24.5.12

可能性というコンセプト




自分の作品の、活動のコンセプトを整理し直そうと思う。アーティストと活動し始めて2〜3年くらいの人でも、もうすでに「岩」のようなコンセプトを持って、「安定感」のある表現をしている人もいると思うが、私の場合、そうではない。そうではないことに、ずっとコンプレックスを感じていた。

「可能性」をさぐること、がコンセプトなのだ



「パフォーマンスアートというカテゴリで、できることとは何であろうか」「今、この場所で、この条件で、最大に興味深くできることとは何であろうか」。そのことをテストするのが私の「よろこび」である。輪郭を試したいという気持ちがいつもある。
それは、絵画が近代以降に「絵画にとって純粋とはなんであろうか」「絵画に本質的にできることとはなんであろうか」という問があったのと同じである。
その意味で、やはり、私は「絵画」がバックグラウンドのアーティストであると自分で思う。それは、そのまま「アート」と言う言葉をいれても考えている。

輪郭はいつも、すぐ、くづれる。内側に倒れることも、外側に倒れることもある。

絵画を始めたころから、90年代の半ば頃までは、眼に見えない「A. 超自然」に関心があった。ランドアートに影響を受けたころから、パフォーマンスアートに関心が出たのはそのせいだ。と同時に、「B.自分に対する第2の眼(意識)を持つこと」つまり、ビデオというメディアを使うことから、興味を持った。と言っても、それを作品のテーマにしたわけではない。自分の動きや身体を用いた作品が面白いと感じるようになった理由と言うべき。

それから、パフォーマンスアートのネットワークに関わるようになり、ヨーロッパにでかけ、そこでどういうことが人々の関心の的になっているのかと思い、眺めているうちに「C.自意識によってコントロールできない動きを作り出し、自意識と身体感のバランスのきわどさの場をつくる」といったことがテーマになっていると感じた。それで、それをトライしはじめた。ネットワークでは室内のプレゼンテーションばかりなので、当初関心のあった「超自然」のことは、ちょっと忘れていたかもしれない。「A.超自然」やランドアートにしても、当時の、ちょっとした流行だったからにすぎないと今は思っている。「C.自意識によってコントロールできない動きを作り出し、自意識と身体感のバランスのきわどさの場をつくる」が、西洋思想をベースとした「葛藤」ドラマの定番なのだなと考えるようになると、それに対する興味がだんだん薄くなり、ついには、「昔の彼氏」を見る時のような、いわゆる、「微笑みの対象」となってしまった。面白いとは、思うけれど、もうそれはいいかな、みたいな感じ?

横浜でパブリックスペースを使ったイベントを企画したのは、2005年。これはちょっとした転機だった。「D. 借景」というアイデアは、いわゆる「サイトスペシフィック」の近似値だが、間違いなく、私自身のキャラクターから来たものだ。それは、どう室内を使うか、ビルのどの部分にひかれるか、というテーマへと進む。これがテーマの場合、「時間を使う」というパフォーマンスアートの基本スタイルすら、無視できるほどの強いコンセプトである。だが、今のところ、そこの区別をつけて見てくれている人はいないかもしれないね。自分の作品で「他人の身体を使う」=「参加型」というのが、2008年くらいから出て来たが、それは基本的に「D. 借景」の範囲内で、実のところ、それほどあたらしいコンセプトだとは思っていない。


たぶん、それより深いのが「E. 超推移」というコンセプト。これは実のところ「A.超自然」を自分のものにしたアイデアなのだと思う。2008年から数年行なった「Wind from Sky」と言う作品。私自身が、「草」となる経験を数時間行ない、身体に「草」の時間をしみこませてから、テーブルにセットされたグラス類をゆっくり壊してゆくパフォーマンス。この4〜5月の旅で新作として行なった「津波」を想起させる「Smiling Nature : Left to us」という作品があるのだけれど、オランダのアーティストがその近似値をみつけだしてくれた。新作もやはり「Wind from Sky」なのだった。この新作では、観客を全員、奥のスペースから、波ばかり延々映るスクリーン前のスペースに、30分かけて少しずつ、移動させる作品だった。その間の空間に、様々な「彼等の身体」を残させながら。さらに、また別のオランダのアーティストがみつけてくれたのは、「Blind Game」と言う作品でも同じだということ。白黒バラバラのオセロのコマを、黒ばかりのコマへ、そして、白ばかりのコマへ「返し」している作品で、これは1時間半から2時間かかる。これも「極から極への推移」である。たぶん、この「極」についての作品が、意識しないでも出て来るというあたり、私の無意識にはさみこまれた、隠された伝統、地縁的、血縁的影響に違いないと思う。それは面白いけど、私のチャレンジは続く。私には、「F. ハイブリッド」であることが大事なのだ。


私は今、二つの「可能性」を模索中。
ひとつは、「F. ハイブリッド」の実践として、スペイン系の「ポエトリーアクション」という方法を取り入れてみたい。これはなんだかとってもなじむのだ。前にも見たことがあるけど、そのころは「C」に夢中だったので、妙に軽く見えて関心が持てなかった。でも、今はその「軽味」と「諧謔」それと「視覚的美学」が面白いと思う。出来る限り、影響を受けてみようと思う。この重苦しい日本の状況に、そのやはらかさや、ドライなユーモアが、生きると思うんだ。江戸的な「軽み」が出せるかもしれない。
もうひとつは「G. ゴミ、ガレキ、カオス、ジャンクの感覚」。これはどう作品化したらいいか、わからない。今はとりあえず、写真を撮る。町に出て、気になるものはなんでも写真に撮る。撮ったものがすべて、そのカテゴリーに入るかというとそうでもない。「変な顔の犬」とか「ぴかぴかのビル」もそこに入っている。自分の視覚のサンプルをリサーチするものであり、作品というより、スタディに近い。これが、具体的に作品になるというより、作品に影響する、というような事だと思う。美学ということを考えるために。
 たとえば、中年女性というのは、あまりに「具体的」なキャラクターである。それの「具体性」を、私はちょっと持て余している。「若い」と抽象的に見えるのはなぜだろう。「女性」だと具体的なのはなぜだろう。たぶん、広告、映画などのグラフィックなものに影響を受けているのだろう。そこをどうするか、これもジャンクの領域の問題だと思う。ゴミはいつもあまりに具体的さてはて。アートとは物事の具体性をはぐ、作業だと思う。





そうなると、「アート」「パフォーマンスアート」「美学」なんてどうでもいいという人にはアピールできないことになる?
私は、それでよいと思う。むしろ、それが良いと思う。