30.10.09

Live show with C&M Tel-Aviv


わたし、山岡がコーディネートしている「大砲と美神 Cannons and Muses Tokyo(C&M Tokyo)」は、以下のイベントを催します。多摩美の学生を中心にした若いアーティストたちのセルフエデュケーションプログラムの公開イベント vol.3 です。



Sound Meeting with C&M Tel-Aviv

インターネットを使ったリアルタイム・ライブ・サウンド・ミーティング

(多摩美術大学芸術祭参加)


テルアビブのアーティストとのネットを通した共同作業パフォーマンスです。


日本側場所:多摩美術大学 演劇演習室(俗称、鏡の間)

日本側日時:2009年11月2日 19:00〜20:00 (テルアビブ時間は、この7時間前)

    2009年11月3日 15:30〜16:30



「Justin TV」 http://www.justin.tv/ を使用します。


アップされる場所は

C&M Tokyoは、http://www.justin.tv/cnm_tokyo

C&M Tel-Avivは、http://www.justin.tv/cnm_tel_aviv

たぶん、どなたでも、ご覧になれると思います。ふたつのブラウザを並べて見ればいいのかな。もちろん、会場においでいただくともっと、面白いと思います。参加もできるかもしれません。



サウンドと言っても、日本側の場合、いわゆる音楽をやっている者はおりませんので、美術系のりの、会話としてのサウンドパフォーマンスになると思います。声、鈴、雑音、あるいは、ラジカセの音声といったところでしょうか。テルアビブ側には、元ロックンローラーのおじさんアーティストもいるようなので、音楽ぽいかもしれません。


今のところ、話しあっているのは、「無音」の時間をどう作り出すか? ということ。それを、音楽的に作るか、人間関係的に作るか、暴力的につくるか ......... 美術的に作るとしたら?この提案に対して、テルアビブの担当者プレムは、「戦時でも、ビジネス社会でも、立ち止まることはなかなか許されない。これは、意味深い!」と大賛成でした。ノイズを大砲、ハーモニーを美神と喩えて、次のアクションが、何で始まるのかも、興味深いところです。


とにかく、はじめてのことなので、どうなるか。ショーとして成り立つかどうか、わからないのですが、メンバーによると、見せる為に何か特別な準備するのは、何かが違う、気がするそうです。なるほど。


学生さんたちがC&M Tokyoのwebsite つくってくれました。まだ、ささやかですが、手作りの味がイケてます。

http://cannons.mistysky.net/


公式のwebsite(グローバルネットワークバージョン)は、

http://cannonsandmuses.org/indexhibit/


インターネットを使ったリアルタイムパフォーマンスは、昨年、わたしが、谷中で行おうとしましたが、オーガナイザーに「技術的に無理」と言われ、あきらめていただけに、今回、可能になってうれしいです。技術的には、30年近く前から可能だったし、テレビ局や大企業とともに仕事のできる人にたちにとっては、古いネタとも言えます。

今、である意味があるとしたら、なんらコストなしで、ごく普通のパソコンとビデオカメラと電話の回線で可能になったこと。去年より、安定もしていると思います。すでに、世界中でたくさんの人が行っている方法だと思います。なので、テクノロジーとしてもおもしろがっている場合ではありません。大事なのは、こういう方法で、発信できることは何か、というあたり。学生さんの柔らかい頭なら、どんどん、思いつくことでしょう。



わたしが、コーディネートしている理由は、これまで、わたしがアーティスト活動をして来た中、力を貸してくれた方々や、応援してくれた方々に対して、国内で、応えて行く方法のひとつです。............. 本当は、もっと作品で応えたいんですけどね。

28.10.09

C&M T ホームページのことなど

Cannon and Muses Tokyoのホームページができました。
webチームが、徹夜して作ったとのこと。涙でちゃいそうだ。ありがとう!

11月2日と3日には、多摩美の大学祭で、サウンドミーティングを行います。わたしは、テルアビブ側とのコーディネートをしただけです。ネットを通して、リアルタイムに、テルアビブのアーティストたちと、サウンドによる会話を行います。内容については、少しディスカッションに加わったけど、どうなるか、わかりません(笑)。傍観ががまんならず、出て行って、何かしてしまうかもしれません。

若者たちは言います。
「アートはコミュニケーションをとめないためにある」

キャリアを重ねた人たちは、敵を作ったり、分裂したり、無視したりしている場合ではありません。違う立場だからこそ、話してはいかがでしょう? 物別れになるならなるで、違う立場を認めたい。棲み分けても、何も解決しない、イスラエルの状況を、思いながら。


今日は、おいしい「カレー」と、面白い「紙」「ノート」を求めて、渋谷と原宿、銀座を歩きました。イラストレーターの仕事が終わったので、むしろ、自由に紙や媒体を使えるようになったのです。印刷にうまく出るか、出ないかなんか、関係ない。ものとして、面白くしたいわけです。さて、どうなるか。

因にカレーは、ムルギー。おいしいよ。
神保町の「スマトラ」みたいに黒いカレーです。トマトがたっぷり入っているのだと思う。(だから、黒いというわけではないけど。黒い理由は知りません。)
昭和30年代みたいな店内もイケテマス。盛りつけも不思議。火山地帯のジオラマみたい(意味のわからない人は行ってみるべし)。





23.10.09

良い人すぎる人たち

父の介護関係で、毎日、いろいろな人に会う。今週は、契約が5件もあった。ひとつの事業所でやってくれても良さそうなものだが、独占を避ける為に、いくつかに分けるように指示されているらしい。
 だが、父も母も、覚えられない。あした、朝、誰が来て、どこに行くのか、わからない。困ったことだ。迎えが来て行く所は、2つあるけれど、持って行くものが、違うし、時間も、待ち合わせ場所も違うのだ。

それから、人、に対する不安。父は、ぽつりと言う。「みんな良い人すぎて、恐い」
確かにそうなのだ。サービス産業として徹底しているのか、ほんのわずかも隙間がない人が多い。こうなると、傲慢なお医者が懐かしくもある。
 対人関係にストレスを感じる人も多いのではないだろうか。そういうがんばりは、しなくて良いのではないかと思うが、結局は、「利用者さん」というより、「役所」相手の仕事だからなんだろうなあ、と思ったりする。「役所」が悪いわけではないんだけど........う〜ん、何かが不自然なんだ。

 移動のことを「トランスファー」と言ったり、立つ体勢のことを「立位」と言ったりするのは、やめて欲しい。

 わたしは、かつて、介護系の新聞記事などを読むのは、きらいだった。今もきらいだ。なぜなら、苦労話ばかり。感情の問題に、してしまっている。そうではなく、システムについて、考える為の格好のネタなのではないだろうか。因に、システムを敵だと言っているのではない。

21.10.09

富とか

絵を描くと書いて描けなかった。少しでも描こう。来週になれば、もっと時間をうまく使えるだろう。

台湾でのパフォーマンス3つを考える。
2つのデユレーションは、新しい作品で行く。だから、テストがいるし、ものの準備もいる。ちょっとわくわくしている。コンセプトが、明確すぎるけど、身体的でもある。
一方、台東大学でのソロパフォーマンスはただひとりなので、プレッシャーだけど、ありがたくそのプレッシャーを受け取って、Wind from Skyの銀座バージョンをもっと発展させたい。もっと、気違いじみても良いと思っている。
オーガナイザーのイエン・ツーチーは、かなりポリティカルなパフォーマンスをするタイプだけど、呼ばれたアーティストは、それほどポリティカルよりではなくて、アート寄りだ。彼女もここ数年で、勉強したらしい。

きのう、ビデオで録ってあった古代エジプトとインカのドキュメンタリーを、父と一緒に見た。その時思ったこと。たとえば、ラムセス2世は「富を欲しいままにした」と言われるが、その言葉を20世紀に持ってくると「悪人」のイメージがつきまとうのに、古代エジプトなら、「偉人」となる。冷静に考えて20世紀的倫理観が、普遍ではないことが、よくわかる。

大先輩のフルクサスは「民衆のための」ということを言っていたけど、それは20世紀の夢だと思う。そのように考えることで、インスピレーションがわく時代は、60〜80年代くらいまでだったかも。(1920年代にも、そういった動きがあったが、実際に貧しかったと思う。)
 たしかに、1970年代くらいから最近までの日本は、知的芸術的センスのレベルと階級はあまり関係がなかった。それは、多くの人が、余暇を持つことができたからだ。だけど、だれでもが、そこそこに、余暇を持つことのできた時代が通り過ぎはじめている現代では、貧しい場所で知的レベルを上げるのが、むずかしくなっていく。あるいは、徹底的に働かずに、芸術レベルを上げる選択肢もあるね。さてどうする。

なんてことを思った。

19.10.09

これから絵

朝、朝ご飯を作って、父をお医者に連れて行く。在宅介護になって最初の登院(ていうのかな)。これから、ずっとお世話になる予定のお医者。小さな医院であるが、脳神経内科の専門医。インターネットで全国の専門医を捜したら、川越市内では、病院などにはひとりもおらず、彼一人なのだった。しかも、車いすで、10分で行けるところ、段差ほとんどなし。先生の機嫌もよく良い滑り出し。
脳梗塞、脳いっ血、くも膜下出血などは、老人にたぶん最も多い病気であるが、専門医は少ない、と、栗本慎一郎の本に書いたあったけど、本当にそうです。

午後は、デイケアとケアマネージャーさんとの契約。なんと3時間半かかる。めんどうくさい規約を全部(少しは、飛ばした)、話すことになっているらしい。(契約しなくてはならない業者は、あと3つある。)お二人が帰った後も、契約書の記入に小半時かかる。別件で生命保険会社に電話するなどしている内に、5時半になって、自分の頭痛の薬を買いに行き、それから、父のリクエストである、ひき肉のカレーを作って、などしているうちに、1日がふけた。
母もいるけど、母は主に父の下の世話にかかりっきりです。

すべてをできるだけ効率よくするための、工夫こそ!! 

良かったことは、父の食事のために、様々な材料を、じゃがいも以外すべて(肉、たまねぎ、キノコ類、にんじん、しょうが、にんにく)をいくつかに分けてフードプロセッサーで細かくして炒めたのだけど、これが、とてもおいしくなったこと! 今は、それがうれしい。とうがらしが辛そうだったので、仕上げに生クリームを入れたのも良かったかも。「うまい」はどこでも、最も大事だね。

これから絵を描きます。



18.10.09

あしたは自分のことを



















うちの町は、お祭り。うちの窓からの写真。朝の準備中。クリックして大きくして良くみると面白いかも。

町田の国際版画美術館で、『デジタル・インターコネクション メディアアート・ライブ』というのを見る。お願いして、ややスタッフ扱いで入れてもらった。因に、入場料はタダなので、その辺が目当てではない。目当ては、アーティストのセットアップを見たいということ。セットアップを見ると、アーティストが何を大事にしている人かわかる。
このイベントは、きのうと今日の2日連続で、きのうは、知り合いのナカノケイさんが出ていたので、行きたかったが、残念ながら家の都合でだめだった。だが、今日は、コアなまったく違う3名でそれも良かった。

最初は、ナカムラトシマルさんというノイズサウンドのミュージシャン。ミキサーを動かすのに、やってはいけませんということになっていることをすることによって、ノイズを出しているそうだ。態度としてラディカル。方法としてハック。面白かった。なんか、それでも、結構、正統な現代音楽のような気がした。今回は、ソロだったけど、即興なので、セッションで行うのが、楽しいと行っておられました。身体に不愉快な音が鳴り続けるということであったが、不愉快ではなかった。たぶん、現代生活で、デジタル音は、相当聴いているので、ならされているのではないかと思う。終わってから、片付けながら、お話を聞くと、主な活動は海外だそうだ。「東京には、いいアーティストがたくさんいるんですけどね」と。わたしもそう思う。わたしのブログを見ている人の中には、知り合いも多いかも。わたしが、無知なだけ。ネットで見たら、わたしの古い友達、アキヤマテツジくんとよくやっている人らしい。即興アーティストって、ほんと、多いね。

コンポーズにこだわったナカノさんのパフォーマンス、見たかった。

それから、次は、アーティストではなくて、メディアデザインの研究者(慶応大学の稲見先生、わりとお若い)のお話、やたら、堅苦しく始まったので、困ったなと思ったら、内容はちゃめちゃ面白かった。医療器具などに、使われている、あるいは、使うことになるだろう、装置を考えている。五感の能力を、拡張するための、様々な実験や、わたしたちが、気がついていない、様々な日常の感覚について、デジタルを使って明らかにし、それを拡張するものを開発している。

ラストは、トランぺッター、コンドウトシノリ氏。ついCDを買ってしまったけど、メディアアートとは、わたしは呼ばないな〜、デジタルを使ったサウンドだからって。で、メディアアートということと関係なく、彼のこの18年くらいの活動の様子の話を聞いて面白かった。演奏はなんだか、たいへんな「感動系」。トランペットの音にエコーをかけて、増幅されるのって、インパクトはあるし、神経的にはむりやり感動されられるけど、心は別に感動していないので、ちょっと、微妙な気持ちになる。おつきのカメラマンがやってきて、あちこちから、パチパチ写真をとっているのも、パフォーマンスのうち。だって、セットアップの時、写真家のためにライトを増やしたりしたんだから。少々、まばゆかろうが、前からライトをあてた。でも、いやな気はしなくて、親しみさえ感じた。ナルシスじいさん還暦。理想とか、アイデアをこんこんと語るところは、職人というより、アーティストだなと思う。セカイは人間中心すぎるとと言うのは、同じ意見。鳥や木に向かってトランペットを吹いてもいいではないか、と言う。

それにしても、メディアアートって、行ってみると、サウンド系ばっかだな.......。美術系をもっと見たい。


だけどさ。帰り道、「あまり前向きなのは、つかれる」という言葉が、口からでた。これは自分へのリアクション。ちょっと、このところ、人に会い過ぎ。ついに疲れた。
あしたは、自分のことを考えたい。

17.10.09

父帰る

父、帰って来ました。バターたっぷりのオムレツとポテトサラダとめんたいこを幸せそうに食べました。5分おきに誰かを呼ぶくせは、今後、どうなうのでしょう? 認知症ではないのだけれど。

あしたも、イベントに出かけて行きます。人様の作品を拝見するのは、楽しいです。知らない人より知っている人の作品を見るっていい感じ。あしたは、知らない人。それも良い。人を観察すること。自分の作品をする時と同じように、命がけで鑑賞するというのは、どうでしょう?

来月、台湾行きます。12日から19日まで。
こちらでは、自分で表現します。ドゥレーションパフォーマンスを2つと、ショーケースパフォーマンスをひとつです。

国内では、今のところないです。どこで、どんな形で、とんな関係性の中で、と思っています。

 

15.10.09

分業可能か?

手帖の管理が大変になってきました。ふたりの友達が、モレスキンを使うように勧めます。おしゃれで楽しいモレスキンで管理すれば、忙しさへのストレスも、緩和されるでしょうか。

土曜に父がついに病院から帰ってきます。介護認定4です。
3種類の介護施設とのつきあい、ケアマネージャーはまた別の事業所、さらに医者、へたすると2つの病院に関わることになります。相手は6人ということになります。役所はまた別です。
週に4〜5日は、誰かが彼を送りだし、迎えるために、家にいなければなりません。
母がいます。
しかし、名前だけでも、リハケア、ケアマネ、デイケア、デイサービス、ケアハイツ、訪問リハ、訪問看護、など、老人には、負担でありすぎます。仕組みも同じく。だから、わたしが把握しなくてはなりません。
当事者性なんてこと言ったって、無理だよな〜、と思う。

収入がなくなりかけているのにどうしてくれる。

きのうの夕方会った友達が、ベーシックインカムの本を見せてくれました。うん、だけど、今はわたしはそれどこではない。どうでしょう、ひとりであらゆる重要なことに手をつけていることはできないのだから、世の中は、分業ということでどうでしょう?それに関しては、今は、関われない、だけど、関わりたい、関わっている方々から、時々、お話をしてくださいってのは?
数日前に書いた「自分の興味のあること」にしても、それを全部やることはむずかしいのです。信頼できる人たちと「分業」したい。むりかな。やはり、自分の中で、やりとげるべきか。

それどこではないのに、ライブは聴きに行きます。暇だからではありません。
昨日の夜は、ピアニストのカワイタクジさんが、作曲家のタカハシユウジさんの曲を弾くのを聴きました。前に、即興ライブで聴いたワイルドなカワイさんとは、別人のようでした。「ひらがな」を演奏している、と言う感じ。わたしは、タカハシさんとミヤケハルナさんの作品集のCDを1枚だけ持っています。ずっと前に何回も聴きました。本を一冊。スイスのバックパッカー向け宿に、置いてあったのを、もらってきました。クセナキスについての本なので、むづかしすぎで、かざってあります。それから、水牛楽団もちょっと興味があった。タカハシさんの弾くピアノも何かで聴いたことある。姿も何回も見たことがある。で、いつの間にか、テーストは知っていたみたいです。たいして知らないけれど。
ライブで配布された紙によると、ピアニストへのインストラクションがいろいろあって、言葉を発したり、即興で行う部分があったりします。「風の中の蠟燭の炎のように不安定に演奏する」というのがあって、たしかに、カワイさんは、そうしていました。不思議。「自分の間違いを尊重することで書いてある音を改変する」というのは、どうだったのか、わたしにはわかりません。インストラクションを聴衆は知っておくべきなのか、知らなくてもいいのか、などと考えたりしました。知っている方が面白くはある。
ピアノのコンサートを聴いたという印象でなくて、とても、不思議でありました。もっと聴きたいな。カワイさんの、指を鍵盤から離すとき、手がくるっと裏返って、手のひらが天井を向くのは、いつもなのかしら。カワイさんありがとうございました。

聴きながら、わたしのワイングラスを割っていくパフォーマンスのことを、思い出していました。

それから、「無音」をどう作り出し、どう次をはじめるか、をテーマにした多摩美の学生さんたちとのサウンドミーティングのことも考えておりました。「どう」というところに、皆の思想が宿るのだと思うのです。思想はどこからか、引用するのではなくて、わたしたちが考える。しかも、複数の頭で。エキサイティングでありますが、これまでのわたしの経験で、それがどれほど、壁を持っていることか、も承知。さて、どう挑むか。

13.10.09

2日間

日曜と土曜。おとといときのう。

日曜は、お昼頃は、所沢の航空公園に行く。知り合いが展覧会に参加していた。くしゃくしゃの白い大きな紙を、小さな台の上に置いて、彼は座って、それに絵を描いていた。描き始めたところへ私が、声をかけた。参加してもよいらしい。白い布団のこたつみたい。こたつにあたらせてもらいながら、彼の描いた絵のまねをして描いてみる。しばらくして、ふと、彼の描くのを見ると、最初のころより集中力が出たらしく、絵がきれいに、うまくなっている。なんか、わたしと話しながら描いている内に、手に血が巡り始めたみたいだ。集中力とは不思議なものだ。

その後、Cannons and Musesのミーティング。予想より、多くメンバーが集まっている。芸術祭に何を出すかの話で、けっこう、いい提案や議論ができた。割と理想の方向性が、似ているもの同士が来ている感じ。いろいろ一緒に行っているうちに、言葉ではない、コミュニケーションができているみたいだ。その感覚が、面白かった。が、でも、まだまだ。テーマとパフォーマンスの関係、身体で体験して、さらに、プレゼンとして成り立っているか、そこにまで、至らなくては。
これが、ながびいて、中野での、なおかたひらさんのパフォーマンスは見に行けなかった。残念!!

きのうは、フジエさんのウイリアムさんへのインタビュウを聞きに行く。池袋西口から行くアートカフェというロケーションも興味があった。ウイリアムさんの、あくなき芸の精進に感心してしまう。観念とか、そういう方向には、行かないみたいだ。体育会系なのかな。でも、何かの理想ということはあると思う。身体コンシャスであるということは、それだけで、政治的なのだから。自分の改造。その後、フジエさんの家で、飲み会となった。フジエさんの料理にも改めて感心。フジエさんのことも前より、大分、知るようになる。以下は、ウイリアムさんご推薦のHonda CivicのUK向けCM。

このところ、人に会うことが多い。それも大事だけど、制作もしたいし、時間の配分がむずかしい。人に会ったり、それにリアクトしているそのリアルパフォーマンスそのものの記憶が、作品に鏡のように映って行く。だから、なるべく、素敵だと思える人に会えるように、鼻をきかせ、さらにアンテナをはっておかなくては。どんな人たちと関わっているかということで、人間って変わる。変わらないこともあるし。それが、自分で区別できれば、面白いし。

このごろ、やっと、東京が好きになってきた。



11.10.09

情報学環 福武ホールへ行った

 きのうは、東大(本郷)でのシンポジウム「メディアアートとは何か」の第3回に行った。前にもブログに書いた、芸大のフジハタ研究室と東大のイシダ研究室の共同企画。先月は、芸大先端、横浜校であった。交替で、企画している。1回目は行ってない。
 東大の赤門入ってすぐの所にある「福武ホール」に驚く。すげい。大学院「情報学環」という研究のビル。これが大学の施設か?と言う程、美しいビル。おしゃれなカフェなんかもあるし。東大って、建物博物館みたいなところだ。新旧。なんだか、富が集中しているという印象。こういうところで勉強した人は(しかもあたりまえだが、私立より学費は安いわけだ)、是非、日本の国民のために尽して欲しいなあと心の底から思う。

 フジハタ先生によると、この分野に「批評」が必要な最大の理由は、「テクノロジー」への楽天的な期待に対する問い。それには、クリティクがなければ危険だということ。メディアアートの、というより、IT技術(この言葉はもう古い?)と情報学への問いでもあるが、やはり、メディアアートなるものへの問いでもある。おもちゃ作って喜ぶな、みたいな感じかな。インターネット万能主義みたいな恥ずかしい「スローガン」も多いと。
 フジハタ先生は、最近、機械に笑われているような気がするそうだ。最近は、メディアアートの展覧会って、はずかしくて行きたくない、とも言っておられた。なるほど〜。
 そうだ、その過大な期待のおかげで、あのような豪華な場所があるのだよな。複雑だ。ヨコハマ映像祭があるのも「メディアアートは未来志向型」だと信じられているからだ。
 フジハタ先生は、ついに「良い作品がないことが何より問題だ」と言ってしまう。
メディアアートが期待されていない分野だったら、先生もわたしと、同じようなところで、やっていたかもしれない。それはどうなの?
まあ、ともかく、矛盾をそのまま、出すのは、良いことだとは思う。「澱」みたいなところ、「亀裂」みたいなところに何かがある。


 きのうの「問題提起」になっていた立命館大学の北野先生のテキストは、ほぼ全文インターネットにありました。『映像論序説』。出版もされています。

 吉田先生のプレゼンテキスト。「メディアにとってクリティークとは何か」。これらがインターネットにすでに出ているところが今風だね。


 別件だけど、言葉にたいする感覚なんてことも考えた。わたしは、言葉の「音」と、言葉を字に書いた時の「図」をすぐ考えてしまう。きのう取ったメモも、だんだん、紙の上のドュローイングみたいになってきた。イシカワライタさんの作品みたい。
わたしは、言葉を「建設」することをしようとして来なかった。これからもしないと思うけど。学者や物書きは「建設」するのだね。


9.10.09

肝に入れる

ホームページを直したついでに、日本語プロフィルのページも少し手をいれた。
以下のようなことを書き加えたりして。

<興味のあること>
土地・町・歴史などを借景、あるいはスキマをみつける楽しみ
西洋化・ウェスタンスタンダードへのスタンス
近代・経済・銀行・保険制度などのインフラを個人の立場から見ること
アルティザンとしての時間を何より大事にする
健康・女性のイメージへのねじくれた感覚へのさらにねじれた考察
へんてこな図像がどんどん浮かぶような指を持つこと
メディアアートの可能性を気にかけながら、ローカルな身体を思う
政治参加しないアートの居場所を政治的に手に入れる
衣擦れ、ものが壊れる音、落ちる様子
やり過ぎ/嘘っぽさの「頃あい」の粋を追求する
亡命とそのメタファー
暴力の行き先
炎をみつめてしまう時
パフォーマンスアート作品の映像・写真・音楽作品化
東京のアート周辺で働く人々と話ながら、表現の場所をみつける
国際的なネットワークの次なる段階に入る
良い仕事をする人たちの仕事は進んで鑑賞、堪能し、爪の垢をもらう
世界の変化に目を注ぎ、わくわくしながら寄り添う
たとえば、アフリカの将来を思いながら、北米の黒人文化を楽しむ
変わらないものを肝に入れておく
去ってゆくものにかっこよく別れを言う

8.10.09

悪のりトリオ

ホームページが直りました。何度も入れ直し、Appleコンピュータに相談し、ODNに相談し、いろいろためして、もしやと思って、FTPのFetchのテクニカルサービスに電話したら、ささっと直りました。直ったのは、きのうであります。
トップページには、前回のパフォの写真を載せています。トップページ


使っているソフトは、前世紀末ごろのホームページ制作ソフトであるPageMillであります。いろいろ限界がありますが、今ではこういうソフトはないみたいです。HTMLの入力ではないが、自分でデザインできるというもの。前世紀のソフトなので、パソコンも前世紀のものを使っています。前世紀のパソコンは、プリンターやスキャナーともつながっています。メインに使っているうちのApple君は、一応今世紀のもの。OS10.4なので、最新式ではありませんが。
Goliveで行おうとしたら、海賊版のGoliveだったので、動きません。
iWebは使ってなかったせいか、動きません。ついiLife09を購入してしまいかしたが、OS10.5でなければ、だめなんでした。てな具合にバタバタしましたが、なんとかなった。
だが、やはり、HTMLでやんなきゃな〜と思っている。

あしたは、東京大学でメディアアートのシンポジウムだ。能力が追いついていないけど、行くのだ。(もちろん、マンガ、アニメのメディアートではありません)


ところで..........悪のりトリオという戯れ絵のシリーズを描いています。そのおかげで、今は、大変楽しいです。

6.10.09

リラックス

ついにクライアントの雑誌が廃刊になるので、イラストレーターとしての低収入、じゃなくて定収入が消える。自分の絵を考え直す時期だ。はっきり言ってこのところ、仕事のオーダーが来た時しか、描いていなかった。それで、描いていた絵というのは、左のようなものではなかったけど、それはそれなりに楽しかった。

気分のせいか、最近、本屋に行っても、あまりこれというイラストレーションが、見られない。斜陽産業かな。いいブックデザインのものは、奥の方にあるのかな。

気持ちを入れ替えて、絵というものを、描き直そうと思い、数ヶ月前に描いていた下絵を、きのうひとつ仕上げた。下の黄色い方は、10年前のもの。印象として、うすめ、の絵なんだけど、こういうのも、悪くないんではない? クドい系のパフォーマンスをしているのに、変かな。
私としては、矛盾していないつもり。

もともと芸術は民主主義、自由、平等、とは、とんと縁のないものだと思うのだ。アルティザン階級を目指すものとして、「社会のコードをずらす体験」の場所としての、アートの方向があると、思っている。それが、ずっとできればいいなあと思っている。


いいもの作っている人がたくさん、いる中、わたしが生き残れるか? まめにいろんな人の作品を見て歩きたいと思っている。よい刺激を受けるために。



4.10.09

パウリノとマルー

きのう。日本縦断旅行中の、タイに住むスペイン人夫婦、パウリノとマルーをホテルに迎えに行って、それから友達が展覧会している銀座の画廊へ行き、近くの画廊や、もうちょっとコマーシャルな画廊などをお見せして、有楽町線に乗り、比企の丘の東京電気大学で、また別の友達のライブを聴きに行った。長い一日であった。11〜21時の10時間のつきあい。

1日いっしょにいて、大人の、ゲスト、ホストのセンスを、学ばさせてもらった。

一昨年、タイであったアジアトピアで知り合った人たち。夫のパウリノは、40年ディズニーのアニメーションの制作に関わり、今は、悠々自適なリタイア生活。アメリカのパスポートも持つ。妻のマルーは、わたしはアーティストとして知り合ったが、きのう話をよく聞いたら、長いこと、社会教育の仕事にかかわって、アートはこの4〜5年のことらしい。バルセロナでずっと暮らしていて、5年前くらいにパウリノと知り合って、結婚することにしたんだって。熟年結婚ですね。
いろいろな人生があるものだ。
会ったアーティストには誰にでも言っているのかもしれないが、彼らの住むタイの山の中の家の2階は「サキコの別荘だ」と言ってくれている。いつでも来てよいと、年に何回か、メールをもらっていた。まだ、それほど、親しくないのだけど。
あまりに夕日がきれいな場所なので、2人で見るのは、とてももったいないからだそうです。

彼が用事があったので、はじめて、「HSBCプレミアムセンター銀座支店」というところに行った。金持ち専門の銀行です。ふかふかのソファで待っていると、オレンジジュースを出してくれた。行員は、わたしに対しても、丁寧に、英語で挨拶してくれました(笑)。銀行マニアとしては、楽しい経験であった。

銀座の画廊で作品を発表していた友達は、絵画を壁だけでなく、床に置く展示をはじめて、2回目。音(色)が、場所の中で、反射しているように感じた。無音の場所もあちこちあって、その配置の仕方が、わたしの感覚と大分違うので、それを楽しんだ。どんどん、やって欲しいと思った。

3.10.09

ダフナさんのアートブック展

きのうは、朝から父の病院への引っ越し。

午後は、家に戻り、壊れたホームページのインデックスページの修復をはかるが、だめ。10年前の恐竜ソフトはもうだめみたいだ。ソフトがだめというより、ホームページ作成用に使っているマックOS9が、うちのおとうさん状態になっている。こちらは病院送りにはしない。別のおとうさんに切り替えなくては。

夕方から、東長崎の某ギャラリーに行く。知り合いの知り合いの個展が開かれている。ギャラリーのオーナーはまだ20代。どこかの百戦錬磨の画廊主たちみたいに、客を値踏みすることもせず、フレンドリーに立ち話をした。

その後、成増。イスラエル料理のワークショップをしてくれたダフナさんのアートブック展。ものすごく、すばらしかった。色彩のセンス、ユーモアのセンス、素材感のセンス、そして、丁寧なてづくり作業。生活が楽しいだろうなと思う。彼女のハーブの庭を思い出した。あさってまで。成増北口すぎの成増アートギャラリー。日曜までなので、興味のある人は是非。9:00〜16:00。展覧会の名前は「コドモ☆サーカス」というグループ展だけど、大人も充分楽しい。子供にはむずかしいのもある。

そこにいっしょにいったWさんとファミレスで一杯のワインで、医療と老人の問題を話す。彼女は、わたしより一回りも若いけど、すでにおとうさんが特養に入っていて、リアルに感じている。これからのわたしたちのこと。皺がどうとか、白髪がどうとか、動きがどうとか、そんなレベルではない。どう最後の日を過ごすか、なのだ。

今日は、タイに住むスペイン人カップルとともに、一日過ごす予定。忙しい。

1.10.09

「丘を越えて行こうよ」+「空からの風」

縄跳び in 渋谷 タイトル「丘を越えて行こうよ」、やります、今年中。日程未定。
今度は、20人以上の参加を目標にしています。

場所は、渋谷警察署前から、歩道橋、ガード下、バスターミナル、ハチ公前交差点から、丘を登ります。
最終地点は、まだ決めてないですが、前回の場所のような、文化的、経済的な記号ではなくて、何か、祠ととか、神社とか、そういうところにしようかと考えています。


是非是非、参加してください。
楽しいよ。

それから、9月に銀座でやったソロパフォーマンス「空からの風」を、できる場所を探しています。

条件1. 室内
条件2. 床が固い。傷がつかない。汚れは拭けばとれる。
条件3. 観客との距離をとれる。空間を共有できる。
条件4. 空間の管理人が、あのパフォーマンスを許してくれる。



今、どちらも前回のビデオ編集中。