29.4.11

先週のひとつめのイベント、「橋」ということ 



4月21日のDressHallでのイベント、4月24日のシャトー2Fでのイベント、来てくださった方たちに感謝します。
   今回は、どちらも、皆さんの御協力もあり、気持ちよくとり行うことができました。勿論、アーティストとしては、反省や今後の課題もありますが、プラスの意味の勉強もあります。まずは、一つ目。http://kokucheese.com/event/index/9976/
 藤原伸介さん企画の「職業探訪記」というイベント。ギターで情熱的に歌を歌うジョフィー・ランデブーさんと私が、司会者である藤原さんに呼ばれて、職業を選んだ経緯や考えについてのインタビューを受けたり、パフォーマンスをしたり、です。

<ジョフィーさんとのトーク>
ジョフィーさんは、打ち合わせや、楽屋で会っている時と、ステージに上がってマイクを持った時が、あまりに別人なので驚きました。突然、ジョーク飛ばしのMCモードってやつになってしまった。楽屋では、生真面目で、かなりシャイな人でした。彼は、とことん、観客に対してサービスする立場として、ステージに上がるんですね。お笑い芸人さんの付き人の経験があり、「観客が喜ばなくては意味がない」と彼はいいます。なるほどです。でも、そういうステージを見たことがないので、私には何が起きたのか、ほとんどわかりませんでした。ちなみに、彼はステージとそれ以外とでは人柄は変わるけれど、どちらも、けっこう、いい奴なんです。最終的に、どっちも嘘ではないと感じました。むしろ、ステージだと解放されるのかもしれません。

ジョフィーさんからすると、私に対する驚きは、それ以上だったかもしれないです。見た事もないものを見た、という感じ? イベント終わってから、一緒に、食事に行き、私が冗談飛ばして陽気にしていたら、「ステージでもそうだったらいいじゃないですか?」と彼は言いました。固そーな人だったと思ったらしい。面白いです。つまり、私だってモードチェンジしています。

確かに「つくって人に何かを見せる」ということにおいては、同じなのです。何も作らないということはできない。シャトーマルゴーで仲間である、直方平さんは「つくらない会代表」をしています。「つくらない表現」を目指している。でも、私が思うに「つくらなくする」には、「人間以前」になるしかないかもしれない。人間の行為は、すべて、他者との関係によってできています。では、一人でいる時はどうか?と言う質問があるかもしれません。しかし、それも、人間が成長する段階で、回りの人を見て、覚えたことです。その時に誰かに見せていないということが、見せている状態とそれほど、違わないかもしれないし、だから、その問はあんまり意味がないようにも思います。

以前、観客をわざわざ呼ばない屋外イベントというのを、何回かしたことがありますが、その後、観客がいる室内イベントをしたら、する事が全く変わるパフォーマーがいました。私には、観客のいるいないに違いがあるとは思ってませんでした。「観客は呼ばない」と言っても、知っている人は少数は来る予定だったわけですが「公演」でなければ、「本番」とは思わない、という感覚があることを、その時知りました。

ところで、この日観客は4人だったけど、ジョフィーは一生懸命やっていました。彼は、いい成長をする人だと思います。まだ、25歳です。にもかかわらず、歌のテーマは「昭和」です。なぜかなつかしい歌声です。ギミックですね〜。

<パフォーマンス「白い時間」>
さて、私ですが、パフォーマンスの前に、DVDで過去の作品を2つほど見せました。その日行なうのとは、全く違うタイプのものです。

それから、その場でのパフォーマンス。冷蔵庫のコンセントなども抜いていただいて、なるべく「静寂」を作り、細かい音に集中できるような状況をつくりました。と言っても「音のパフォーマンス」がしたいわけではありません。「息」を意識したかったです。今年に入って声を使うパフォーマンスを2回ほどしましたが、私にとってそれは、「音声」である前に「身体からの音」というところに意識があります。息は、不思議な事に、それが聞こえると、むしろ、息がない、状態を連想してしまいます。そうではない? その付随物として、薄葉紙がかさかさ鳴る様子も加えました。衣擦れのようだから。私のポケットの中から、折り畳んだ紙を出し、ゆっくり広げました。その時なる「音」は、これも「音楽」としてではなくて、物質感です。

前半は一人で行ない、後半からは参加型です。私のポケットから出た紙は、折り鶴に変身しますが、その後、鶴の腹のところに吹き込む私の息で、すぐに、ただの広い紙になってしまいます。それをその場にいる人の人数分の倍の紙に、はさみで切り分けます。ひとり2枚ずつ受け取っていただきます。エンピツを配る。

私は「誰か亡くなった方を思い出してください」と言いました。「会った事のある人でもない人でもかまいません」。「1枚に紙にはその人へのメッセージを、もう1枚にはその人の思い出を書いてください。発表はしませんから、好きなことを書いてください。」「メッセージの紙は私のところのテーブルへ、思い出の紙はポケットに。」

私のところに集められた紙は、丸めて私は、私の口にほおり込みました。口の中で、唾をよく出して、ゆっくり丸めて行きます。それから、空也上人みたいに舌の上にのせて外にだす。空也上人の出したものは、念仏でしたか?(最中じゃないよ〜)

口から出した白い玉(直径3cmくらいでした)を手にとり、皆さんと一緒に神田川に行きました。この時、川越の土産物屋で買ってきたきつねの面を、観客のひとりに方に被っていただき、川までの行列の先頭を歩いてもらいました。Dress Hallのある秋葉原の地の神様は、火伏の神様であるお稲荷さまだと聞いたことがあります(秋葉神社ではありません)。地の神様に守っていただき、川まで行き、橋の真ん中の欄干から、その玉を、川に落す。落した白い紙つぶて玉が、下流にゆっくり流れていくところを、みんなで見送りました。時刻はもう9時過ぎていて、夜のしじまに薄れてゆきました。

今回は、けっこう象徴的な要素を使いました。今の時期「喪」ということを感じてやまなかったので、アーティストの身体のひとつのあり方として、もっとも古典的な「シャーマン」の要素を意識し、小さな、小さな、儀式を執り行いたかったのです。ベーシックな感じのするパフォーマンス。(というか、アート作品ってみな「喪」ではないかとすら、思っています。)
 要素として使ったものを列記してみます。

ポケット
折り畳まれていること


呼気と吸気
衣擦れ


舌の上に載せる
空也上人
唾液
白い玉
紙片
2つの紙片
書き込む

ねり歩く

引き潮
きつね面


行方を追う
見送る
持ち帰る


<コミュニケーション不可能な存在への恐れ>
後で気がついたのですが、川に落ちたものをみつめるという行為は、特に言わなくても、人はしてしまうようなものですね、思った以上に。そして、それが消えて見えなくなるまで、まるで「みんなの出来事」かのように、見送ることができました。確かに、皆さんの書いたものですから、みんなの出来事です。読み上げることもなかったので、それを知るのは、川のお魚くらいです。あるいは、私の舌かしら。


静かに流れる川も、津波も同じ、自然活動なのです。秋葉原あたりだと川の流れは、地の高低ではなく、河口の潮の満ち引きが影響します。そう思うと、ゆっくり流れているけど、それは、有無も言わさず流されていると感じられて、恐れを感じてしまいます。特に何かをした訳でもないのに、白い紙の玉は確実な速さで流れてゆきます。私たちの立っているすぐ近くで、ガソリンで動かされている車、電力で光らされている電球と比べて、その白い紙の玉の動きは、とてつもなく、違った「もの」の動きです。それは、コミュニケーション不能な存在によってなされている。(車は止めれば止まるし、電気も消せば消せる)

コミュニケーション不能な存在。人間のことなど、関係ない存在。

   かつて、あるアーティストが言った言葉を思い出します。「私たちアーティストは、人間など必要としない神様の存在を示すのが仕事だ。」これはいわゆる例の神様が、人間に支持されて存在していること、つまり「あなたは神を信じますか?」なんてことを言う活動に支えられて存在していることへの揶揄ってことでもないのでしょうが(そうかな?)、まあ、そういう「社会活動」に関わる「神」は、その一部でしかない、ことを表していると思います。人間の社会も、人間ということの一部でしかないと言うこともできます。(そうすると、さっきの「つくらない」とはどういうことでしょう?)

皆さんが「ポケットに入れて持ち帰った」のは、紙に書いていただいた「思い出」の方です。それは、その人が書き、誰にも見せず、一人で持って帰っていただきました。それはその人の心にだけ、畳まれて残る。それは、そういう「コミュニケーション不能な存在」に対して、人間と言うちっぽけで、短い命の存在が、唯一「誇れる」勝利としての「想像力とそのフェティシズム」といったことを示したいと思いました。ちょっとだけ、カズオイシグロさんに影響を受けてみましたよ。フェティな面があるところが、文学ではなくて、アート。



アートは「橋」なのだと思います。能の舞台にある「橋」はとっても興味深いものですね。