21.9.13

プチ日記 文学と記憶


プチ日記。

 この数日、ちょっとテンパって準備していたブラジル入国ビザの申請を終える。実は、予想よりずっと遅くビエンナーレからの飛行機のチケットが届いたこともあり、その後にビザを取ろうとしたら、手間および日程が結構かかることに気づき、結果、日程の変更を余儀なくされた。変更しても、なおも、ぎりぎりの日程なので、今日、滑り込まなくちゃ、やばかった。間に合った、安堵感。
 領事館は五反田にある。申請に来ている人の9割は、日本に滞在しているブラジル人のようだ。みんないろいろ勝手な要求を、係員にしているのを見るのは面白かった。

 ブラジル滞在は、結局、10月2日から14日までとなる。パフォーマンス、パブリック型のを2つする。参加型。それから、映像作品を1つ作って(それもコラボ型)、東京で作ったのとあわせてカフェで上映する。 
 
 それから、恵比寿に行って、写美で、米田知子さんの展覧会を見る。前々から疑問に思っていたことが、つのってきた。場所に、歴史上の記憶が住み込んでいるかどうかの問い。それは、新聞の日曜版のトップストーリーにあるカラー風景写真のドラマチックなキャプションを連想させる、ある意味、風景に対するベタな文学的トランスレーションではないかと。写真は文句なく美しい。情報を通した思い入れ。経験ではない。勿論、たぶん、個人の経験ではないところが味噌なんだと思う。歴史的記憶が写真に見えるかどうか。眺める。装置としては、面白いかもしない。風景には、物理的痕跡は、むしろないのだから、想像力を刺激するかもしれない。妄想は豊饒なものかもしれない。写真が素敵だから。でも、なんだか、ちょっと、何かに逆行している気がする。あえてか?映像の部屋から、流れているドラマティックな音楽も、なんだか、ステレオタイプな印象。
  あるいは、「風景に実際には何も宿ってはいない。けれど、人はそこに想像力を働かせる」ということをテーマとしているのかもしれない。かも。

 面白いけど、私は、何かステレオタイプに、閉じ込められた気持ちがする。私なら、むしろ、「みんなの視線」では、気づかないような別の世界観を引き出したいけどな。何か「開く」ということが、私には大事なことだと感じている。

 ある種の文学的解釈が、人々の心の健康をむしばむ気がする。「歴史」や「家族」についての説明はほとんど文学だ。もちろん「感動」もそこから来ると思う。でも、「感動」もどんなもんかしら、と私は思っている。心理学も文学だ。心理的問題に陥った人は、別の「物語」を作り出すことにより、当初の問題を解決する。
 だが、私は、物語の罠から出ることの方が、心身の健康にいい気がする。たとえば、ビジュアルアート的思考センス(直観、表層的、構造的)によって、認識を変えることができると思う。世間は、あまりに、文学的すぎる。(なかには、全然、そうではない人がいて、変人扱いされているだろう)

 それから、渋谷に行って、ワンダーサイト。ここには「文学」があまりないから(文学クセって、世代か? 年取ると、人生に意味を見いだそうとするから?)、私は、結構、居心地がいい。他、いろいろ思ったけど、感想はここでは省略。去年の私のプロジェクト、パブリックダブルのことをちょっと思い出したりした。一方、ここでは、若いアーティストの勝ち負けのゲームが見えてきたりする。それを感じると、少し、しんどくなる。がんばれ、さきこ。
それにしても、この建物の前って、小さなスクランブル交差点なのよね。

 歩き回って、疲労困憊して家に帰った。このごろ、ハイテンションな時と、電源切れはじめた後との差が激しくて、困る。それでも、帰ってジムに行って、トレーニングをした。
 夜は早く寝る。でも、ちょっと起きて、これを書いた。


祖父と姉(赤子)と母(身体半分)。私のパジャマの膝にのせて撮った写真。