の固まりなのが、視覚イメージだと思う。
だが、それだけではない、と信じる人たちが、ビジュアル系アーティストになったのだと思う。
わたしは、どうしても信じられないんだよ。
もっと、もっと、気配や体験を作ることの、プロフェッショナルにならなくては。
まだまだまだまだまだまだまだだ。
以下は、「天使の監視」より。写真、芝田文乃さん。
20.10.10
MediActions後半戦
9月26日より3331ArtsChiydaにて開催中の「 メディアクションズ」http://dis-locate. net/mediactions/
も、後半になって参りました。テークノロジー、メディア、 公共空間、ローカリティ、ジェンダーがテーマのイベントです。
今後の予定をお知らせします。 公共哲学カフェとの共催イベントもよろしくお願いします。
ワークショップ4 B1マルチスペース
10月23日(土)14:00〜18:00 映像を感覚的にコラージュする。
パフォーマンス B1マルチスペース
10月24日(土)14:00〜 シェン・ジー、ジャスミン・パテラ、ピリリャ・ターニャ、 山岡佐紀子
(*山岡の作品は『天使の監視』というタイトル。 秋葉原駅構内で行うパフォーマンスを、 観客は離れたイベント会場にて「安全に」に鑑賞します。)
ファイナル・ワークショップ 集合場所 B1マルチスペース
10月30日(土)14:00〜18:00 『モバイル・ティーパーティ』というアクションを参加者と屋外に て共に行います。 秋葉原がその発祥の地であるというリヤカーですが、
現在も段ボール集めに使われているリヤカーを1台借りて、町の「 開かれた場所」を求めて、のんきに移動式お茶会を行います。 是非ご参加を。
参加型イベント
10月31日(日)14:00〜 内容未定
展覧会 ギャラリーB
10月30日(土)〜13日(土)12:00〜20:00 ワークショップのドキュメントと、 滞在中のレジデンシーアーティストが制作した作品やパフォーマン スの記録。
共催イベント
11月11日(木)18:30〜21:00 ギャラリーB
公共哲学カフェ出前編「公共哲学×アート』 アートにとっての公共への期待、「公共哲学」 から見たアートをディスカションします。公共哲学は、公(官) と私の2分法ではなく、その2つをを媒介する場としての新しい「 公共」という開かれた場所を、 実践的に作っていこうとする動きだと、山岡は理解しております。 いわゆる「パブリックアート」としてではなくて、「 個人の居場所でもあるはずのあるアート」はこうした動きに、 どんな希望や活動を持って関わることができるでしょうか。 試みてみたいと思います。
モデレーター/宮崎文彦さん (千葉大学国際教育センター特任研究員、京都フォーラム/ 公共哲学共働研究所共同研究員[公共哲学担当])
コーディネーター/山岡佐紀子
協力/アライ=ヒロユキさん
共催/シリーズ『公共哲学』を読む会(NPO法人準備会)」 関連URL http://public-philosophy.net/
18.10.10
参加してもらったアクションは私の作品か?
この問いについては、「作品をやるので、参加していただけますか?」という姿勢で行ったものは、作品と言って良いと思う。私の「いっしょにやるアクションパフォーマンス」は、やるアクションそのものは、私のある意味「振り付け」だし、パーソナルな問題を扱ってはいない。「感情」や「事情」がそこにあるとしたら、それは「私の」ものだし、しかももしかしたらそれは、「私たち」のことして、共有しているものがあるかもしれない/あるに違いないだろう、という前提から来ている。一時的に、あくまで一時的に、「仲間」になった気分を、共有する。だが、別れれば、私たちは別々だ。思い出を共有したとしても。
そして、それがワークショップなら、それは作品ではない。それは、ドキュメントにする時は、はっきり、表示すべきだろう。写真にしても、そこで得られた何か、たとえば、参加者の書いた/描いたものは、決して、作品とは呼ぶべきではない。コーディネートしたということは、表すとしても。
一方で、アーティストが何か、誰かのパーソナルな要素を取材し、それを作品にした場合はどうなんだろう。そして、そのアーティストが、成功したら? 成功したいと思って行っているとしたら? しかも、そのパーソナルな人たちは、社会的弱者だったり、社会的成功から遠い人たちだったら? アーティストはヒーローなのか? それとも? 取材された人がヒーローなのか? まさか。それはさらにトリッキーなことになる。
ちょっと心配していることがあって、書いた。
そして、それがワークショップなら、それは作品ではない。それは、ドキュメントにする時は、はっきり、表示すべきだろう。写真にしても、そこで得られた何か、たとえば、参加者の書いた/描いたものは、決して、作品とは呼ぶべきではない。コーディネートしたということは、表すとしても。
一方で、アーティストが何か、誰かのパーソナルな要素を取材し、それを作品にした場合はどうなんだろう。そして、そのアーティストが、成功したら? 成功したいと思って行っているとしたら? しかも、そのパーソナルな人たちは、社会的弱者だったり、社会的成功から遠い人たちだったら? アーティストはヒーローなのか? それとも? 取材された人がヒーローなのか? まさか。それはさらにトリッキーなことになる。
ちょっと心配していることがあって、書いた。
16.10.10
公共のためのアートって本当にできるかな。
今、私はがベストを尽しているつもりの、この1ヶ月半のプロジェクト。これをやりとげて、私は成長するのか、あるいは、またゼロに戻るのか、それは、神のみぞ知る。
私にとっての最大の課題は、私はこれまで、ストリートにおいて、完全にゲリラで、怒られてもしかたがないが、イメージやアクションが面白いのでやっていた、という立場だったのに、今回は、公共に対して、責任を持つ表現を、試みるということだ。
私でなくても、今だ、路上は、ゲリラでしか、何もやれない状況。それでも、やることにより、公共の利益?福祉? 何か、希望を持てる方向のアクションをする、ということだ。
それは「モバイル・ティーパーティ」。しかも、私の作品としてではなく、4つの国から来た、まったく違う方向性を持つアーティストたちによって、共同制作される。ところが、ある者は、パブリックスペースへの問はあるが、それをすでに自分の作品としてて制作するノウハウが完全にできていて、コラボレーションという認識に、どうしてもピンと来ないと考えているみたい。ある者は、共産主義下に住み、アートとはエゴの欲望の表現であると確信しているので、公共の方向というのが、受け入れがたい。ある者は、共同制作というのは、理解できるが、外での活動にはちょっと尻込み。わたしは、ひたすらゲリラだった経験から、急に、オモテの人間になれるかな、と不安である。これをまとめるのは、何によるか。
これが、カケでなくて、なんであろう。
でも、この4人でできないことが、社会でできるわけがない(というのは、言いすぎでもあるけど)。
公と、私の間に、「公共」という場所を考える。ここでは、人は成熟した市民として、利他的に振る舞う、という理想。
10月30日、ほぼ、ハロウィンだよん!!
以下、大雨の中での9日の『Love or Not』。写真、芝田文乃さん。赤信号の時は、横断歩道の両側から、ののしり合っている。ありとあらゆるののしり言葉を絞り出す。青になった、横断歩道の真ん中まで出て行き、静かにハグしあう。5つの横断歩道で行った。御徒町に近い横断歩道から、ひとつずつ移動して、最後は、アキバの駅の真ん前の一番、にぎやかな場所だ。雨がだんだん激しくなって、エキサイトしていった。若い女の子の誰かにしがみついている姿は、やっぱりきゆんと来るね。相手が男であろうと、女性であろうと。
私にとっての最大の課題は、私はこれまで、ストリートにおいて、完全にゲリラで、怒られてもしかたがないが、イメージやアクションが面白いのでやっていた、という立場だったのに、今回は、公共に対して、責任を持つ表現を、試みるということだ。
私でなくても、今だ、路上は、ゲリラでしか、何もやれない状況。それでも、やることにより、公共の利益?福祉? 何か、希望を持てる方向のアクションをする、ということだ。
それは「モバイル・ティーパーティ」。しかも、私の作品としてではなく、4つの国から来た、まったく違う方向性を持つアーティストたちによって、共同制作される。ところが、ある者は、パブリックスペースへの問はあるが、それをすでに自分の作品としてて制作するノウハウが完全にできていて、コラボレーションという認識に、どうしてもピンと来ないと考えているみたい。ある者は、共産主義下に住み、アートとはエゴの欲望の表現であると確信しているので、公共の方向というのが、受け入れがたい。ある者は、共同制作というのは、理解できるが、外での活動にはちょっと尻込み。わたしは、ひたすらゲリラだった経験から、急に、オモテの人間になれるかな、と不安である。これをまとめるのは、何によるか。
これが、カケでなくて、なんであろう。
でも、この4人でできないことが、社会でできるわけがない(というのは、言いすぎでもあるけど)。
公と、私の間に、「公共」という場所を考える。ここでは、人は成熟した市民として、利他的に振る舞う、という理想。
10月30日、ほぼ、ハロウィンだよん!!
以下、大雨の中での9日の『Love or Not』。写真、芝田文乃さん。赤信号の時は、横断歩道の両側から、ののしり合っている。ありとあらゆるののしり言葉を絞り出す。青になった、横断歩道の真ん中まで出て行き、静かにハグしあう。5つの横断歩道で行った。御徒町に近い横断歩道から、ひとつずつ移動して、最後は、アキバの駅の真ん前の一番、にぎやかな場所だ。雨がだんだん激しくなって、エキサイトしていった。若い女の子の誰かにしがみついている姿は、やっぱりきゆんと来るね。相手が男であろうと、女性であろうと。
15.10.10
信じられるかどうか
土日月とMediacitonsの忙しい仕事をこなした。土曜日は、ワークショップとパフォーマンス。パフォーマンスは、参加者とともに、じゅうぶん、刺激的にすごせたと思う。参加してくださった方たち本当にありがとう。
月曜日のシンポジウムの時の、わたしの発表として、原稿を用意した。テクノロジーと身体、メディアとしての身体、公共空間の中の身体、という3つのテーマの原稿を書いたが、半分も読めなかった。わからんよ、まだ、原稿と時間の関係は。それから、参加したシンポジウムの先生方にちょっと疑問があったので、問いかけたが、私の態度がどうもアグレッシブだったため、身構えられてしまった。考えに、問いがあっても、黙っておくのが、大人なのかな。
それから、ワークショップは、レジデンシーのアーティスト4人で作ることになっている。でも、何人かは、その意味が、なかなか理解できないらしい。関わりたくないと、ミーティングに参加しなかったり、参加してても自分の作品の話になってしまうアーティスト。
いっしょに何かを作ったとて、キャリアになるのか?
「みんなで****を」なんて信じないという人もあるのだろう。
個別の作品のスキルをアップしてくことこそ、アーティストには必要。
だけど、才能を出し合って、何かを作ることも、それは興味深いことではないのかな。考えがぶつかりあってつまらないものになると、考える人もあるだろう。
月曜日のシンポジウムの時の、わたしの発表として、原稿を用意した。テクノロジーと身体、メディアとしての身体、公共空間の中の身体、という3つのテーマの原稿を書いたが、半分も読めなかった。わからんよ、まだ、原稿と時間の関係は。それから、参加したシンポジウムの先生方にちょっと疑問があったので、問いかけたが、私の態度がどうもアグレッシブだったため、身構えられてしまった。考えに、問いがあっても、黙っておくのが、大人なのかな。
それから、ワークショップは、レジデンシーのアーティスト4人で作ることになっている。でも、何人かは、その意味が、なかなか理解できないらしい。関わりたくないと、ミーティングに参加しなかったり、参加してても自分の作品の話になってしまうアーティスト。
いっしょに何かを作ったとて、キャリアになるのか?
「みんなで****を」なんて信じないという人もあるのだろう。
個別の作品のスキルをアップしてくことこそ、アーティストには必要。
だけど、才能を出し合って、何かを作ることも、それは興味深いことではないのかな。考えがぶつかりあってつまらないものになると、考える人もあるだろう。
6.10.10
「Love or Not」「天使の監視」「モバイルティーパーティ」
今月は3つのパフォーマンスがあります。2つめと、 3つめは日程が決まってませんので、 あらためてご連絡いたします。
どれも、秋葉原の3331 Arts Chiyodaで行われている「MediAcions」 でのものです。まずは、 3331のMediActionsのスペースにいらしてください 。無料です。
場所 http://www.3331.jp/
企画 http://dis-locate.net/ mediactions/
mediActions パフォーマンス企画「メディアボディズ」
山岡佐紀子作品『天使の監視』 日程は未定 たぶん10月24日(日)
秋葉原の駅を、キリスト教会(十字型ですから)に見立てます。 iPhoneのskype機能を使って、 秋葉原駅の中でいろいろなことをしている私の姿を、 離れた3331のスペースで、皆さんが「監視」します。
どれも、秋葉原の3331 Arts Chiyodaで行われている「MediAcions」
場所 http://www.3331.jp/
企画 http://dis-locate.net/
mediActions パフォーマンス企画「メディアボディズ」
10月9日(土)18:00〜 他にピラ・ターニャさん、門倉緑さん、 村上裕さんが出演します。
山岡佐紀子作品『いっしょにやるアクションパフォーマンス「 Love or Not」』
秋葉原の繁華街のいくつかの横断歩道で行います。 6月に銀座のApple Ginzaの前で行ったものと同じですが、3〜 4の横断歩道を移動しながらの、拡張版です。
誰にでもできる簡単なインスタラクションによるラブリーなもので す。 コミュニケーション不全にものともしないタフで陽気な精神から、 わいている作品。
秋葉原の繁華街のいくつかの横断歩道で行います。
誰にでもできる簡単なインスタラクションによるラブリーなもので
いっしょにやりましょう。ながめるのもよしです。
山岡佐紀子作品『天使の監視』 日程は未定 たぶん10月24日(日)
秋葉原の駅を、キリスト教会(十字型ですから)に見立てます。
他のアーティストとコラボレーションするかもしれません。
コラボレーティブワークショップ『モバイルティーパーティ』 10月30日(土)14:00~18:00
移動するお茶会です。 テーブルとパラソルのセットお茶セットをリヤカーにのせ、 居心地のよい場所を求めて移動します。 様々な宛先の段ボールのボックスを用意して、 手紙やメッセージや殴り書きなどを投稿するコーナーがあります。 この手紙は、後の展覧会で、コラージュとして展示されます。 実際に、どなたかのポストにお届けすることも考えています。 おしゃべりしながら、楽しくやります。 ジェンダーがらみになるかもしれません。これは、 アーティストたちのワークショップという形をとります。 記録映像は、後に3331に展示されます。
日程などが、はっきり次第連絡します。
コラボレーティブワークショップ『モバイルティーパーティ』 10月30日(土)14:00~18:00
移動するお茶会です。
日程などが、はっきり次第連絡します。
この他、11月11日には、同場所にて、公共哲学カフェ「 公共哲学×アート」というイベントを18:30より行います。 これも、詳細は改めてご連絡します。
MediActionsのメッセージの書かれたTシャツもつくっ てますので、これも御興味があれば、問い合わせてください。
29.9.10
言語化されない声
サバルタンという言葉がある。ググってみて驚いた。間違った解釈が書かれたりしているので要注意。私だってそう詳しいわけではないけれど、たぶん、私の解釈はたぶん大丈夫(笑)。「サバルタンは語ることができるか」というスピバクというインド人の女性学者によって書かれた書物がある。私には筆力がなさ過ぎるので、知らない人で、ちゃんと知りたい方は「サバルタン」と調べずに、本のタイトル「サバルタンは語ることができるか」ごと、ググってください。勿論、本を手に取ってみるのが一番早い。
それで、私流に簡単に要約すると、自らの声を語るべく言語を持っていない人々のことを言う。スピバクの著作では、インドの被支配層の女性などが、特にそれにあたる(非支配層が下層とは限らない)。だが、私は、その意味を広く解釈して、私たちも多かれ少なかれそうだと思う。アートは結局ところ西洋文化だ。どんなに「日本にも芸術がある」と叫ぼうが、それは骨董だったり、装飾だったり、まあそんなところだ。ああ、この話をしていると、長くなりそう。まあ、それは、所詮、借りている言語なのだ。もちろん、ハイブリット的に、自分のものにすることは可能だと思うし、そうしているがアジアのアートだ。
一方、アートも興味ない、文章も書かなければ、読まない、ほとんどしゃべることもないという人の中には、日本語すら、自分の「声」を表すためには使ってない場合もある。単に、他人との約束事を、やりくりするための「テクノロジー」としているだけで、自分の声はひたすら隠している人もあるだろう。にこにこするとか、うるせえと言って暴れたりする。お金で表現する人もあるだろう。お金は雄弁って言うね。また、好きな趣味の時だけ、没頭するとか、ね。引きこもりや、オタクと言われる人たちは、外と「心」を通わすために、日本語を使うつもりがほとんどないし、信じてないし、うまく使えない。逃げるし、かくすし、ごまかす。これも、コミュニケーションである。
うちには、保苅実という人の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という本がある。これは、保苅さんという若い日本学者が、オーストラリアのアボリジニの人たちを調査したものだ。彼はできるだけ、彼らの言葉で、書き記そうとしている。それは、日本語だとか英語だとかそういう問題ではない。しばしば、西洋人だったり、西洋的な民族研究のノウハウを学んだ学者が、彼らを「解釈」する際に、優越的な立場で持って「そんなことあるわけないじゃないか」という勝手な解釈を加えることがあり、その方法に抗ってみようとしているのだ。事実の受け取り方は、ひとつではない。それが、学問的に、問題があったりすることもあるらしいが、この保苅さんは、ベストをつくしていて、著作は結果、温かいし、すがすがしいものになっている(と思う)。
人は、口にしていることが、言いたいこととは限らない。どうしてもうまく言えないと感じている人もいれば、ぺらぺらそれらしいことを話すことに疑問がない人もある。借りた表現で満足している人もいて、それが面白ければ、他人は信じる。人は、「腑に落ちる」話を信じたいだけであり、真実を見極める力のある人は、ないと言いきってもいいかもしれない。だいたいにおいて、言語化されない声を、身体性なんて言っちゃうのよね。まあ、そうだ。
それで、いいじゃん。
結局のところ、人は「この人は信じられそう」とか「仲良くなれそう」とか「使えそう」とか「都合が良さそう」とか、そういうのを、言葉ではなくて、気配や経験則なんかで受け取ってる。
たとえば、フロイトの影響で、シュールレアリズムの人たちは、無意識を見つけるためにいろいろなことをしてみた。それが成功していたかどうかは別として、「あ、これって本当かも」というようなことは、論理立てて考えて出て来ることより、なんかの間違った組み合わせの中から出て来ちゃったりする、という経験は誰にもあるだろう。それらしいことの組み合わせで出て来ることって、それらしいだけなんだ。
てなわけで、現在の企画の「モバイル・ティーパーティ」では、「こんなことって思っているのかも」とか「それってありなの」とか、ばかばかしいことかもしれない、棚からボタ餅ではなくて、ひょうたんからコマみたいな、言葉のフラグメント集を作ってみたい。こりゃ、正攻法では出てこないと思うよ。
「わたしたちは、市民として声を持ちました。それは民主主義を語っているでしょうか」とはいいながら、そうでもないし、うぬぬ、どうなんでしょうか?
今、その「ひょうたんからコマ」が出てくるような、方法を考え中。
ワークショップなので、「こんなのどうでしょう?」ってアイデアがあったら、是非、お知らせくださいねっ。コラージュもいい方法かも。
それで、私流に簡単に要約すると、自らの声を語るべく言語を持っていない人々のことを言う。スピバクの著作では、インドの被支配層の女性などが、特にそれにあたる(非支配層が下層とは限らない)。だが、私は、その意味を広く解釈して、私たちも多かれ少なかれそうだと思う。アートは結局ところ西洋文化だ。どんなに「日本にも芸術がある」と叫ぼうが、それは骨董だったり、装飾だったり、まあそんなところだ。ああ、この話をしていると、長くなりそう。まあ、それは、所詮、借りている言語なのだ。もちろん、ハイブリット的に、自分のものにすることは可能だと思うし、そうしているがアジアのアートだ。
一方、アートも興味ない、文章も書かなければ、読まない、ほとんどしゃべることもないという人の中には、日本語すら、自分の「声」を表すためには使ってない場合もある。単に、他人との約束事を、やりくりするための「テクノロジー」としているだけで、自分の声はひたすら隠している人もあるだろう。にこにこするとか、うるせえと言って暴れたりする。お金で表現する人もあるだろう。お金は雄弁って言うね。また、好きな趣味の時だけ、没頭するとか、ね。引きこもりや、オタクと言われる人たちは、外と「心」を通わすために、日本語を使うつもりがほとんどないし、信じてないし、うまく使えない。逃げるし、かくすし、ごまかす。これも、コミュニケーションである。
うちには、保苅実という人の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という本がある。これは、保苅さんという若い日本学者が、オーストラリアのアボリジニの人たちを調査したものだ。彼はできるだけ、彼らの言葉で、書き記そうとしている。それは、日本語だとか英語だとかそういう問題ではない。しばしば、西洋人だったり、西洋的な民族研究のノウハウを学んだ学者が、彼らを「解釈」する際に、優越的な立場で持って「そんなことあるわけないじゃないか」という勝手な解釈を加えることがあり、その方法に抗ってみようとしているのだ。事実の受け取り方は、ひとつではない。それが、学問的に、問題があったりすることもあるらしいが、この保苅さんは、ベストをつくしていて、著作は結果、温かいし、すがすがしいものになっている(と思う)。
人は、口にしていることが、言いたいこととは限らない。どうしてもうまく言えないと感じている人もいれば、ぺらぺらそれらしいことを話すことに疑問がない人もある。借りた表現で満足している人もいて、それが面白ければ、他人は信じる。人は、「腑に落ちる」話を信じたいだけであり、真実を見極める力のある人は、ないと言いきってもいいかもしれない。だいたいにおいて、言語化されない声を、身体性なんて言っちゃうのよね。まあ、そうだ。
それで、いいじゃん。
結局のところ、人は「この人は信じられそう」とか「仲良くなれそう」とか「使えそう」とか「都合が良さそう」とか、そういうのを、言葉ではなくて、気配や経験則なんかで受け取ってる。
たとえば、フロイトの影響で、シュールレアリズムの人たちは、無意識を見つけるためにいろいろなことをしてみた。それが成功していたかどうかは別として、「あ、これって本当かも」というようなことは、論理立てて考えて出て来ることより、なんかの間違った組み合わせの中から出て来ちゃったりする、という経験は誰にもあるだろう。それらしいことの組み合わせで出て来ることって、それらしいだけなんだ。
てなわけで、現在の企画の「モバイル・ティーパーティ」では、「こんなことって思っているのかも」とか「それってありなの」とか、ばかばかしいことかもしれない、棚からボタ餅ではなくて、ひょうたんからコマみたいな、言葉のフラグメント集を作ってみたい。こりゃ、正攻法では出てこないと思うよ。
「わたしたちは、市民として声を持ちました。それは民主主義を語っているでしょうか」とはいいながら、そうでもないし、うぬぬ、どうなんでしょうか?
今、その「ひょうたんからコマ」が出てくるような、方法を考え中。
ワークショップなので、「こんなのどうでしょう?」ってアイデアがあったら、是非、お知らせくださいねっ。コラージュもいい方法かも。
28.9.10
メディアアクションズ、ワークショップ
MediActionsのこと。以下は、広報です。
きのう、アーティストたちと相談して、 今後のワークショップの方向性が決まってきました。
「モバイル・ティーパーティ」(仮題)
というと、なんだか、ハイテクそうですが、ここでは、 身体も道具も重さのある移動式、できたらリヤカー*を使って( 借りられたら)、地域を移動します。
あちらこちらで、お茶会をし、様々な「メッセージ」を集め、 箱につめて(?)、どこかに、配達する(しない?)、 ということ。
参加者の数が、まったく、予想がつかないので、 今週末の1回目をやってみてから、 今後の具体的方法を決めたいと考えています。
第1回 10月2日(土)14:00〜17:00 3331Arts Chiyoda B1
「私たちの身体そのものがモバイルなメディアであること」アーテ ィスト:ピラさん+ジャスミンさん+GOGOさん+山岡佐紀子
ということで、まず、活動のための、 Tシャツのデザインをつくります。
また、メッセージも相談して考え、デザインに入れます。 絵を描くのが好きな人か、言葉を考えるのが好きな人は、是非、 いらしゃってください。
それは、2週間ほどすると出来上がる予定。希望者には、 1000〜1500円くらいの値段でお分けします。
これから、屋外に出かけていくための準備です。( 選ばれなかったデザインも展覧会では、展示します)
土曜は来られないけど、Tシャツは欲しいという方は、 予約受け付けます!
問合せは、info@dis-locate.net まで または、わたしの方へ。
ワークショップの大事な要素としては、
- パブリックスペースの利用方法を開く。と言っても、
パブリックスペースなどどこにもないので、「居心地」 の良さそうな、短い時間でも、過ごせそうな場所をみつける。 - 「主張」という方法では出てこない「言葉」「メッセージ」
をひろう、言語にならない言語をひろう。 面と向かったり、 台に立つのではなくて、何かやりながらしゃべるという方法から、 メッセージをみつける。 - インターネットのメディアを媒体にするのではなく、
身体性というメディアを使う。テクノロジーやメディアについて、 本質的な意味を考える。 - パーティと言う言葉は「党」という意味もある。
言語はコミュニティによって作られるということを、実現する。
まだまだ、不十分な内容ですが、毎回の経験で、 アイデアをブラッシュアップしていきたいと思います。
*リヤカーは、 1920年頃の秋葉原で初めて作られたと言われています。 かつて、貨物駅や青果市場のあった秋葉原は、 物流の最先端だったというわけ。
もの/メッセージを届ける媒体なのです。
アジア的抵抗の術
MediActionsのアーティストが集まり始めました。もう土曜日には、公開ワークショップを、行わなくてはなりません。これから続く計4回の1回目であり、そのプロセスと最終展覧会というプレゼンテーションの両方を重視したものです。しかも、10月は、隔週月曜には、東京経済大学でのワークショップがあります。ハードです。
つまり、短時間に様々なことを理解しなくてはならないこと、責任がかなり高いということです。年長なので、まとめ役をさせられているところがあって、それはちょっと困るなあ。
きのうは、最初のミーティング。3331の地下1Fの私たちのスタジオで。朝11時から始まって、夜はレジデンシーに移り、11時間続けて話あいしました、勿論、2回の食事もしたし、お茶も飲んだし、30分ほどの昼寝もしましたが。主に、コミュニケーションということを話しました。運良く、方向性としては、近いものを持っているもの同志のようです。つまり、「コミュニケーション」に対して、ナイーブな(純粋、幼稚な)妄想を持っていないということ。これは、良かった。コミュニケーションの不全性について話した。面と向かって話さないで、メールで会話する人たちのことや、また、言語を自己の表現として持っていない人についても、出て来た。サバルタンな場合ということまで、想定しないと、「話せばわかる」になってしまう。欧米型の民主主義を理想としている人たちとは、違ったコミュニケーション法の象徴としてのアキハバラがある。「引きこもり」「おたく」「暴力」。論理的に説明して、闘争方法もノウハウのある現在闘争中の「渋谷系」とは、違う方法。私たちは「抵抗」「潜伏」「いたちごっこ」「無視」「流民」という方向性を提出したい。「市民運動」ではなくて「流民運動」と言っていいかな。「居心地」というのは、大事なタームです。居心地が悪ければ、どこかに移動してしまうんです。「民主主義」なんて言葉を、冷笑なしに口にできない。拳をあげたりしたくもない。しかし、もうひとつタイプの「民主主義」をあざ笑う力が、駅前にどんどんどん、3つ4つ、とそびえているわけです。じゃ〜ん。
まずは、これからの活動のために、Tシャツのデザインをすることにしていますが、そこの書く文字は、絶対日本語が良いというのです、ふたりは。なぜなら、英語にすると、「ファッション」になってしまうからだって。ワークショップもなるだけ、日本語だけにして欲しいというのは、私が大変になるんだけど、「英語をしゃべる外国人」だから、面白いかも、という空気に、抵抗したいらしい。さすがだな。
まあ、Tシャツをつくって、みんなで着るというのは、もともと欧米的だったかもしれないけど、最近のタイの市民の活動を見ると、アジアが、うまく自分たちの方法にしたものかもしれない。
つまり、短時間に様々なことを理解しなくてはならないこと、責任がかなり高いということです。年長なので、まとめ役をさせられているところがあって、それはちょっと困るなあ。
きのうは、最初のミーティング。3331の地下1Fの私たちのスタジオで。朝11時から始まって、夜はレジデンシーに移り、11時間続けて話あいしました、勿論、2回の食事もしたし、お茶も飲んだし、30分ほどの昼寝もしましたが。主に、コミュニケーションということを話しました。運良く、方向性としては、近いものを持っているもの同志のようです。つまり、「コミュニケーション」に対して、ナイーブな(純粋、幼稚な)妄想を持っていないということ。これは、良かった。コミュニケーションの不全性について話した。面と向かって話さないで、メールで会話する人たちのことや、また、言語を自己の表現として持っていない人についても、出て来た。サバルタンな場合ということまで、想定しないと、「話せばわかる」になってしまう。欧米型の民主主義を理想としている人たちとは、違ったコミュニケーション法の象徴としてのアキハバラがある。「引きこもり」「おたく」「暴力」。論理的に説明して、闘争方法もノウハウのある現在闘争中の「渋谷系」とは、違う方法。私たちは「抵抗」「潜伏」「いたちごっこ」「無視」「流民」という方向性を提出したい。「市民運動」ではなくて「流民運動」と言っていいかな。「居心地」というのは、大事なタームです。居心地が悪ければ、どこかに移動してしまうんです。「民主主義」なんて言葉を、冷笑なしに口にできない。拳をあげたりしたくもない。しかし、もうひとつタイプの「民主主義」をあざ笑う力が、駅前にどんどんどん、3つ4つ、とそびえているわけです。じゃ〜ん。
まずは、これからの活動のために、Tシャツのデザインをすることにしていますが、そこの書く文字は、絶対日本語が良いというのです、ふたりは。なぜなら、英語にすると、「ファッション」になってしまうからだって。ワークショップもなるだけ、日本語だけにして欲しいというのは、私が大変になるんだけど、「英語をしゃべる外国人」だから、面白いかも、という空気に、抵抗したいらしい。さすがだな。
まあ、Tシャツをつくって、みんなで着るというのは、もともと欧米的だったかもしれないけど、最近のタイの市民の活動を見ると、アジアが、うまく自分たちの方法にしたものかもしれない。
3331というところは、宇宙ステーションみたいです。入り口が、階段になっているところなんか、「未知との遭遇」で見た、宇宙船に乗るための入り口みたいなんだ。それで、中に入ってみると、どこを歩いている人も、スマートな身のこなしで、ルールをきちんと守り、アートのための貢献する、とっても、前向きで前途有望な人々に見えてきて、感心する。もちろん、人それぞれと思うけど、私なんかだめだろうなって思ってしまう。エマさんがいなかったら、私はここでやれないと思う。でも、せっかくだから、学べることは学んでいきたいです。
ベストを尽します。きのう、帰る電車の中で、呪文のように唱えていたのは「ベストを尽します。でも、その後は、神様に任せます」
ということ。
21.9.10
仕分け時代
前にも書いたかもしれないけれど...........バブル期を過ごしたことは、恥でもなければ、「反省」しなければならないわけではないと思います。「失われた20年」しか知らない人たちには、悪いけれど、物事が、ディープだったり、軽薄短小だったり、贅沢だったり、インスタントだったりと、両極端に、いろいろあった時代を楽しませていただいているから、近頃のように、売れるとか、経済効率とか、仕分けされたりとか、世の中に役立たなきゃ、プロのアーティストとは言えないとか、せっこい時代に対しては「これがあたりまえと思うなよ」といって、距離を置く気持ちでいられるのだと思います。
確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。
でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。
仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。
不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。
ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。
以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。




確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。
でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。
仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。
不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。
ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。
以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。

