20.6.11

靴を高いところへ上げよ

「ガレキ系」ということを意識し始めている。

実は、いつでも人は、何かのガレキを乗り越えて、生きているのだ。過去を踏み越えて生きるしかない。過去を踏まえて生きると、言うこともできる。しかし、今回私たちは、あまりに急速にできた恐ろしく暴力的な量の瓦礫に、愕然としている。そして、目をそらすことができない。沢山の大事な命と想い出がゴミ同然になってしまう理不尽。うそだろ、うそだろ、と何度も思った。そのことは、私たち日本人の全員が共有しているのではないか。どこから、やり直したらいいのか、わからない。

このごろ、私が作品やワークショップで作っているイメージは、意識していなかったが、「ガレキ系」と言っても良いのではないかと感じる。ゴミのように見えるイメージこそが、ゴミでは決してなく、何かとてつもなく、かけがいのない、いとおしいものだと思うのだ。思おうとしているのではないかと思う。いや、思えてならない。意識に修正が働いているのではないだろうか。受け止めるために。「ガレキの風景」は「見つめるべきもの/目をそらすことができない/私たちの姿/受け止めるべき/ここから始める」という意味で、まさに「美術的」だと、私は思う。


そして、自然は、淡々と、その営みを行なっただけのことなのだ。「彼」は、人間のパニックや悲しみ、苦しみなど、全く知らない。私たちは、夢や神話ではなく、実際に存在する、コミュニケーション不能の巨大な存在を知った。しかし、その理不尽さは、宗教でないと理解できないことではないか。自然を制御するのではなく「畏怖」する意識が必要だと思う。そのことは、原発のことへと続いていく。まるで、バベルの塔のような傲慢。イスラエルでは、旧約聖書に書いてある出来事にその予兆を読み、次は自分たちだと思っている、と誰かが言った。



エルサレムのムスララスクールでのワークショップ。5月23日(月)午前10:00〜11:45
東京国分寺の東京経済大学でのワークショップ。6月13日(月)午後2:40〜5:30
この二つのワークショップは「足のため避難」というタイトルである。(ワークショプだが、私には自分の作品と同じ位の重要さがある。)

<コンセプト>
緊急避難の時に、人は足を酷使する。9.11以後に、私が「指圧屋」をしていた時代なんだが、すでに1年以上も経っているのに、ふくらはぎの緊張が取れないという、富士銀行の行員さんに会ったことがある。富士銀行は、WTCビルの南棟78〜82階にあり、彼は一気に階段を駆け下りたそうだ。そして、心理的な緊張がとれないのだ。震災でも、津波でも、テロでも、暴漢でも、なんでも、人は、最後には走る。地震〜津波では、ビルにいた人たちは、駆け下り、そして駆け上がった。小学生たちは、学校の裏の丘を駆け上った。

足は、世界と私たちをつなげ、折り合いをつける仕事をしつづけている。負担をかけている。頭から一番遠いので、つい、意識が遠くなっているかもしれない。



その1 下だったものが上に行く
(今まで見ていた世界の「順序」がくるう→靴をできるだけ高いところに置く。)



その2 感謝のメッセージを残す場所としての新聞紙の余白
その3 歩きにくいところを最も大切なもの(水)を持って歩く
その4 大声を出す ストレスをはらす 叫びの合唱 



<ワークショップの記録、その1>




まずは サイレンの音を聞いて、外に走り出る。そして、またサイレンの音を聞き、今度は走り込む。そして、できるだけ、高いところに靴と靴下を「避難」させるサイレンの鳴る中、それをできるだけ早く行なう。サイレンはまったく苛立たしい音である。

エルサレムでは、壁にピンを打って、壁に「インスタレーション」してもらった。
東京経済大学では、壁にピンが打てないので、学生さんたちの頭にのせることにした。

まずは、エルサレムのインスタレーション。参加者はだいたい15名くらい。ものが、普通そうはない状況にあると、オブジェになるというのは、現代美術史の基本。「瓦礫」が美術的なのはそのせいだ。しかも、様々な形でひっかかっている靴が、今はちょっと怖い。












次は、東京経済大学の方。参加者は20名。頭に直接はいやかもと思い、日本手ぬぐいを用意したら、それが妙にフィットした。お祭りのようだ。皆楽しそうだし、なかなか、かわいい。昔は、川を歩いて渡る時にこのような格好になったのではないか?  緊急時ファッション。この格好のままで、その後のパフォーマンスを行なった。



















17.6.11

今日は美術館に行かない

今日は、夕方に知り合いのイベントがあるので、でかける。だから、その前の美術館など行こうかなと思い、いくつか、調べてみたけど、なんか、動けない。

今、私の感覚の中で、アートマーケットというのが、かなりネガティブに響いている。勿論、世の中に存在していることにまで、文句をつける気にはならない。
ただ、それを動かしているのは、「超金持ち」たちであるってことが、わかって来たし(それは、日本の多くのコレクターたちの比ではない)、大きな美術館で見せているのは、そのおこぼれみたいなもんなんだ。特に国立系の美術館はそう。「超金持ち」に対する反発は、全くない。そういう人がいてもいいと思う。だけど、彼らの文化は、私や私が愛している友達、知り合いたちの文化ではないんじゃない? そういう所での、新規なアイデアの新しい作品群の価値を決めているのは、彼らなんだ。その「超パワー」を感じる場所になりつつある、国立美術館。作品のコンセプトを読んで、感心してはならない。あれも「超金持ち」イベントの流儀で、形式みたいなもんだと思う。最後のところでは「欲しいか」どうか、なんだから。なんのために欲しいかというと、それは、彼等の文化のためである。彼らは自分のうちにそれを飾り、社交パーティを開き、その作品を見せびらしながら、様々な考えや感想を言い合う。彼らの知的好奇心をそそるものなのである。別荘を買ったり、ボートを買ったり、時には自家用飛行機を買うのと同じように、アート作品を買う。それらは、自分の「高さ」を自慢し、競争するためのもの。それはそれでいいと思うけど、それは私のブンカではない。
アーティストは、実のところ、芸人フゼイなのだから、もともと、彼等を喜ばせてなんぼの職業であったのかもしれない。でも、そういうことは変わりつつあるのではないかな。

このことが身にしみて感じたのは、ここで以前、少し書いたことのある「東北大震災をテーマにしたチャリティ展覧会をアートバーゼルで開き、大金持ちたちからのドネーションを義援金にする」という計画への参加経験から。これは、3月の末頃、少し名前を知っていたある若いキュレーターが、ツイッターで、その企画スタッフのボランティアを募集していた。その頃、アートチャリティが続々と企画されていて、もともと、「もの」を作る系の作家ではない私が手元にある「お金になる作品」はわずかだし、うまくお金になっても、数万円。それよりも、バーゼルの大金持ち相手に、売れれば一点数十万円以上になるアーティストの作品をいくつも売って、義援金にする方が、現実的だと思ったからなのだ。

だけど、それはだんだんチャリティの要素が減って行った。アートバーゼルは、一見優雅ではあるが、大金の動くところだから、ディーラーはしのぎを削って、大仕事をするところであり、一ボランティア団体が、どんなに大きな犠牲に対するチャリティだからって作品を売ってお金にするなんてこと、甘い考えだったってわかったきたのだ。だって、それだって、彼等の貴重な「パイ」を削ることになるからね。ということで、これはブロックされてしまった。これはこれで、いい研究だった。

でも、その代わりに何をするか、という議論が始まっていくと、なんだか、目的がもともと違っていたんではないかと気づく。少なくとも、私の考えとは随分、違うんだなと思うようになった。どんなに優れた超有名アーティストによるアート作品だとしても、それ自体が、東北の犠牲とその復興をサポートする力を持つとは私は思えない。それは、あくまで「ブンカ」。ブンカを共有していない人には何程でもないことだと思う。いくら、アートの超パワーだって言っても、アートの世界の話にすぎないと私などは、思ってしまうのです。
しばらく、興味深い議論を彼等とすることができたことには感謝でしています。もし、誰かメンバーが、このブログを見たら、あまりいい気持ちがしないかもしれない。ごめんなさい。


文化は、階級と差別のひとつの姿だ。どんな文化も、なにかしら、排他的になる。


国立の美術館というのは、国威発揚のイメージの宝物館である。国立劇場は、もっとあからさまに国威発揚。ここでも言うけど、私は「国威発揚」を批判しない。愛国心って大事なものだ。
だけどさ、あれって、私たちの文化だろうか?
今だに、西洋文化に負けないように、汗かいて、誰かを蹴落としながら、格好つけるための場所に見えちゃう。「愛国心」があるなら、もちょっと違うことをした方がいいのではないだろうか。

そういえば、私は、「博物館学」をちゃんと学んで、学芸員の資格もあるんだよ〜ん。でも、「博物館」はパワーの表現だとは習わなかったけどね。それは、感じて学ぶもんだろう。


個人的には、西洋から、いいことはたくさん学ぼうと思う。まず、観客は「ありがたいものを見て帰る」のではなくて、見たものの感想をたくさん言おう。文化に参加するのだ。ネットで書くだけでは(今、私は書いているわけだが)なく、生の空間で意見を戦わすんだ。好きか、嫌いかだけだったら、会話にならないことにすぐ気がつくだろう。そして、「正義」や「慈善」や「癒し」では、終わらないことにやがて気づくだろう。「一流」を与えてもらうんではなくて、「一流」を育てよう。金出せって言っているわけではない。そういう「文化」が生まれるような生活や話し方を持つってことだと思う。「私はこう思う」と言うのを、ずかずか言う。「どうして?」って誰かが聞く。それを伝えられるように、言葉や態度を工夫して言うんだ。勉強も必要さ。そうやって、みんなでセンスを磨くんだ。「一流」と「上流」は同じではない。「一流」は、どこにでも築くことができる。劣等コンプレックス持っているうちは、それはつくれない。



ということで、今日は、MOTに行きません。
今日が特別ってわけではないんですが。

16.6.11

立ち位置 

きちんと書こうと思っていると、いつのことになるかわからないので、少し書いておきます。

私の立ち位置は、わりとわかりにくいらしい。
ノンポリに見えるし、社会派にも見える。というか、人それぞれなんだと私は思うんだけど、わりと、他の人はカテゴリーがはっきりしているようです。もっと、揺らいでいてもいいのでは?



<イスラエルのこと。>

日本では、特に関心ない人か、あるいはイスラエルという国に反感を持っている人かの2通りしかないみたいに見えます。反感を持つ人に対して、私は、自分の立場をはっきりさせなくてはならないかな、と思っています。でも、たいていは、はっきり聞いてこないで、探るような質問だったりするので、答えにくい。

だから、書く。
私の立場。
まず、アーティストや、個人は、かの国の政策とイコールではないという、当たり前のことを言いたい。そして、彼らはとても悩んでいます。ボイコットや、いやがらせをあちらこちらで受けている。
ネオコンのような、お金や権力のある人は、主にアメリカに住んでいます。今の首相もアメリカ育ちで、アメリカの大学に行っている。一方、主な市民は、イスラエル建国の時に、やってきた人たちと、その子孫ですが、やってきた、ということは、それまでに住んでいた場所では、あまりうまくいってなかったんだと思います。だから、希望を持ってやってきた。つまり、金持ち階級ではない人が多い。イスラエルを動かしているのは、アメリカのネオコンだったり、イスラエルの上流階級である、アシュケナージュ(ドイツ語圏から移民してきた)です。ユダヤ人には、スラブ系だって、アラブ系だって、アフリカ人だっています。それが階級をなしていて、それもなかなか、大変らしい。また、ユダヤ教の宗派もいくつかあって、頭に丸い平たい帽子をのせている「改革派」は、最も危険なナショナリストだと、私の友人であるイスラエル人は、警戒していました。彼らの中にも、様々な違うタイプの人がいるのです。それを、まとめて、イスラエル人として、ボイコットするのは、違うと思う。
もちろん、いくら何千年も前から「約束の地」だったからと言って、そして、イギリスに建国をすすめられたからと言って、それまで何百年と住んでいた、アラブ系の人を追い出すのは、ヒューマニズムから考えて間違っている。建国以前は、混ざり合って、同居していたのです。

テルアビブは、新しい町なのでともかく、エルサレムの状況はとんでもない。アラブ系の人は、端っこの方で、汚いコンクリート(に見えた)の家で暮らしている。そして、蛇のように長い壁によって、居住地が分けられている。イスラエルの市民権がないので、パスポートはヨルダンから出してもらっているそうです。パレスティナのパスポートがありませんから。
ユダヤ人の入植が、他の民族を「避難民」にしている状況を悪いと感じたユダヤ人で、移住するお金とチャンスのある人たちは、海外に出ていると聞きます。でも、誰でもがそれをできるわけではない。国際社会の倫理感からすると、そうすべきかもしれません。

パレスティナ人というと、貧しいという印象かもしれません。貧しい人は貧しい。でも、リッチな人は、とてもリッチです。ユダヤ系のアーティストたちは、あきれるほど、ボロ車に乗っていましたが、パレスティナのアーティストは高級車に乗っています。つまり、パレスティナでは、リッチな人しか、アーティストにならないのかも。ここに、アートは世界でどういうものかを、示していると思います。

ユダヤ人は、2000年も前に、エルサレムを追い出され、さまよい続けてきた。たぶん、そういう民族は他にもたくさん、あったでしょう。そして、大抵は他の民族と混ざって、消滅したのだと思います。民族の定義も、いつの時代からなのか、案外、近代のものかもしれません。それにしても、やはり、強い血の流れている民族であることは確かです。

彼らをそれを「葛藤(コンフリクト)」と呼びます。「解決(ソリューション)」という言葉もよく耳にします。強さもまた、コンフリクトのもとです。


ユダヤ人の個人個人は、その「コンフリクト」のことで苦しんでいる。苦しみ方は、様々だけど。
ユダヤ人ではない、ヨーロッパ人のアーティストが言いました。「信仰はすばらしいけど、そのコミュニティが問題なんだ」と。

日本人的に言うと「信仰」も問題かもしれません。でも、私は「信仰」のない人はいないと思うし、ないと思っている人が気持ち悪い。具体的な宗派に属する必要ななく(宗派は、コミュニティで、パワー(権力)をつくる装置ですから)、一人一人が持っていれば充分だと思います。人の心には、自分という狭い範囲だけの感覚ではない、何かが必要です。というか、「自我」という観念は、近代の作り物であり、それもちょっとした妄想だと思います。だから、信仰がない人は「俺様」的な人か、あるいは誰か他の「人間」に特別な思い入れがあったりするので、それは気持ち悪い。あるいは、「イデオロギー」。「科学」もそうだし、「拝金」もそうでしょう。
イデオロギーの人は気持ち悪いだけでなくて、コワイ。自分は正義だと思っているらしいけど、そのイデオロギーのパワー(権力)を自分の一部だと思い込んでいる。だから、彼らは、揺るぎがないよね。まあ、信仰も、しばしば、そういうことになりますね。
仏教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という一神教と違っていて、その意味では宗教とは言えない。哲学に近いと言われます。だけど、教団を持ったり、ローカルな信仰と混ざって、危険なものになることはしばしばありますね。コミュニティは、人間社会には必要なものだけど、なんの力で集まっているか、が問題だ。

近代人は揺らぐべきなんだと思う。揺らいでない人なんてコワイです。
なんら信仰もないよ、日本人のひとりって意識もあんまりないよって、言う人もいるようですが、それはどうなんでしょうか?
誰一人として、自分一人で生きていないのです。
だからって「世間様」ではだめだと思います。狭すぎる。誰かがコントロールしている可能性もある。空気なんか、読んじゃだめです。


ということで、イスラエルの事を書くと、ものすごく、長い長い、しかも、宗教的な話になってしまうので、そこそこにしておきます。でも、その意味で、このテーマには「近代」と「近代以降」の世界におこっている、問いがつまっている、とも言えます。
何か、短く説明できる方法が見つかればいいのですけどね。

以上で、私の立ち位置が少し説明できていればいいんだが。

すくなくとも、私が彼らと親しくなればなるほど、私への評価も危なくなっているんだなという、感覚はあります。日本では、たいしたことないでしょうが、欧米ではね。でも、それは受けて立ってみようかな、と思っているところです。そして、なぜ、仲良くなってくるのかの理由も不思議だ。

たぶん、私が子供のころから、「亡命」という言葉にひっかかっていたことと、関係があるかもしれません。

15.6.11

主張せよ!

5月にエルサレムで行ったワークショップと、6月13日に東京経済大学の粉川先生の授業で行ったワークショップの報告をしたいと思います。
これらは、同じタイトル「靴のための避難」というワークショップです。


まず最初に、学生さんにお約束した、13日(月)東京経済大学コミュニケーション学科の、粉川哲夫先生のクラスでのワークショップの際の映像をYoutubeにアップしたので、お知らせします。最後のパートですが、約束なので、早めにアップしました。約2時間のワークショップの最後に、私のやりたいことが、やっと腑に落ちて来た学生さんたちが、最大のエネルギーで協力してくれた、結晶でもあります。(もちろん、あきらかに、手を抜いている子もいて(笑)、それはそれで面白いです。)

これは、エルサレムでは、私のワークショップの後にあった、親友のマルティン・ツェットが行ったワークショップをアレンジしたものです。マルティンは、楽器も使いました。東京では楽器を用意できなかったので、私の作品「いっしょにやるアクションパフォーマンス/Love or Not」のインストラクションである「罵詈雑言を叫ぶ」という要素を混ぜました。


さて、みんなで並んで「叫ぶ」アクション。「助けて〜」の方が、趣旨に直接沿っていたかもしれませんが、とにかく、大声で言いたい事、「バカ〜」とか「大嫌い」とかを絶叫します。そして、たまったストレスを発散します。ひたすら「あ〜!」でもかまわない。ある女子は「電話出て、返信して、連絡して」でした。彼氏あて? それから、「おっぱい!」と言っていた子もいました。とにかく、繰り返し、ミニマルに連続して叫び続けること、私がストップと言うまで続けること、というのがインストラクション。声を出したくない人は、足踏みでもいい、としました。最後のパフォーマンスだから、あらん限りのエネルギーを出し切ってねと言いました。
タイトル「主張せよ!」は、私が勝手にあとで、つけました。その理由は、また別の日に書きます。

実のところは、私が見たかったのは、叫ぶ内容や声よりも、態度の方です。叫ぶには長過ぎる時間(だいたい3分)なので、だんだん、疲れてくる。そうすると、だれてくる。それが面白い。それでも、がんばろうとする様子もなかなかいい。そして、やる気のない人の態度もまた面白いです。それらは、ナマで見るより、映像で見ると、より見えてくる。映像の不思議。

3分は、見るにはそれほど長くないですから、良かったら見てください。楽しい、ファニーです。

まあ、およそ、私の世代の子供たちぐらいの年齢でしょう。彼らがどのように育ったかは、私たちがこの20数年、関わっていた社会の反映なので、いい所も、やばそうな所も、自分たちの鏡だと思います。でも、とっても、いい子たちでした。





8.6.11

シャトマル5とWS

5月後半は、イスラエルへ行っておりました。パフォーマンス、ワークショップ、様々な濃い会話と対話、聖地の訪問、なかなか充実した日々でした。ご報告をしたいですが、なかなか時間がとれませんなあ。
(以前はなんであんなに時間があったんだろう?)

さて、6月の東京でのイベントのご案内です。
パフォーマンスイベント(シャトマル)と、ワークショップです。

6月26日(日)
シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー パフォーマンス公演 第5回「モノらる」






物から離れる表現行為
物余り」の時代、改めて物との関係について考えようと、物を使わない、もしくは物に頼らないで表現をやってみます。
モノラルは、一つの信号音源を再生すること。「モノらる」とは、”一つの信号”つまり身体のみを使った行為、を表すために作った言葉です。踊るのではなく、あくまで、パフォーマンスアクションとして行ないます。

http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/



東京都小金井市本町6-5-3 シャトー小金井2階

14:30オープン 15:00スタート
トーク:17:30~
入場料:1500円
出演者:山岡佐紀子、村井元、直方平ひろと、門倉緑、内田聖良、小林橘花、中村博司

2ヶ月に一度のサイクルで続けているパフォーマンスアートのラボ企画シャトマル。
このところ、若者ゲストが増えてきました。毎回、テーマを考え、取り組みます。前回は、パフォーマンスアートの意味をぐいっと広げて、町で人々と話す、という行為を行いました。今回は、うんとクラシックに「表現」をミニマルに深めてみます。「もの」を使わないパフォーマンスアクション。どうなるか、見届けに来てください。


*以下は、東京経済大学のコミュニケーション学科、粉川哲夫教授の授業です。一般の方も参加できます。





昨年10月にメディアクションズの参加アーティストと時間をわけあって40分ほどのワークショップをしましたが、今回は2時間50分を、ひとりで行ないます。
5月にエルサレムで行なった「足のための避難」をベースに、3つのパートに分けて様々な形のパフォーマンスのワークショップを行います。
「身体表現ワークショップ」というのは、粉川先生の名付けられたタイトルです。ちょっと恥ずかしいけど、言ってみれば、その通りです。

6月13日(月)
「身体表現ワークショップ」公開授業
東京経済大学 国分寺キャンパス 6号館 メディア工房
14:40~17:30
無料

3.5.11

へんじん類とはし類

4月21日のフジシンのトークの時に、話したこと。私がOLみたいなことをやっている時、私のデスク周辺は、いつもはすごく厳しい、ある女性の上司の「休憩所」みたいになってた。彼女は、週に1回くらいは私のデスクの所へ来て、あぶらを売って行った。その時だけは、あまり厳しい顔をしていないで、まるで、高校生の時の友だちか、後輩にしゃべるみたいだった。まあ、一般的に言えば、私は、単なる「癒し系女子社員」だったってことかもしれないけど、どうしてなのか、実は、私は自分でわからない。たぶん、彼女がいつもぴりぴりして戦わなくてはならないことについては、私は戦わない人だって気がついたからだろう。逆に言えば、人間として生き延びるために、皆が戦っている「何か」が私に欠けているのだと思う。それが何なのか、実は、全くわからない。それを知りたいんだ。
 だから、こういう私を受け入れてくれる人がいないところでは、たぶん、私は生き延びられない。邪魔だって、いびり出されてしまうんだと思う。
小学生の時ドッジボールが全然できないで、邪魔にされてた時みたいに。
そして、他の人が戦わないところで、戦いを起こそうとして『?』ということになる。大事な事が違うんだ。


そういえば、高校生の時、たった一度だけど、学年一番の成績をとってしまったことがあって、その時は、つらかった。すげー、いじめられた(と、感じた)。だけど、「私は美術大学受けるから」と競争のラインから離れたとたん、いじめっこがみんな優しくなった(ような気がした)。こういうことなのかな。違うかな。



こういう人はたぶん、私だけではない。



世の中は、同類同士が協力関係を結ぶということがよくある。男社会も、「男同士」ののりでやっていると、戦う所と戦わない所が似ているから、けんかもできれば、恊働もできるんだ。県人会の人たちがどれほど似ているか知らないけど、子供の時の記憶に似た所がある人は信用できるんだろう。同窓生もそうだ。価値観を共有できる。セクシャルマイノリティだって、フェミ系だってそうだ。楽しみや不満を共有している。

ふ〜ん、私はそのどこにも、属せないなあと思っていたら、変人類という類の共同体が、できつつあるような気がしてきた。どう?


そして、ありとあらゆる業界に「変人類」がいれば、協力しあって、独占的な領域を作れるかもしれない。キュレーターも変人で、コレクターも変人で、プロデューサーも変人で、観客も変人。変人類は、お互い似ていない。似ていないという点において、類なのだ。

ああ、ドリーム!!!


あとは、世界には「橋類」という人たちがいればいい。「橋」類は、ありとあらゆる「類」をつなぐ事が好きだというミーハーである。「変人類」と違って、欠けているものがない。ありとあらゆる「類」が大事にしていることが一応、わかるんだ。だから、ある意味賢い。ミーハーで、スノッブなので、変わったことをして、ひんしゅくを買うのが、楽しい。「変人類」にすら、しばしば、見捨てられそうになるが、全然、気にしない。そのうちに、ありとあらゆる「類」に、「よろしく頼むよ」と言われるようになることを夢見ている。





さあ、君。その「橋類」になりませんか?

29.4.11

先週のひとつめのイベント、「橋」ということ 



4月21日のDressHallでのイベント、4月24日のシャトー2Fでのイベント、来てくださった方たちに感謝します。
   今回は、どちらも、皆さんの御協力もあり、気持ちよくとり行うことができました。勿論、アーティストとしては、反省や今後の課題もありますが、プラスの意味の勉強もあります。まずは、一つ目。http://kokucheese.com/event/index/9976/
 藤原伸介さん企画の「職業探訪記」というイベント。ギターで情熱的に歌を歌うジョフィー・ランデブーさんと私が、司会者である藤原さんに呼ばれて、職業を選んだ経緯や考えについてのインタビューを受けたり、パフォーマンスをしたり、です。

<ジョフィーさんとのトーク>
ジョフィーさんは、打ち合わせや、楽屋で会っている時と、ステージに上がってマイクを持った時が、あまりに別人なので驚きました。突然、ジョーク飛ばしのMCモードってやつになってしまった。楽屋では、生真面目で、かなりシャイな人でした。彼は、とことん、観客に対してサービスする立場として、ステージに上がるんですね。お笑い芸人さんの付き人の経験があり、「観客が喜ばなくては意味がない」と彼はいいます。なるほどです。でも、そういうステージを見たことがないので、私には何が起きたのか、ほとんどわかりませんでした。ちなみに、彼はステージとそれ以外とでは人柄は変わるけれど、どちらも、けっこう、いい奴なんです。最終的に、どっちも嘘ではないと感じました。むしろ、ステージだと解放されるのかもしれません。

ジョフィーさんからすると、私に対する驚きは、それ以上だったかもしれないです。見た事もないものを見た、という感じ? イベント終わってから、一緒に、食事に行き、私が冗談飛ばして陽気にしていたら、「ステージでもそうだったらいいじゃないですか?」と彼は言いました。固そーな人だったと思ったらしい。面白いです。つまり、私だってモードチェンジしています。

確かに「つくって人に何かを見せる」ということにおいては、同じなのです。何も作らないということはできない。シャトーマルゴーで仲間である、直方平さんは「つくらない会代表」をしています。「つくらない表現」を目指している。でも、私が思うに「つくらなくする」には、「人間以前」になるしかないかもしれない。人間の行為は、すべて、他者との関係によってできています。では、一人でいる時はどうか?と言う質問があるかもしれません。しかし、それも、人間が成長する段階で、回りの人を見て、覚えたことです。その時に誰かに見せていないということが、見せている状態とそれほど、違わないかもしれないし、だから、その問はあんまり意味がないようにも思います。

以前、観客をわざわざ呼ばない屋外イベントというのを、何回かしたことがありますが、その後、観客がいる室内イベントをしたら、する事が全く変わるパフォーマーがいました。私には、観客のいるいないに違いがあるとは思ってませんでした。「観客は呼ばない」と言っても、知っている人は少数は来る予定だったわけですが「公演」でなければ、「本番」とは思わない、という感覚があることを、その時知りました。

ところで、この日観客は4人だったけど、ジョフィーは一生懸命やっていました。彼は、いい成長をする人だと思います。まだ、25歳です。にもかかわらず、歌のテーマは「昭和」です。なぜかなつかしい歌声です。ギミックですね〜。

<パフォーマンス「白い時間」>
さて、私ですが、パフォーマンスの前に、DVDで過去の作品を2つほど見せました。その日行なうのとは、全く違うタイプのものです。

それから、その場でのパフォーマンス。冷蔵庫のコンセントなども抜いていただいて、なるべく「静寂」を作り、細かい音に集中できるような状況をつくりました。と言っても「音のパフォーマンス」がしたいわけではありません。「息」を意識したかったです。今年に入って声を使うパフォーマンスを2回ほどしましたが、私にとってそれは、「音声」である前に「身体からの音」というところに意識があります。息は、不思議な事に、それが聞こえると、むしろ、息がない、状態を連想してしまいます。そうではない? その付随物として、薄葉紙がかさかさ鳴る様子も加えました。衣擦れのようだから。私のポケットの中から、折り畳んだ紙を出し、ゆっくり広げました。その時なる「音」は、これも「音楽」としてではなくて、物質感です。

前半は一人で行ない、後半からは参加型です。私のポケットから出た紙は、折り鶴に変身しますが、その後、鶴の腹のところに吹き込む私の息で、すぐに、ただの広い紙になってしまいます。それをその場にいる人の人数分の倍の紙に、はさみで切り分けます。ひとり2枚ずつ受け取っていただきます。エンピツを配る。

私は「誰か亡くなった方を思い出してください」と言いました。「会った事のある人でもない人でもかまいません」。「1枚に紙にはその人へのメッセージを、もう1枚にはその人の思い出を書いてください。発表はしませんから、好きなことを書いてください。」「メッセージの紙は私のところのテーブルへ、思い出の紙はポケットに。」

私のところに集められた紙は、丸めて私は、私の口にほおり込みました。口の中で、唾をよく出して、ゆっくり丸めて行きます。それから、空也上人みたいに舌の上にのせて外にだす。空也上人の出したものは、念仏でしたか?(最中じゃないよ〜)

口から出した白い玉(直径3cmくらいでした)を手にとり、皆さんと一緒に神田川に行きました。この時、川越の土産物屋で買ってきたきつねの面を、観客のひとりに方に被っていただき、川までの行列の先頭を歩いてもらいました。Dress Hallのある秋葉原の地の神様は、火伏の神様であるお稲荷さまだと聞いたことがあります(秋葉神社ではありません)。地の神様に守っていただき、川まで行き、橋の真ん中の欄干から、その玉を、川に落す。落した白い紙つぶて玉が、下流にゆっくり流れていくところを、みんなで見送りました。時刻はもう9時過ぎていて、夜のしじまに薄れてゆきました。

今回は、けっこう象徴的な要素を使いました。今の時期「喪」ということを感じてやまなかったので、アーティストの身体のひとつのあり方として、もっとも古典的な「シャーマン」の要素を意識し、小さな、小さな、儀式を執り行いたかったのです。ベーシックな感じのするパフォーマンス。(というか、アート作品ってみな「喪」ではないかとすら、思っています。)
 要素として使ったものを列記してみます。

ポケット
折り畳まれていること


呼気と吸気
衣擦れ


舌の上に載せる
空也上人
唾液
白い玉
紙片
2つの紙片
書き込む

ねり歩く

引き潮
きつね面


行方を追う
見送る
持ち帰る


<コミュニケーション不可能な存在への恐れ>
後で気がついたのですが、川に落ちたものをみつめるという行為は、特に言わなくても、人はしてしまうようなものですね、思った以上に。そして、それが消えて見えなくなるまで、まるで「みんなの出来事」かのように、見送ることができました。確かに、皆さんの書いたものですから、みんなの出来事です。読み上げることもなかったので、それを知るのは、川のお魚くらいです。あるいは、私の舌かしら。


静かに流れる川も、津波も同じ、自然活動なのです。秋葉原あたりだと川の流れは、地の高低ではなく、河口の潮の満ち引きが影響します。そう思うと、ゆっくり流れているけど、それは、有無も言わさず流されていると感じられて、恐れを感じてしまいます。特に何かをした訳でもないのに、白い紙の玉は確実な速さで流れてゆきます。私たちの立っているすぐ近くで、ガソリンで動かされている車、電力で光らされている電球と比べて、その白い紙の玉の動きは、とてつもなく、違った「もの」の動きです。それは、コミュニケーション不能な存在によってなされている。(車は止めれば止まるし、電気も消せば消せる)

コミュニケーション不能な存在。人間のことなど、関係ない存在。

   かつて、あるアーティストが言った言葉を思い出します。「私たちアーティストは、人間など必要としない神様の存在を示すのが仕事だ。」これはいわゆる例の神様が、人間に支持されて存在していること、つまり「あなたは神を信じますか?」なんてことを言う活動に支えられて存在していることへの揶揄ってことでもないのでしょうが(そうかな?)、まあ、そういう「社会活動」に関わる「神」は、その一部でしかない、ことを表していると思います。人間の社会も、人間ということの一部でしかないと言うこともできます。(そうすると、さっきの「つくらない」とはどういうことでしょう?)

皆さんが「ポケットに入れて持ち帰った」のは、紙に書いていただいた「思い出」の方です。それは、その人が書き、誰にも見せず、一人で持って帰っていただきました。それはその人の心にだけ、畳まれて残る。それは、そういう「コミュニケーション不能な存在」に対して、人間と言うちっぽけで、短い命の存在が、唯一「誇れる」勝利としての「想像力とそのフェティシズム」といったことを示したいと思いました。ちょっとだけ、カズオイシグロさんに影響を受けてみましたよ。フェティな面があるところが、文学ではなくて、アート。



アートは「橋」なのだと思います。能の舞台にある「橋」はとっても興味深いものですね。


20.4.11

アーティストの分?

私は悩んでいる。



アート作品って何なんだ? お金にすることができる。そして、それを義援金にする。それは一つの側面だし、それは意外とストレートで「分」をわきまえた考えかもしれないと思う。

一方、アーティストは、アートのアイデアを社会活動にしたい、表現活動として人々の役に立ちたい、と思うかもしれない。アートのお客さんを対象とした展覧会などで行なうのは、きっとやっている人もいるし、もっとあってもいいと思う。
  しかし、現地に入って行き、現地の中で、「義援」として行なうのはどうだろう。アートは本来、そういうことに深く関わっているはずだから、そういう役割は担えるだろうと私は思う(私は思いつかないけど)。ところが、友だちなど数人の人たちには、今はアートの出番ではない、アートは落ち着いてからだという意見が多い。もちろん、今すぐではないにしろ、準備している人はいてもいいかもしれないと私は思っている。もしかしたら、1枚のカレンダーに描かれた絵画が、誰かを癒しているかもしれないと思う。反対する人たちは、アートは「余裕のある時に楽しむもの」と考えているのではないか?と私は考えてみた。それとも、私が、アートに過剰な思い入れがあるからなのか? わからない。


さて。とある、有名国際アーティストがアースワークという形で、東北で作品のプロジェクトをしたいと言っている。そのアイデアには興味はあるけれど、だんだん、考えるにつけて、アートのアイデアを、こういうところで生かすには、たくさんの矛盾が出てしまうのではないだろうかと私は思うようになった。単純に「善意」と言いきってしまうことはむずかしいのではないか?と。喜んで受け入れられるか?の問いだけでなく、プレゼントとして贈ったとしても、そのプロジェクトの成功は、彼のキャリアなのだ。
そして、私は感じてしまう、アーティストの仕事の成功は、本人と、その回りで仕事した人のものにしかならないのではないか?しかも、彼の輝かしい実績の上にさらに、のっかってゆくことになる。世界最悪の惨事がきっかけになって。
それを、一般の人たちの多くと、本気で共有できるだろうか?「無名」の地元の被災したアーティストはどう感じるだろう?
やはり、アートは余裕のある人のためにあるのだろうか?
(マスターピースの発想がその可能性を阻んでいる。なぜ、遠くからやってきてそれをするのか。日本の為に何かしたいという言葉をそのまま聞くには、アーティストという生き物は名誉を求めすぎる。きれいごとは似合わない。地元の被災したアーティストから発せられたものに、賛同するという形なら腑に落ちるけど。あるいは、被災した地元にアーティストにアドバイスして、手伝うよというのも、良さそうだけど。)

社会彫刻。うん、わかっている。でもそれも、アート関係者にしか、通用しない概念なんだ...........


う〜ん。......................アーティストは、自分の表現に、あまりに多くを求めてはいけないのではないかな。たとえ、パフォーマンスのアーティストであろうが、「社会を変える」ようなことを考えるのは、どうか。やはり、アートとは「アーティストとアートファンの世界のことであり、それを文化と呼ぶのは、やはり、それが文化だからだ」。「人間の感情を扱っているからだ。」それは、誰にでも、うれしいものとは限らない。だから、アートスペースがあり、アートイベントがあり、観客は、それらの中から選ぶことができる。そして、被災地で、お客を選べるかどうか。


  たとえば、カズオイシグロの小説を読んだ人は、それを読んで感じた自分の心に、賛辞を贈るべきだと思う。たとえば、その小説のフレーズが、身近な人を亡くした後の心の痛みを癒してくれるかもしれない。カズオと出版社に対しては、本代を払い、小さくサンキュウを言うだけでいい。むしろ自分の心の動きをじっくり味わうべきだろう。それを選んだ偶然や、それを想像力を持って読み込んだ自分のセンスを、しみじみと感じるのが大事だ。アーティストは、その「発見」のために、いくばくかの報酬をもらう。それだけの「分」でいいのではないか。


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  あした、秋葉原のDress Hallという、小さなライブハウスで、パフォーマンスをする。人が忘れてしまうような、ささやかな「喪」のアクションをしたいと思う。しかも、これは、今回の災害の死者たちだけでなく、すべての、これまで「逝った」、身近の人たちに届けたい。そして、参加した方たちには、それは「ちょっとしたこと」という程度に、記憶してもらいたいと考えている。

19.4.11

絶望してはいけない 失望してはいけない

目に見えない、影響がはっきりわからないものに対して、パニックになっている。反原発や原発養護派の戦いだけでなく、反反原発やら、嫌反原発ってのも、ある。結局のところ、放射能そのものだけでなく、かねてよりの政府や大企業への反発ということがあるようだ。いつも思っていることが、つもりつもって、奮発している。そっちはあっちを××××と飛び、あっちはそっちを××と呼ぶ。反対側の発言をすると、こいつは××だとか決めつけて、二度とつきあわない!みたいになる。そんなの、悲しいじゃないの。人間は、情報に踊らされてしまう生き物なんだ。どちらにしても。

政府や大企業を信じないと決めている人は、どんな時にも信じないんだろう。そして、「市民派」をクレーマーだと思っている人々は、どんな時にも、情報を隠すんだろう。

ふう。

ジョークの一つでもかましてみたくなる。でも、思いつかない。



それにしても、アナーキストだって言っている人について行く人たちは、どうなってもいいってことかな。関東大震災では、どさくさに紛れてアナーキストの大杉栄が殺された。朝鮮人虐殺もたくさんあった。阪神大震災は大丈夫だったって言う人もあるけど、すぐ後に、地下鉄サリン事件があった。どれも、アナーキスト絡みだ。高円寺のデモに行った人は、アナーキストの意味を、いますぐ、辞書で調べた方がいい。「怒り」をどんな形で表現、あるいは昇華するか、冷静に決めようよ! 絶望してはいけない。踊らされちゃいかんよ。



おととい、カズオイシグロの特集番組がNHKであった。とても良かったと思う。
「記憶」は、死に対する勝利の証、という発想。すばらしい。ノスタルジーもそうだけど、そういう弱さゆえの想像力を「勝利」という言葉で表した。別の意味でのアジテーターだ、彼は。こういうアジが、私は好きだヨン。


ホームページにいろいろアップ中。古いヘチマのホームページはもうなくなりました。
おととし書いた身体論のこと、アップしました。こんなんじゃ、研究とは言えないけど、案外面白いと思います。よかったら見てね。

http://sakikoyamaoka.com/study%20body.html

17.4.11

来週の2つのイベント

来週の2つのイベントです。よろしくお願いします。


秋葉原Dress Talk Sawing Set vol.6 職業探訪記
日時:2011年4月21日(木)19:00 入場 19:30 イベントスタート 22:00 終了予定
料金: ¥1000(+1drink)
場所 秋葉原ライブホールDRESS
http://www.dress-tokyo.com/JR秋葉原駅昭和通り口より、歩いて30秒〕
企画::フジシンこと藤原伸介
内容:様々な職業の人を呼んで、トークをする。今回のテーマは、アーティスト。
ミュージシャンのジョフィー・ランデブーさんと山岡佐紀子が、フジシンと話す。パフォーマンスも行う。
因にジョフィーさんは、日本人です。アコースティックギターを弾くそうです。



シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー 第4回パフォーマンス公演  "小金井で話す"

日時:2011年4月24日(日)14:30 受付開始  15:00-17:00(6名同時に開始)
                                         17:30- 報告&交流会(シャトー2F、約30分)
江戸東京野菜のスープが用意されるかもしれない。
場所:武蔵小金井駅周辺 数カ所
受付場所・インフォメーションデスク(マップ配布)小金井アートスポット シャトー2F  
       インフォメーションデスクでマップと情報が得られます。
       現在のそれぞれのアーティストの動きはツィッター、携帯電話などでの通信手段でも確認できます。
参加料:500円
出演者と内容紹介 :
山岡佐紀子
「こがねい」にはなぜか大学と畑が多い。「いがねこ」さんは、食(野菜)を通したコミュニティづくりをめざす大学生たち。野菜好き♡山岡。まずは、武蔵小金井で一番渋い純喫茶にて、彼らに会います。目印は、江戸東京野菜です。
村井元
日常生活につながりつつズレていく行為を作る私。あまり縁のなかった小金井に通うようになって、見回すと路上にさえも面白いズレかたをするものがいろいろ 。それらを撮った写真帖を片手に、何か話そうと思います。
直方平ひろと
こんにちは!直方平ひろとです。
今回は自分をフリーで公開、話さなくても見るだけで、どこか心に響いてくる、そんな存在論なパワーをぜひ召し上がれ!!! (注:会話可)
小林橘花
はじめまして。こんにちは。いい天気ですね。
今日はどちらからいらっしゃいましたか?通り抜けて行く場所で、耳を傾けます。あなたと、だれかの話でもしながら。
門倉緑
最近ある人に「きのこ」の本をプレゼントしました。その人は山できのこを探すと思います。私は小金井でキノコを探してみようと思います。今はまだ想像できないひとり言をつぶやきながら。
内田聖良
皆がそれぞれの場所で話します。そこから生まれる音や言葉を送ってもらって、シャトーにインスタレーションします。話の盛り上がりが、何となくわかるかも。
鈴木眞里子
友情特別出演。インフォメーションデスク担当。