25.11.08

小説「ボディアーティスト」

 友達のすすめで「ボディアーティスト」(ドン・デリーロ著)という小説を読んだ。この場合のボディアーティストというのは、人物のキャラクターを声や身体を改造することで、様々演じるというタイプのボディアーティストのなので、わたしなどが関わる、アート系のボディアートではない。























 が、それより、ここでの興味は、感情をどう表現したかということ。小説の筋が、明確につながっていないので、正直、非常に読みにくかった。前のページのシーンと、次のページのシーンに、論理的なつながりがないのである。なので、前のページとの関係がつかめなくて、また戻らなくてはならない。それを何回もくりかえしたので、数ヶ月手元においておくはめになった。結局、つながった筋として覚えるのは、やめた。身体をどうしたこうしたということが、延々続き、架空なのか、実際なのかよくわからない若者が彼女の家に出没したりする。声や、話し方や、皮膚の表面や、見かけなどから、自分や他人を認識する事の曖昧さがえんえん描かれている。感情の事はほとんど書かれていない。
 それは、彼女の愛人の死から始まる。つまり、彼女はその愛人によって、彼女自身と言う者を認識していた人なのかもしれない。つまり、年長の、フィルムレディレクターである愛人によって、自身をキャラクターライズされていたというわけか(フィルムディレクターというところがミソ)。その「眼」が消えて、彼女はアイデンティをの意識を失うって話なのかな。それをとりもどそうとするのではなくて、失った状態のもやもやを描いているのだろう。なので、読む側は、ひとつのつながったストーリー(つまりアイデンティティと人は呼ぶ)が読み込めない。そして、彼女は、なにか、架空の人物になるために、身体改造を始める。自発的というより、なにかの段取りみたいに。やはり、彼女の心のことは、描かれない。
 小説の最後に、彼女は、実際のステージにのぼる。親友でありライターである女性が、そのパフォーマンスの様子を言葉で再現する。そこには、いわゆるいくつかのキャラクターを演じているアーティストというものが、浮かび上がる。やはり、それは「眼」と「言葉」によって、はじめて認識されるものになるのだ。いくらか、図式的な解釈であるが。
 という話なのかもしれない。
誰かの「眼」によって、自分が決まるということは、わたしがそう読んだだけの話。それはキリスト教における神かもしれないし、フェミ的視点でいえば、男性によって、存在理由を見いだされる女性ということかもしれないし、もっと一般的に誰においても、そういうことは言える。文学的に言えば、愛人をうしなったことを、悲しみとしてではなく、遺物から何かを描くのではなく、ある種の喪失感を、キャラクターの喪失の感覚として表す。手がかりのなさとして?彼氏を失った喪失感を、キャラクターの喪失として、描くのは、面白いことかも。

ちょっと退屈な小説でもあったが、わかったよ。意欲作であることもよくわかる。


この冬は、いろいろとインプットしたい。買ったけど、読んでなかったものを、あれこれ、ずんずんと読むぞ。次は、さっと行けそうな本。ノーム・チョムスキーの「おせっかいなアメリカ」2002〜2007年に書かれたコラム式の政治批評。一応、一度くらいは、チョムさんを読んどこうと思って、半年くらい前に買った。ちらと読んだところでは、わたしには当たり前な見方ばかりだけど、まあ、眼をとおそう。因みに、元題は「Interventions(介入)」。「おせっかい」とは、とてもうまい邦訳です。