26.12.12

Script for the document 1 : Epilogue "Weという意識”


このごろは、今年7月に行なった「疑問の状態」展のドキュメントを制作しています。というか、それに寄せるための文章を書いているのですが、なかなか、終わらない。書き終わったと思ってしばらくして、読み返すと、直したくなる。別のアイデアも思いついて、書き加える。そんな状況です。なんでそんなに、終われないのか、全く謎なんですが.......。

書いている文章は2つです。1つは、作品についての批評文、もうひとつは、以下にある「あとがき」です。こちらの方は、要旨的にはだいたいまとまっています。永遠に直す訳にも行かないので、ここに、アップしてみて、パブリック化してみたいと思います。そうしたら、気が収まるかもしれないので。よければ、お目をお通しください。(批評の方もアップします。)





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あとがき:「We」という意識

 このドキュメントは、単なる展覧会の記録ではなく、むしろ、私(たち)からのデモンストレーションです。エッセイを寄せてくださった方々は、チトゥが滞在中にお世話になった方たちでもあります。興味深い論点を提示していただき、心より感謝します。
 私、山岡が、このドキュメントにて提案したいと考えていることは、「私たち日本人」という認識と、私たちという「個人」についての問いです。
「日本人とその軍隊は、20世紀にアジアの国々に侵略をし、その社会を破壊し、たくさんの人を殺してしまいました。ところが、日本人はそれを忘れようとし、戦後生まれの人はそれをあまりきちんと知らされていません。一方、日本以外のアジアの国の人たちは覚えているし、若い世代は学んでいます。現在、および未来において、日本人とアジアの国の人たちは共に働く機会がどんどん増えていますが、日本人が平気で、それを知らないと言い、自分には関係ないと反応することが、アジアの人々との互いの関係において、どういうことを意味するのか、想像してください。」

  戦後世代の日本人は、戦前の思想を反省する意味で、意識の西洋化(合理主義化)が奨励されました。集団として、群れとして「私」を考えることは、前近代的、封建的と、ことある毎に、批判されました。「ともに」とか「いっしょに」とか「ひとつに」と言われると、私は、ほとんどアレルギー的な嫌悪感を感じていたことを、思い出します。「個人主義」が強調されましたが、その理解の仕方は、正しかったでしょうか。自分が行ったことには全責任持たねばならないけれど、知らない/見えないことには関わらない方がよい、そんなふうに、習慣づけられてきたと思います。
 しかし、「私たち」は、自分だけを切り離して、「私」だと考える続ける事が本当にできるでしょうか。確かに、この15年の間、不況、雇用問題、高齢者医療、2つの大震災を通して、助け合い、恊働(1997年の阪神大震災で新しく生まれた言葉)、つながり、きずな、への関心が徐々に高くなってきました。しかし、多くの人にとって「自分の個人の身」に降り掛かってない、見る事のできない、侵略戦争で起きた悲劇を、肌で感じることは難しい。そして、その「無関心」は、日本がかつて侵略したアジアの国々の人々の子孫にとって、不快であるだけでなく、全く持って、軽蔑の対象になるのです。
 国民であるということはどういうことでしょうか。国民というアイデンティティは、DNAの問題ではありませんから、手続きを踏めば、変更可能です。国民というアイデア、そしてその共同体は、あくまで作られた「装置」です。しかし、この地球上に生きる一員としての「私たち」であることを受け入れるならば、少なくとも現代において、どこかの国の「国民」としての「私」生きることは、お約束として、私たちは、受け止めなくてはなりません。つまり、「私たち」戦後生まれの「日本人」は、戦争について充分に学んでいない「個人」でもありますが、同時に政治的、環境的な集合体として「侵略戦争をしたことのある日本人」という「属性」から、逃げ出すことはできません。

 私は、この問いを、文化の問題として、考えることを提案したいと思います。たとえば、北斎や広重の美しい版画を作ったのは私ではないし、小津安二郎の繊細で見事な映画も私の作品ではないのですが、私たちの文化として誇りに思っています。また、仏教や漢字の文化、その美術、文学にも、誇りを持っています。しかも、かなりの質と量です。さらに、稲作文化、醤油や味噌を使う料理、それを箸で食する生活習慣などなど。そして、16世紀以降、ヨーロッパの列強に、徐々に侵略を受け続けた経験。これらの大切な文化と、苦々しい構図(今だに続くウェスタンスタンダード)について、アジアの人々と「私たち」は、同じ文化を共有しています。そして、20世紀の日本による侵略戦争の記憶は、別の話でしょうか?私は、同じだと思います。行った人たちがいるのですから、「日本人」にも記憶はあるはずです。記憶とは文化です。その経験の上に、現在の文化へと発展しています。解釈が違うとしても、共通体験なのです。誇りに思えたり、被害者な時だけ日本人になり、不都合な話題には、私たちは個人となるのは、身勝手すぎるでしょう。

 実は、これらのことを、チトゥを観察していて、考えるようになりました。私は、アーティストというのは、国境を越える価値観を持つという姿勢に重点を置いていて、そのつもりで彼と接していました。しかし、実際の彼は、マレーシア人であることにこだわっています。しかも、民族的には中国人なのに、です。しかも、彼は、彼のおかれたナショナリティと葛藤しているようにも見えました。仲間、家族、コミュニティ。そういうものへの思い。敬意、感謝、誇り、親しみ、安心感、愛情、裏切ってはならない、ケアしなくてはならない、そういう気持ち。ある意味、広い意味で身体の一部であるような感覚。取り替え不可能なアイデンティティに、限りになく、近いもの。それは、良い面だけではないけれど、失うと、「自分」ということに矛盾が生じてしまうようなこと。それは、確かに、他のアジアの人々にも、感じます。それは、残念ながら、私を含めた日本人が失い、いまだ取り戻せないでいる感情、感覚です。それは、しばしば、壁にも見えます。それがある以上、「私たち」は真に「友達」にはなれない、そのような壁です。
  そして、壁は越えられないのでしょうか。そうではないでしょう。「私たち」アジアの人々は、共有した歴史を持っていると考えることができます。解釈が違ったとしても、間違いなく、それはあります。それは文化遺産であり、現在を生きています。むしろ、シェアしていなくては、もったいないようなことではないですか。豊かなことも、辛いことも両方あって、遺産ではないでしょうか。
 チトゥは、2年前、丸木位里、俊夫妻のとてつもなく恐ろしくて悲しく、同時に、とても美しい原爆の図のシリーズに出会いました。そのショックから、このプロジェクトを計画したと言っています。彼はマレーシア人として、日本人との「共有する歴史」を共有するべく、別の角度からの「シリーズ」を作ったのだと思います。チトゥ君のシリーズは、アジアの「私たちの文化遺産」になるでしょうか。彼の7つのアクション、展覧会、そしてこのドキュメント。丸木さんたちの作品とともに、やはり、遺産のひとつとして、記憶したいと思います。
 このような考え方はいかがでしょうか。「私たち」は、アジアの人間として、アジアの人たちとの「私たち」を実現するために、働きたいと思っています。丁寧なプロセスが必要になってくるでしょう。そのことを、皆さんと一緒にやっていければと考えています。