10.4.11

ひとつにはならない

「にっぽんはひとつになる」キャンペーンが、ひと月近く続いて来ましたが、(震災直後はそうは言わなかったかも、ならば、3週間くらい?)そろそろ、「それはできないけど」空気が始まったのではないでしょうか。
今日の都知事選で。

Twitterで、私は、右でも左でも、文にそれなりの情報力や魅力のある人をフォローしているので、見ていると、「選挙」「原発」への意見は、確実に、割れているのはわかります。でも、こうしてこうもありありと「選挙」について、数字で表されると、気持ちははっきりきます。東京の多くの人は、「変化」が受け入れられないのですね。ならば、どの候補なら良かったか、ということは、私は正直わからない。けれど、もう少し「迷って」欲しかったと思います。
本当は、選挙は延期すべきだったと思っています。さっき、石原氏の会見を聞いていて思ったのは、彼以上の「パワー」を持った人物がいないってことが、問題なんだろうなと思いました。彼は、当選して、「怒っています」。当選を喜んでいる場合ではない、ということだと思います。(いくらかはポーズだろうけど)

それから、本日のデモ。楽しかったですか? こっちは、Ustreamなどを見ましたが、完全に祭りになってしまっているように見えました。なんか、楽しそうだ。なぜ、高円寺なんだ?誰に訴えているのか? 気持ちを同じくする人が集まっている??


当選して怒っている人。一方、怒るべき人たちが、笑って行進している。
すごく、へんだと、私は思う。日本人は「ひとつになる」ことが大事なのではなくて、ものごとを受け止める力が必要なのでは?


それから、私が参加している海外でのチャリティイベントの実行委員のボランティア活動の方。こちらも、ちょうど、節目です。一応、まだ私は協力はしますが、やることは、頼まれ事だけになると思います。なかなか、企画進行がうまくいかないこと自体は、やろうとしていることの難易度の高さから、やむをえないと思い、理解しています。なかなか興味深い方達が集まっているので、刺激的です。しかし、アーティストは何もできないと思われているみたいです。もう少し信頼して欲しかったな。

そして、そろそろ、私自身の表現として、私自身のメッセージとしてどうしていくか、考えをまとめる時が来たのだと思います。その上で、あらためて、ともに動ける方に出会えればいいし、出会えないなら出会えないなりに、自分へのおとしまえをつけていこうと思います。それによって、私は「責任」というものを感じ始めています。やはり、アーティストとして、呼ばれているところで、それを示すことになるでしょう。(だけど、その肩書きでしか、人を見られないなんてつまらないよ)


私は、人は、「人間」のことばかり関わりすぎていると、感じます。しかも、目に見える、近くの人のことばかり気にし過ぎなんじゃない? つまり、自分の、目に見える範囲の身体の、小さな村に、住んでいるのだと思います。そうではなくて、遠くにいる人、会った事のない人、それから、自然に起きていること、さらに、目に見えないこと(オカルトじゃないよ)、手に届かないことやその考え....... 月と自分の意識が同等に思えるほどの、想像力を持つことができる....... というのは、芸術ではない、易経の考えだけど、そういう意識は大事です。たぶん、近代以前の人間には、それがありました。有限の人生なんか、のりこえちゃえ。
そして、自然への畏怖を、どう定義するか。どう関わるのか。どう受け止めるのか。そういうことを考えています。
とはいえ、私のすることには、限りがあるが。(でも、気持ちは月まで行きたい)



とにかく、

皆さんも、ひとつになる、なんて言葉は、あまり信じてなかったと思います。ひとつになることなど、できませんよね。もともと。
でも、協力しあうことはできる。



<余談>

そういえば、母は石原氏と同じ年です。母は言います「あの人、あれで小説も書いているのよ、すごいわ」。「じゃあ、何か始めれば? 知事はできないけど、小説は書けるよ。」と私。「ネタはいっぱいあるのよ〜」と母はにっこり。まあ、年長者に、希望を与えたという一点において、都知事選は意味があったかもしれません。私の年齢でも「役立たず」扱いになるような「若年信仰」社会ですから。