16.9.08

バブル























BT別冊に載った、私たちのイベント「港町往来ワンダララ計画プレイベント」をの告知を見て愕然とした。バブルだ。恥ずかしい。
イベントは、ささやかなものなのに、別冊といえども、全国版の雑誌の1ページを使って、カラーで載せるようなものではない。

なんというのか、「分」というものがあるだろう?

もちろん、載せていただいたのは、ありがたい。もっと、きちんと状況を話さなくてはならなかった。

たぶん、トリエンナーレバブルへの期待というものがあるようだ。

でも、たぶん、実際は、バブルはないよ。

実際のトリエンナーレは、とてもとても、地味です。行ってみて驚いた。これに何億も使われているとしたら、どこに消えたのかしら? と思うほど。
良い作品もあったけど、作品てあんな風に、見本市みたいに、ばたばた見るものではないと思う。じっくりした作品のところを、観客はどんどん通り過ぎて行く。大金持ちのオノヨーコやマシュー・バーニーの作品は、たぶん、テレビモニター代だけだったのではないかしら。テレビモニターも誰かに借りれば、ほぼたタダ。でも、なんで、日本で毛嫌いされているパフォーマンスをそのテーマにしたのか、謎。ヨナタンのパフォーマンスを見て思ったのは、そういうことでもいいなら「おれにもやらせろ」という言葉。やるよ?
1970年代に、ハラルド・ゼーマンが、ドキュメンタ展に、ハプニング系の(今でいうパフォーマンス)アーティストをたくさんコーディネートして不人気につき入場者激減、イベント主催しているカッセル市に訴えられて、賠償金を払い、破産して、美術館の館長の職も辞して、しばらく、隠遁した、という話をどこかで読んだけど、大丈夫かな。つまり、それを予見して、低予算にした? 

でも、ジミならジミでいいです。権威がないならないでいい。そういう展覧会だと思うから。権威がないなら、ツッコミを入れる必要もない。

それより、まわり。たとえば、ゲリラというのは、アンチであって、つまりは、攻撃相手の権威を認めていることになる。わたしも近くにいたら、そんなことをしたかも。なんか、うんざりする。
中心が、空っぽで、まわりが騒がしいというのは、実に日本的。今度は、皇居を使って、国際展をしたらどうでしょう。


今は、じっくりと自分たちの展示のために、充実した時間を作る準備。せっかくできたいい人間関係は大事にして、そして、今は、内面的になる時間。

どうも、わたしは祭りに向かないようである。
「分」という日本的美学、久しぶりに思い出したけど、たぶん、非常にいいタイミングだったと思う。
ただ、港町というのは、たぶん、もともと、バブリーな場所なのだろう。ただし、それへの問いの声も色々耳にした。思想とスタンスが、明確になっていく、ワンダララな日々、道のりの始まりである。