28.5.09

バラバラバラいう音

仕事。仕事は楽しい。どんどん、来れば良いのだが。絵を描く。様々な形にくりぬかれた本が、何冊もぱたぱたぱたぱたぱた。

かつてアップした作品ではあるが、フルバージョンを手に入れたので、アップした。わざわざ、ドイツにメールして、撮影者から買ったビデオ。とにかく、これは音に耳をかたむけて欲しい。一応、演奏している。どこを触ればどんな音のものが出るか、くらいのことですが。大きめの玉は、りんごです。米、豆、ビ−玉、鈴、人形、スーパーボール。かゆいのか、いたいのか、うれしいのか。実は、「ダンサーインザダーク」のラストシーンを見て、影響を受けた。
9分以上ある。1分くらいはじめの所をカットしたけど、ほぼノーカットバージョンです。
これは衣装がもうぼろぼろぼろぼろぼろなので、やれません。また作るかしら。


27.5.09

私の依存

どよーんと疲れてから、数日、夜更かしはせずになんとか、過ごし、元気を取り戻す。パソコンのキーをうつのもいやになっていて、必要最小限をこころがけていたように思う。ブログを書きかけても、愚痴みたいになりかけたりする。
人間疲れちゃいかん。

「依存」のことを少し考えた。人間誰でも、何かに依存している。というのは、これであっていますでしょうか。たぶんね。犬は何かに依存するかな。その生存に必要なこと以外に。猿ならしそうだ。
 わたしはいろんなものに依存している。恥ずかしいから、一番、感じのいい依存のことを言えば、朝起きると、ベランダのバラを見に行く。5月初旬の母の誕生日に買った。ローズフォーエバー社のモスクワフォーエバーという品種。あまりきれいではない。でも、雑種みたいな感じが好きで買った。.....というのは、うそか。鉢植えはそれしか、売ってなかった。....予算に合うのは。
きれいではないが、面倒を見る。咲いていた花は、ほとんど、終わって、新しいつぼみは、4つくらいしかない。それが今、咲いているが、ビッコだったり、はじめからめしべ丸見えみたいに、下品で美しくない。でも、面倒をみる。新しい葉っぱが、一生懸命だ。
毎日の、ほんの少しの変化をみる。........ということに依存している。

最近、作品を進化させるようなアイデアを考えていない。どちらかと言うと、これまでの作品の総括をしている。今ひとつ釈然としないことがあって、どうしようか、などと考える。クロアチアで、話すなら、日本人というバックグラウンドについて、案外知らないと思うから、つけ加える。ボストンの学生は、日本が19世紀末に国を開いたことすら、知らなかった。やはり、バックグラウンドを聞くのが、彼らには、元も、わかりやすいと思う。
しかし、異文化交流の要は、「どう違うか」ではなくて、「共有できることは何か」なのです。学生の時、読んだ本に書いてあって、感銘を受けました。

でも、最近読んだ本に、「他の人や、動植物などに、なりたがる人は、不幸な人です」というのがあった。しゅ〜ん。
植物と私の共通点を探しているってのでは、いけませんかね。 絵は、いつ描いたのだか、忘れました。かあいい〜でしょう。

23.5.09

土曜

どよ〜んと疲れている午後。土曜だからではなくて、不規則な日々の疲れが、どよ〜んと出た。夜中の方が、仕事になることを、知ってしまって、夜中人間になってきた。でも、疲れるぜ。

こんな日は、美しいものが、見たい。目の保養という言葉があるが、身の保養というものがあって、何か、美しいものが見たいと思う。わたしが言う美しいものって、なんでしょうね。
もう2つばかり仕事があるから、それをしたら、考える。いつ終わる? とりえあえず、おいしい水をごくごくしておこう。


平和に見える(いつまでかな〜)国の平和なたわむれ。
写真は、芝田文乃女史。

20.5.09

人間は草である

という考えにもとづいたパフォーマンス。
境界人格障害の人のことば「人間は生きている。草は生きている。ゆえに、人間は草である」から、きていてる。精神科医のなんとかという人の著作でみつけた。
わたしは、感動したのだ。その、勘違いが、美しくて。勘違いかどうか、わたしもだんだんわからなくなる。見ず知らずの、患者さんに捧げます。
やってみるのは、楽ではないけど。
大通りの脇の草むらは、おしっこ臭かった。花屋は、人口的な飾り付けのせいで、すごく、窮屈だった。
どちらもうるさいし。人間のいるところの近くは、どこもうるさい。

まあ、ばかばかしいパフォーマンスと思うかどうかは、それぞれ。草というより、虫みたいだって誰か言っていた。じっと見て、何か、面白いかというと、面白くもないだろう。
一日2時間ずつ3カ所にて行う。もう一カ所は写真しかないので、今度、スライドでアップします。

クロアチアでは、村のはじから、もう一方の端まで、歩こうと思う。その真ん中あたりに、イベント会場があって、そこでは、室内バージョンのWind from Skyを行う。それをしたら、また歩く。ずっとずっと同じペースで歩くつもりだが、植物って、急にぐんぐん、のびたりするでしょう? 風に乗って、お日様浴びて、ぐんぐん歩くかな。(雨の日の場合は、考えてない。晴れ女だから大丈夫)

ここでは、息をすることだけでした。人間みたいに瞑想したりしない。そこに居るということだけ。うまくいっているかどうかは、しらない。ちょっと修行みたいなものなので。



19.5.09

大丈夫

言葉で言わなくても、思っていることは、結構、他人にはわかっていると思うことがある。人は、会話以上のコミュニケーションをしているみたい。表面的なことは、それなりに必要でも、それはあくまで、表面なんだなと思う。

だから、大丈夫、ともいえる。


思想とコンセプトと技の事を考える。

ちょっとへんな絵。トリオシリーズ。昨年12月に描いた。
自分でいまいち好きになれないけど、たまには、ちょっといやなことしてみないと、収まってしまうきがするので、こういうこともする。純粋なイメージということを言う人がいるけど、わたしはそれは信じない。人は、記憶と経験と、それと個人の体質みたいなことで、想像を構成するのだと思う。自分で身体を動かす人は特に。まみれていることを楽しまなくちゃ。これはわたしの持論。

17.5.09

ぴかぴか

きのうは、友達のKさんとあちこち歩く。

プラットフォームスタジオで、あずさんの踊り。やってきたお客さんのリクエストの漢字一文字で、みじかく即興おどり。常時、4〜5人くらい会場に人がいて、なごやかな雰囲気で行われた。漢字という文化を共有している者どおし、感想を言い合ったりする。踊りは、字の形をイメージしているのか、意味を感じて行うのか、どうなんだろうか、などと思いながら見る。字がどうであるかというより、踊りとは何なのであろうか、彼女のおどりとは何なのであろうか、などと考えた。振付けでなく踊る人は、自分の中の何を、指標にしているのだろう。といろいろ思う。あずさんは、なんでも挑戦するぞ、という勢いがあって、私はいつも感心する。

近くで、Kさんのお友達の絵の展覧会。抽象表現主義は、わたしが15年くらい前に、捨てた画法なので、そのあたりの絵を見ると、とても、複雑な気持ちがする。でも、ふと気づくが、最近の日本でのリバイバルは、もう、かつての抽象表現主義とは、コンセプトが違っているのかもしれない。見た展覧会の人は、わたしより少し年下と言う感じだったが、ずっとこの画法を続けてきたらしい。最近は、売れるようになったとかで、会場には、赤いマークがたくさんあった。

それから、Kさんの仕事関係の古本屋やスペイン料理屋へついていく。両方とも小さいお店ながら、好きなことを仕事にしている感じで、感心する。

好きなことを、自分を信じてこつこつやり続けている人はすばらしい。
また、お金にするという努力がないと、事業の失敗となる人たちが、一生懸命やっているのも、やはり、すばらしい。
ぴかぴかな人々に会った日であった。

そういえば、わたしは、集中する時、耳をそばだてるタイプだとよくわかった。大抵の画廊は、とてもノイズが多くて、わたしに向かないなあと思った。また、家で何かする時に、集中したいときは、聞いていても気にならない曲をエンドレスでかける。そうしないと、耳が落ち着かない。もちろん、音楽を楽しんでいるのではない。耳を消している。

以下、10年くらい前の作品。

15.5.09

ブラスタ

我が故郷よ!とでも訳すのかしら。来月いくところ。クロアチアの村。
以下の写真は、企画者のブラスタとその仲間たち。ちょっと怖い。ブラスタは、魔女のような人。奥で立っている人。
わたしは、西南ヨーロッパに行くのは初めてなのだ。ユーゴの映画を思い出してしまう。二階にいたはずの死体が、落ちて来たりするのかなあ。
以下の映像の人はわたしはよく知らないのだけど、彼らにはとても大事な人らしい。Bela Hamvas。同姓同名のハンガリー人がWikiに出ていたけど、別の人のようである。映像の英字がもやもやでよめん。




14.5.09

くんくん

ひと月程前、友達の引っ越しに手伝いに行った時、捨てられる予定だったパキラという木を、かついできた。翌日の突風で、全部、葉っぱがなくなってしまった。それから、ひと月。毎日毎日、眺めているうちに、新芽が、ぐいぐい出てきて、見事な緑色の葉が広がった。ぴかぴかしている。

新芽のにおいのする季節。今年は、今年の新しさ、だけでなく、世界の新しく生まれ変わるにおいがするようだ。

けさ起きる少し前、あるもう亡くなった彫刻家が夢に出て来て、彼の犬を紹介してくれた。彼は、犬の彫刻ばかりつくっていた。それから、使いかけのクレヨンを大きな箱にぎっしり入れて、くれた。茶系と濃い青色ばかり。ブロンズみたいな色。そして「君も植物と話せるように、必ずなるよ」と励ましてくれた。
妙に、力をもらった気持ちがして目がさめる。すばらしい一日だった。わたしは犬になったか? 
新しい季節は必ず始まる。

以下は別のトリオ。

エンジェル

ずっと昔に見た映画、キャリーのことを思い出した。
あの悪夢のような、友達からのいじめは、キャリーに実際に起きたことではなくて、彼女の妄想の中の出来事だったのではないか、あるいは、彼女は霊感が強いので、イメージしてしまったことが予言となってしまい、実際に起きてしまったということだったのかな。後者だろうね。あのカトリックの魔術使いみたいな母親が、彼女が女性として成長することへ嫌悪を感じたのは、母親の自分自身への性への嫌悪から来てくるのだろう。キャリーには父親がいなかったということは、キャリーは私生児だったかもしれないし、それゆえ、その忌まわしい父親と、性愛に溺れてしまった自分自身への嫌悪を、娘に投影したのだろう、とか。考えた。私は、母親になったことがないので、母親が、娘の中に、自分自身や、夫の姿を見るということは、どういうことなんだろうか、と想像してみた。うんざりだけど。子供を虐待する親の心理の中に、そういうのあるんではないかしらと思う。キャリーはそんな母親に自分の性の目覚めを「禁止」されて、自分自身を汚れたもののように感じたのだろう。これって、小説などにも、よくあるテーマなのかな。原作のスティーブン・キングは、どこからこんなネタ仕入れたのかしら。

話はまったく変わって。
今日描いたエンジェル。下絵は、去年の12月頃描いていたけど、父の病気のことでごたごたしていて、描き上げるのを、保留にしていた。このトリオのシリーズは、まだ数枚ある。また描きたくなったなあ。エンジェルと名付けていたけど、羽根がないね。トリオは、仏像から来ている。脇侍を入れて3人組でしょう?キリスト教でも、トリプティクとか言って、3枚図を描くのよね。
...............今のローマ法王にヒットラーユーゲント時代があったという話、気にかかる。小説家であるギュンター・グラスだってあれほど、非難され、賞をいくつか剥奪されたのだから。ローマ法王ともなれば、もっと深刻なのでは?

11.5.09

ヴィヴィとヴィリ

レクチャーの原稿。いったいクロアチア美術協会って、どれほどの権威のところか知らないけど、なんだか、きちんと話をしたくて、原稿を書いている。書いたり直したり、書いたり直したり。英文のチェックにも出さなくてはならないから、時間はそれほど、ない。
タイトルは「遠くへ行く女」。あれ、このタイトル前に書いたことがあるような......
でも、Missing in Yokohamaは説明しにくいから、今回は省くと思う。
 蝉の死体のこととか、亡命、難民、移民のことなど書いていたら、なんだか、涙がぼろぼろ出て来た。なぜ??なぜ?? わからない。何か、ヒョウイしたかな。高いとこから物が落ちる音のこととか、絞首刑のこととか、考えていた。

 ビュークのセルマソングを思い出したので、出して聞く。短いビデオが入っていたけど、いわゆるダンサーが、踊っているシーンを見て、ちょっと退屈する。ビョークみたいなアーティストが、へーぼんな、ダンスを見て、楽しいのかなあ。と、先入観たっぷりな、感想を浮かべる。

友達が、ポール・ヴィヴィリオを読めと勧めるので、アマゾンで調べると、みつからない。googleでは出て来て、書評もある!!  アマゾンには、ビビリオと書いてみたり、ビヴィリオと書いてみたが、出て来ない。変だな〜と思って他のことをしている時に、ポール・ヴィリリオという名前を見つける。これが正しい。これでやっと調べられて、Paul Virilioというスペルがわかる。
それにしても!! 日本の多くの人がヴィヴィリオだと思い込んでいたことがGoogleのおかげで、わかった。しかも、なんと、松岡せいごー先生までもよ!!
ふふふ。かなりうれしい。教えてあげようかな、どうしようかな。
こんなとまでわかるのが、インタネーット時代である。余談でした。
(検索してみて......ほんとにたくさん、出てるんだから、ああ、あの人まで..。)

9.5.09

羽根虫

 きのうは夜に、東京大学のPodcastの「情報コミュニケーション技術(ICT)」の話を聞いた。けっこう面白くて、夜中までつい聞いてしまった。話はやがて「芸術」のことに触れるはずだったのだが、どうも、「創造性」=「芸術」と、教授は、とらえているらしい。有用技術と芸術は、重なるところもあるけれど、重ならないことの方が多いよね。でも、そういう世の中になって行くのだろうか。しかし、整理しきれない人間の心の部分は、やはり、残るでしょう。心理学なんかで、フォローできないし。
 そういう研究は、何億という予算を投資して開発されているわけなんだが、話の途中で、急に貧困の話になった。世界全体では技術は進歩しているが、世界全体で貧困がますます進んでいるという話。たとえば、インドは、ハイテク産業がさかんだけれど、貧困はますます深刻。ムハマド・ユナス教授は、グラミン銀行というものを始めて、貧しい人たちに、安い利息でお金を貸すシステムを考えた。銀行は、儲けるためではなく、社会の秩序を守る為に営業をする。いわゆるマイクロファイナンスのことだ。ICTの授業の合間に、マイクロファイナンスの話題が混ざるのが、意外だったけど、雇用の話につなげたいのかな。建設業の代わりに、介護ビジネスと言われているけど、ITにも人材が欲しいのです、という主旨に聞こえた。同じ人材かな? 違うよね。
 わたしは、コンピュータグラフィックという意味でのPCにはそれほど関心がなくて、ネットワークの利用のシステムに興味を持つ。パフォーマンスアートだからって、身体芸をトレーニングするという方向にいかない私としては、「旅する身体」=ノマド化する私たち、というイメージの中で、想像が膨らむ。でも、何ができるかな。人間関係のつなぎかたの変化ということがあるのではないかと感じるのだ。デジタルとかバーチャルいうことを越えた、何か。もちろん、使う側に、センスとスキルがいるように思う。
 
専門外がなに言っとると思われるかもしれないけど、他人の領域に、すぐしのびこみたくなる習性なのよ。生半可な知識を書くのは、恥につながるかもしれないけど、.......そうね、やめとくか。

 ところで、ホワイトハウスのホームページって見たことありますか? なにかのファンクラブサイトみたいです。オバマさんの写真は皆とても美しく、週間演説や行事の際の挨拶のビデオもいろいろ見ることができます。右の下の方には、FacebookやYouTubeのリンクもあります。そつなくまとまって、役所っぽくない、スマートさがまさにオバマさん。ブッシュのころから、こうだったのでしょうか? こういう親しみのあるおしゃれな情報の出し方って、目くらましだと思いますか。こういうこともパフォーマンスと言うと思います(ちょっと専門内かな).........。

絵は、羽根虫、2年前の作品。ローテクなさくひんです。

8.5.09

くちばしの厚い鳥

今日は、ひさしぶりに、東京まででかける。12時にG君と渋谷で待ち合わせて打ち合わせ。その後、品川、恵比寿の美術館で、展覧会を見る。
打ち合わせは、かなり良い方向。ここで何か、報告できる日がくればと思う。彼も、いろいろと動いてくれるので、助かる。ありがとうね。

展覧会は、どちらもあまり面白くはなかった。品川ではまあまあ。前に見た作品の方がよかった。でもコンセプトは前よりわかった。どこかで、別の作品を見るのを楽しみにしたいです。へたすると、デパートのディスプレイみたいになってしまいそうなところが、そうならないというのは、どういうことかなあ、と考えさせてくれた。恵比寿の方は、コンセプトはよくわかったけど(頭ではなかなかすばらしいアイデアだと思うのだけど)、表出されているものが、わたしの方向からあまりにかけ離れていいて、疲れがどやっと出た。でも、リサーチにはなったかな。

ところで、 わたしは、インターネットを使うようになってちょうど10年。いろいろなことはあったが、周りを見ると、インターネットというメディアの使い方が、人それぞれになってきたと感じる。今になっておもえば、会って話すのと、電話で話すのは、それほど大きな違いではなかったと思う。それでも、電話では大事な話ができないと言う人はいたけどね。だが、電話とネットはものすごく違うのだ。話が「情報」というものに翻訳されているからかも。書き言葉は、しゃべりの延長みたいに思えるが、とてつもなく違う。
 使い方については、ちょっと意識してみたいと思う。SNSの使い方。mixiのような場合は、一種のお茶の間。仕事の合間や、終わった時に、ほっと御茶を飲むように書いている人が多いかも。Facebookは、社交場。パーティ会場みたいだ。やたら、お友達が増えて行く。
MLは......様々だ。お茶の間になっているところもあれば、単なる掲示板になっているところもある。
メール連絡については、イベントや仕事の打ち合わせにメールを使うのが肌に合わない人と、その方がいい人といる。この10年の間の私の経験では、メールでこんぐらがる人は、会ってもこんぐらがる感じがしてきた(笑)。会うと、親しみは増すけど、肝心の決め事が緩くなってしまうとわたしは思う。たぶん、性格の問題だと思う。
会うのは、頭を同じ空間で、共有することによる、スパークを期待出来る時だ。それができる人って、実は少ないのでは? 相性か? 作品を生で見るのは、そういう可能性があるのかも。

筆やナイフは、自分の身体の延長のように使えるが、メディアは、そうではない。なんでも自分流な人は、道具はよくこなすけど、メディアに気を使えなかったりするかも。 ...........不器用な人の方が、メディアを冷静に使うかもよ、案外。油断しないからね。そういえば、今日、G君は「僕は不器用なもんで」と、高倉健のようなことを言った。
ネットの可能性は、体験だけでなく、ちょっと勉強しようかと思っているところ。平和利用をね。(星)

さて、なので、またしばらく、引きこもろうっと。
今日は池袋の駅構内に、寝る人を見た。どきっとする。あれは、わたしかもしれないのだ。

5.5.09

にこにこしっぱなし

日曜は、AさんSさん夫婦(別に名前を書いても良いのだけど)が、はるばる私の住んでいる町まで、遊びに来てくれました。観光と近況の交換といったところでしょうか? わが町は、旧市街のあたりが観光地です。わたしの住んでいるあたりでは感じないのだけど、場所まで行ってみるとなかなか、楽しい。フィクションとノンフィクションが混ざり合っています。整備もサービスもいやらしくなくて大変よろしい。商魂もほどほど。観光バスがどやどや来るのではなくて、ほぼみんな電車でやってくる。不景気につき、遠距離旅行をあきらめた人々が押し寄せるのでしょうか。しかし、寺の方を歩くと、人はまばら。
 歩き回って疲れたけど、おしゃべりも大変だった。3人ともよく話した。彼は、いったいいつから、あんなによくしゃべるようになったのでしょう。彼女のおかげか? とにかく、来てくれて、ありがとうね。これからもよろしう。


 またアップしました。これはクロアチアでもやろうと思っているパフォーマンスなので、先方に見てもらいたいです。見た方は、よかったら、評価の星をつけてくださいね。.......よかったら、ですけど。
 「We are Elegant 2007」
 村人に「エレガントなアクションとは?」と質問し、ポーズを見せてもらいました。21世紀の思想のために。後でノートにスケッチをし、その中から、7つのポーズを選び、翌日のパフォーマンスで、村人たちといっしょに、行いました。
これらを、2本に分けて本日アップしました。このビデオを編集しながら、私の顔はにこにこしっぱなし。登場人物たちが、みんなにこにこにこにこしているから。てれくさいらしい。アートと遊びすれすれのものですが、写真が、文化庁月報に載ったことがあります。つまり、ブンカには違いないらしいね。(因に、文化庁に助成してもらっていません。)

まずは、インタビュウの方。
世界初公開!! 村の様子がわかるかも。前の年のインドネシア地震で、ぼろぼろになった村。ほぼ全部の家が、再建中、あるいはできたばかり。



次は、本番、墓地でのパフォーマンス。これらの写真は大分出回っていますが、ビデオはまだあまり。子供もおばちゃんたちもかわいい。

3.5.09

「山道を登りながら、こう考えた」

NHK教育テレビで、美しい家具や室内の紹介をしていれば、それは、美術鑑賞、教育的目的なのだろうと、思う。だけど、どこか民放ならば、「どこの社長のお宅?」ということになるのかもしれない。このことに気づいて、わたしには、ちょっとショック。たぶん、後者の関心の人が、世間のほとんどをしめるでありましょう。 NHKだって同じかもしれない。でも、わたしは、造型として見てしまう。誰の財によるものかは、造型の美は、常に逃れられないのか?

それらを、切り離して考えるのは、本当にナンセンスなのか?

 
時々、ヘッセの『地獄は克服できる』という本を、本棚から出して、眺めながら寝たりするのだけど、実はあんまり読んでない。ヘッセの文体はあまり好きではないのだ。ただ、そのタイトルの直接的なインパクトが気に入って10年くらい前に買った。何か、薬のような効果を期待させるので、時々ベッドに運んでしまう。きのうは、めずらしく、少し読んでみた。ところが「なんだ、このおじさん、わがままなだけではないか」と思ってしまった.......。ただ........わかるところもある。世間的な価値感に、絶望しているのだ、彼は。グールドが、漱石の『草枕』を愛読していたのも、同じような理由かもしれない。「「山道を登りながら、こう考えた」は、『草枕』の書き出し。


おととい紹介した4つのビデオのうち、このビデオの鑑賞記録がなぜか、少ない。でも、上演の際、このシーンが最も評判を呼んだのです。ドイツでも、マニラでも。日本では、このパフォを行うのに適した空間がないので、やってない。
もいっかい紹介。

1.5.09

ジョージ

 「ジョージ・マチューナス」とグーグル検索すると、びっくりする。1000件ちょっとしかない。わたしとあまり変わらない(笑)。
日本ではあまり関心が持たれていないらしい。とっくに亡くなったから、セピア色のイメージだけど、わたしの父より1歳若い。彼が生きていたのは、それほど前のことではないというわけ。
 知り合いのフルクサスのアーティスト、とまあ、呼ばれてしまう、わたしの大好きな女性(日本人、ドイツ在住)がいるのだけど、彼女から長いお手紙が来た。去年、フルクサスがらみの展覧会が日本であり、その時の、カタログに訂正箇所があるということで、そのコピーを送ってくれた。今更、印刷直しを求めているというより、できるだけ、知って欲しいということらしい。
どの箇所も、ジョージに関わることだ。
ジョージがいかに、..........であったか。なんだか、死後、30年近くなって、腹に据えかねてきたらしい。彼に対してというより、ジョージにまつわる伝説に疑問があるという感じ。
しかし、いったい、誰が、ジョージの死後に、フルクサスを有名にしたのか? おかげで、彼女も、作品1本で、外国であるドイツで食べて行けるのである。けれど、たしかに、伝説とファンタジーが年々、増えてきていることは確か。「大事なことなので」と彼女が書くように、確かに、ある意味大事なのだけど..........世の中、事実はそんなに大事ではないのかもしれない。彼女のきまじめさには、心より敬服する。

以下は、2004年に結構、評判の良かった作品。
トータル50分くらいのパフォーマンスで、それを20分に編集したものを、さらに4本に分けた。
わたしを、ストリートで寝てるだけのパフォーマーだと思っている人は少なくないかもしれないけど、ある意味、こっちが本業。