16.4.09

成り行きとはなんであろう

新しい病院で、リハビリには励み、社会復帰が始まったと、思っていた父に、別の癌がみつかってガーン。
どちらにしても、今度は、自分の意志で、決める、というチャンス。自分の人生の仕上げを、どうするか、父の最も大事な季節が始まった。そのことを考えると涙が出て来るけど、それは、悲しいからではなくて、誇りに感じるからだ。
気力を維持する事がどれほどむずかしいかは、いろいろな側面で、経験のある人にはわかるだろう。だからって、気持ちに正直になるか、自分を奮い立たせなくてはならないかの判断も、その自分の気力の中でみつけるしかない。また、絶望する自由もあるのかもしれない。そこのところは、よくわからない。死ぬのが、絶望だと言っているのではない。どうでもいい、他人や世間に預ける、自分では決めないというのは、絶望のうちかもしれない。だが、その絶望をすら、自分の意志と気づかず、不平不満の泥の中で、苦しむのは、ごめんこうむりたい。
それにしても、成り行き、とはなんであろう?

おととい、友達のおどりの公演を見に行った。すごく元気をもらった。帰りの電車の中で、うきうきわくわくして、勉強への集中度も高かった。これは、自分の中だけでは、どうにもならなかったことを、他人の努力する姿を見ただけで(!)、解決してしまった例。そんな予定ではなかった。かなり、なんとなくでかけたのだから。実は、わたしは、おどりは、ほとんど見たことがない。おどり音痴だし、芝居はきらいなのだ。
彼女のおどりからは、作品としてというより、人間のもっている生命のエネルギー、かわいらしさをまっすぐ感じることができた。ありがとう。彼女が「けれん」とか、「芸」とか、「お色気」程度の域でやってない感じが、わたしをすっきりさせた。
たぶん、おどりって、ある意味、作品ではないのだと思った。

たぶん、この前向きぶりは、この前の日から、始めた、新しいプロジェクト案と関係しているのかも。
今度は、是非、慎重にやりたい。因にいわゆる意味のアートイベントではないです。作品というものは、関わらない。作家さんには、関係ないかも(笑)。

自分の持っている資源を生かして、世界に参加していく、世界が面白くなっていくことに参加する、これが今のわたしの姿勢。
考え方のつながれる人たちと仕事をしたい。