今日は、ちょっと寒かったね。父の病院に行った。今日は少し落ち着いていて、手を撫でてくれと言う。準備をしている人。手術前に日帰りででも、父の書斎に連れて行ってあげようと思う。
病院は、ベルトコンベヤーのように、患者を、右から左(上手から下手?)へ流すだけ。「手術で、症状が悪化しても、大半は半年以内に亡くなりますから、ご心配なく。」だって。手術なしで、死なれたら、儲けなしだから、危険でも手術を勧めるのかな。テレビドラマに、医者ものがとても多いことに最近気がついたが、テレビでは悪役の医者だってもっとハートがある。文句を言うのも疲れる。だから、自分の命の扱いは、自分でしたいではないか。出来る限りの抵抗というのが、今年のわたしのテーマだ。
それにしても、家族のいない人は、こういう場合どうするのかな。それで、独身ものの相互扶助制度のことを考えたりした。わたしのことをよく知っていて、どうしたらいいか、私の気持ちの補助してくれるような人。そうした共同組合みたいなものを作ってはどうか。芸術家を中心とした相互福祉制度。ヘルパーさんはおむつの代え方はうまいかもしれないけど、私と人生観が違いすぎる可能性は大。死に方のスタイルも、芸術家仲間なら、「山岡ならこうしたいだろう」とわかってくれると思う........資産は残らないけど、めずらしい美術書などを、だれにあげようかと、いつも考える。。友達に話すと、「お、作品のネタ?」と言われた。くそ。
前の日記に、友達のおどりに「元気をもらった」と書いたら、別の友達にいちゃもんつけられた。確かに、私らしくない書き方。わかっているが、そう言うふうに、思いたいこともある。それに、そういう鑑賞の仕方が正しい時というのが、あってもいいと、思うようになった。とにもかくにも、明るく、過剰なものはいいもんだ。わたしには、できないので、感動した。
ところで、20世紀の身体の発見は、というと、きざな言い方だけど........第一次世界大戦で現われてきた身体でしょう?それまでだって大量殺人はいくらでもあったのだけれど、その量と質のイメージがとてつもなく、変わった。
つまりは、ベルトコンベヤーで、右から左に流れる身体だ。そのメカニカルに着目する人もいるけれど、そのメカニカルに抵抗する人もいるというわけだ。
イスラエルのアディーナから「Cannons and Muses」というワークショップのプランが送られてきた。たぶん、この「大砲」と「美神」というのは、イスラエルの歌にあるのではなかったかと思う。戦争と芸術と言う意味ではあるが、テクノロジーとアートと言い直してもいいかも。イスラエルでは、芸術家たちは、現代の戦火の中、自分たちに今、何ができるか、しきりに、ディスカッションしている。