26.12.12

Script for the document 2 : Critical Essay「パロディとカタルシス」



前のページの続きです。

今年7月に行なった「疑問の状態」展のドキュメントを制作しています。
書いている文章は2つです。1つは「あとがき」で、このブログの前のページにアップしました。もうひとつは、以下にある「作品についての批評文」です。
(以下の文をドキュメントに載せることはやめにしました。)

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「ピカ-ブ」、パロディとカタルシスを越えて


作品のアートとしての、あるいはアートのアクションとしての可能性を問いたいと思います。本人は、不十分、不適当だったと、書いています。そうでしょうか?

 彼が行なったパフォーマンス(アクション)のシリーズは、パロディや引用の手法が多く使われています。まず、プロジェクトのタイトルである『ピカ-ブ』はChimPomの作品『ピカッ』(2008)を明らかに意識しています。To See You Again』のアクションは、アブラモビッチとウライのシリーズを連想しますし、『Cuci(チュチ):Performance』のパフォーマンスは、キリストの逸話やヨゼフ・ボイスの『Feet Washing(1971)、また、タイトルには、日本人が大好きな有名ブランドの「Gucci」が示唆されているかもしれないし、北朝鮮のチュチェ(主体)思想も思わせます。『Loss in Translation』は、ソフィア・コッポラ監督の映画『Lost in Translation(2003)を、タイトルも内容を想像させ、『千人針』は、実際の戦争中の日本人女性たちによる「千人針」、そして、『Cut Grass Piece(1964)は、タイトルだけですが、オノヨーコの有名な作品『Cut Piece』から借用しています。
 ChimPomの『ピカッ』のタイトルを引用するというチャレンジングなアプローチは、彼等の作品がそうであったように、なんらかの議論を巻き起こすことをねらっているのではないかと、私は感じていました。そのことを、彼に聞いた際には、否定していたので、私の思い過ごしかもしれません。元々、彼にとってアートは、ナンセンスでジョーキー、気晴らし的に楽しむもためのものであり、このプロジェクトは彼の作品の中では異質かのように、彼は書いていますが、手法は変わらないと思います。しかし、この場合、アーティストも参加者も「当事者」(第二次大戦においてマレーシアに侵略した「日本」の国民と、侵略されたマレーシアの国民)として、対立した状態で俎上に載せられているため、本人も含めて、気軽に楽しむ余裕がありません。彼にこのテーマをつきつけられた多くの日本人は、とまどうか、または、無関心に見える態度をとりました。どう返したら良いのか、わからないからでしょう。実際に無関心な人も多かったと思います。しかも、都会の公共スペースでは、人は、なかなか感情を表わさないし、難しい問題は避けたいと思うでしょう。そして、それは、チ・トゥをひどくがっかりさせました。そして、そのようにナイーブすぎる、無自覚な日本人に腹を立て、おちょくってやろうと言う「悪態」や「軽蔑心」が、彼の心に表れてきたのは、想像にかたくありません。パロディは、そのようなネガティブな衝動を隠して見せることには、少しは役立ったかもしれません。一方、実際のパフォーマンスには、回を重ねるごとに彼の鬱屈した苛立ちが(彼のせっかちな性格も影響し)増して行く過程が、むしろ「リアルに」表象されているように、私には見えます。
 では、本当のところは、何を求めたのでしょうか。彼のメッセージに興味を寄せてサポートした人たちが、全くいないわけではなかったのですが、それは、彼をほとんど満足させませんでした。もしかしたら、彼は、丸木位里、俊夫妻の絵画のシリーズを彼が見た時の衝撃や、彼がマレーシアの博物館で遭遇した、日本人観光客が流していた涙、そのような強い「カタルシス(浄化)的」な作用を、期待していたのでしょうか。彼が唯一、観客と良い会話ができたと言って気に入っている作品『Cuci』は、タイトルからして「洗う」(マレー語)を意味します。私は、この作品に立ち会いましたが、罠にはめられるような気がして(ごめんなさい)、参加しませんでした。結果的に、彼のプロジェクトが「カタルシス」にはならなくて返って良かったと、私は感じています。 
 彼は、日本軍の蛮行やそれを受けた人々の悲しみ、怒りを表象することで、直接的な同情を引き起こすことはしませんでした。丸木夫妻のように、あのように美しく表現する事は奇跡なのです。一方、彼の作品のシリーズは、当初のプランの挫折を経た結果、「彼自身に」起きたその暴力的な衝動やねじれた感情を、パフォーマンスアートというメディアを通して、アクションとして更新して行くという形に発展しました。ここに「リアル・ストーリー」がもうひとつ出現したと言ってもよいでしょう。このような過程を経たために、それは、アートとして「鑑賞可能な」一つのユニークな作品として成長することができたのだと、私は考えています。そのことに、彼は自信を持っても良いと思います。
 さて、それを鑑賞するためには、「回廊」としての、展覧会が是非必要でした。展示では、「ここでは、アーティストがなしたことが尋問される立場にある」というコンプセトをもとに、取調室を連想させるうす暗い裸電球を高い天井から数本吊るし、観客による「審議」を象徴するアンケート用紙を壁一面に貼り出すという、やや演劇的なセットアップがなされました。7つのアクションの記録が、その順番通り入り口から壁に沿って、記録ビデオや写真で「証拠」として展示されました。空いた壁のスペースに、アーティストの独白が、壁面にグラフィティされました。それらの一つ一つの「事案」は、彼が歩いて出会った人々とのエピソードでもあり、総体として巡礼の旅にも見えたかもしれません。会場で時間を過ごした観客の多くは、フィードバックのアンケート用紙にぎっしり、整理しきれない気持ちを書いて、帰りました。彼等は、今、それをどう記憶しているでしょうか。容易に忘れることのできない、ちょっとした体験になったに違いありません。
 アート作品とは、同意を求め、解決を迫るためのツールではないと私は思います。むしろ、人の心にひっかかるような両義性があり、見る側が、発展して考えることができるような、揺れのある許容部分が必要でしょう。そのことにより、人の心を、強制的にではなく、自発的に動かすことが可能性なのだと思います。

 そして、同時に、はっきり言えるのは、多くの人にもたらされた、無念の「死」という、痛ましく、巨大な空白に対しては、アート作品はほとんど何の役にも立たない、ということです。「戦争という大義」の中で、他の国の国民を殺戮したことのその罪を「浄化」することは、どんな方法でも、難しいと思います。