C&Mのもえちゃんに頼まれて、先日の対話展の写真をどこかにアップしようと思い、でも、1枚1枚アップするのもめんどうなので、思い切ってPicasaのアプリケーションをダウンロードしたら、............ PC内のすべてのシャシンを検査されていて、どれほど、たくさん入っているのか知らないけど、まだ、続いている。怖い。デジタルは心底怖い。
今日は友達の内装工事の手伝い。壁紙はがしと壁紙はり。あしたもやります。で、友達と話をあれこれ。彼は、アートがしたくて上京して、あれこれしているうちに、今は、良い夫良いパパになり、毎日とても精力的にはたらいていて、家も車も買って、充実している。でも、アーティストでありたいと今も思うし、その気持ちと闘い続けているらしい。生計が成り立たないことや、社会性を考えると、まじめに働き、大事な家族を持つことを選ぶ事になったわけだが、「ものを作って表現をしたい」という気持ちをどう整理したらいいのか、わからない、という。
そんなことを聞きながら、わたしは「作りたい」という言葉の前で、ちょっと戸惑う。わたしは作りたいか?
たぶん、作りたいのとは、違っている。
「何か強いセンスを表出したい」という感覚なのではと思う。それをどう行うか。
わたしの絵も作ったものというより、紙を傷つけることでできている。エンピツのドゥローイングにしても、紙を削っている感覚だ。だから、塗りたくる絵の具が苦手だし、使うときは「こぼす」ようにしか使わない。
パフォーマンスも、何かを、壊していることの方が、組み立てているより、断然多い。
そんなことに気づき、よくわからないけど、わかったようなわからないような気持ち。
強いセンスを表出、というのは、やはり、焼き付ける感じ。
ものをつくる人たちとの、大きな差を感じた。ある意味、マイナスだし、ある意味、そういうももありでしょ、と言ってみたい。
そうして見ると、モノを作ることの、神聖さ、あるいは、通俗さというのも、感じてみたりする。通俗なんていうと、作っている人に悪いけど、すでにこの世には、モノがいろいろあるので、付け加えることもない、ということを、感じている自分の事も思う。
写真は東京都現代美術館での探し人。いなくなる、とか、想像だけで行うとか、そういうのに、惹かれる理由も自分でわかってくる。やってるふりと思う人もいろんだろうけど、わたしが信じたいことって、その辺にあるような。目に見えることしか、信じない人とはいつも話が平行線。