15.12.09

健全な(その定義もむずかしいけど)思考力、分析力、理解力、想像力、創造力を維持、あるいは発展させるために、必要なセルフエデュケーション、テストする場所は、常に必要だ。ヒエラルキーに対するセンスなども。

また、闇の中を歩いている人が、目を頼りに歩こうとしている、そのフラストレーションに、何ができるか? ということを考える。目で見るのは、やめた方がいいと言って伝わるかしら。

以下は、今年のベネチアビエンナーレで見たロシアの作家の作品。ブラックライトで照らされていた、壁に描かれた作品。うっかりフラッシュをたいて写真をとると真っ白の壁しか写らないかった。

13.12.09

定番

ジェイソン・リムがメールをくれて、以下の写真を貼付して、「君を思い出したよ」と書いてくれた。それはうれしい。カクテルパーティが始まるたびに、思い出してくれる人もいるかもしれない。
わたしは、むしろ、その下のロイ・ファーラを思い出す。
ジェイソンだって、グラスをよく使う。
まあ、パフォーマンスアートの定番の素材でもあるんだ。どう潰すかが、アーティストのパーソナリティやコンセプトによるので、それが、味わいの決定的な違いになる。


12.12.09

Drill

2006年のヘルシンキでの”Drill” アップしました。携帯電話機で有名なエレクトロニックカンパニーであるNOKIAの工場だった場所が、「ケーブルファクトリー」という名のアートスペースになっている、そういうところで行いました。レポートあります。

パフォーマンスとしては、ちょっと納得してない所もあったのだけど、今見ると、自分でわからなかった所の意味がつかめた。
..........とにかく、このビデオは8分くらいですが、実際は50分くらいであり、いかに、しつこく、「ドリル」していて、お客がどれほど、あきれ果てたかは、想像していただくしかないのかな。
あきれて果てる、というのが、大事なのかな〜

近代日本が、身体的に近代人になる過程を、ちょっと皮肉をこめて紹介しました。日本人だけでなく、20世紀はセカイ中で、拳をあげていた。ロックンロールも20世紀的な4拍子のマーチのひとつ。高いところで、手を降り、投げキスをする私は、ロックンローラーなのか? 

金属をリンゴという身体に埋めていくのは、鍛錬と錬金術をかけた。無理矢理、近代化させられる身体が悲鳴をあげている、というイメージ。実のところ、にせものなんではないの?というわけ。

というテーマなんだけど、楽しんでいただけるかどうか。

11.12.09

触れられる音

いたよね、ウィル・スミス、オスロに。ニュースでちらっと見たけど、説明もなかったので、自分で探した。(ヒマなんだ、わたしは)

ところで、C&Mは、東京でも新しいメンバーが入ったし、台湾のメンバーも入った。どう進化するか、楽しみ。よくあるスタイルの交換イベントだけはやりたくない。花火のように終わってしまうからね。 来年は、大学を卒業するメンバーも多くて、これから必ずしも、学生対象にはならなくなるでしょう。それでも、「自主研究」である柱をすてずにいたい。イベントなら、世の中たくさんある。それに、芸術家になるだけが、人生の選択ではない、という方向でいたいとも思っています。わたしは、もう方向転換できないけど、若い人たちは、様々な方向があるべきだと思う。それに.......一番、大事なことは「アートはアーティストのためだけではない」ということかもしれない。なんてね。

父の病気のこともあるので、今年から来年にかけては、じっくりした日々を送りたいとも、思っています。

写真は、スティービー・ワンダーの指。たぶん、まだ彼が20代のころ。後ろにある白っぽいのは、誰の指か知らない。ビデオからとったので、次の映像と混ざっているけど。見えない人が、音を「触れられるもの」のように感じているかのような、感じに、関心があります。辻井君にもちょっと注目。

9.12.09

それは冷やしてはいけない

きのうは、午後に、ひさしぶりに、LeeWenに会い、喫茶店でお茶を飲みながら、近況を話しあう。もう、10年のつきあいだと、「古い」友達の領域だ。ありがたいものだ。
それから、ICCに行こうとしたけど、もう時間が遅かったので、あきらめて、渋谷で、御飯をひとりで、食べて、Kと待ち合わせ。彼女は、この夏からの友達。ここでも近況を話しあって、それから、いっしょにイメージフォーラムに行き、イトウタカシ氏のフィルムをいくつか見る。やはり、Spacyのインパクトがすごい。Spacyの面白さは、どんなセンチメンタルもないところなんだ。すっぽり抜けている。ばかばかしいようなセットが良い。Ghostもいいけど、中味や風味がありすぎかも。

あ、わたしのDrillもアップしょう。

以下は、イトウさんのDVDの宣伝用。これでは知らない人には、わからないかも。DVD用の効果と間違われるかも。この宣伝用動画の中では、倉庫みたいなところを、行ったり来たりするとことが好きだな。わたしみたいだから(すまない)。

ところで、見に来ている人々は、そろってむさ苦しいにいさん、おじさんばかりであった。やはり、カップルでは見ないタイプのものらしい。

Kさんと、近くのワンコインバーで、赤ワインを一杯だけ飲んで、いろいろ話して帰る。赤ワインが、冷えていたので、苦くなっていた。渋谷も田舎なんかな。赤ワインは、決して冷やしてはいけん。
Kさんには、オセロの作品(Ceiling Painting)の話をしたら、大変、おもしろがってくれた。京都の寺院でやって欲しいと言っていた。陰陽道にはまっていくのか、わたしらは。

7.12.09

C&M 少し進行

多摩美でのサウンドミーティングの後、休眠していたC&Mは、新たな展開をはじめています。まだ、言えないけど。
毎日、ジミにメールを書き合って、相談です。 テルアビブのプレムは、本当にいいコーワーカーです。
彼が、今年キブツでのセミナーで書いた論文が送られてきました。戦争とアート、というそのものずばりのテーマです。20世紀に、戦争のイメージがアートの中でどう表現されてきたか、という内容ではないかと思います。面白そうです。
別件だけど、ワンダララ計画で、呼ぶ予定だった、マリリンが、台湾でしたレクチャーの原稿も送ってもらいました。こちらは、パフォーマンスアートのイントロダクション。まるで、知らない人向けの紹介ですが、「観客の役割」というチャプターもあってよさそうです。
わたしの頭の中でも、論文を書いています。
芸術におけるウエスタンスタンダードを受け入れながら、スタンダードの中にいない者の劣等意識でなく、スタンダードの外にいるからこそ、総じた立場で見ることができる、という強みについて。文化は政治なのであります。政治を動かすのではなくて、すでに政治の一部。

6.12.09

こんなことも、あった

写真は、ジェレミー・コールマンによる。忘れた頃に送ってくれるナイスな写真家。最初の3枚は、去年だっけ、桜木町で、寝たやつ。わたしは、律儀に、白いところに寝ているのに、他の人は、適当なのが、気になる。どうして、話を聞いてないのか、と思ってしまうが、まあ、こういうこともある。
後半は、2006年の12月。トキアートスペースで、いろはにほへとを、歌った。最後のは、トキアートスペースの近くのそば屋でイルマと飲みながら、話している。イルマは、いろはにほへとの歌が、なぜか、とても気に入って、教えてくれと言うのである。エンドレスで歌い続けてしまう歌。このころから、わたしの声が通るようになったと思う。けっこう、こっそり、練習したもん。狂言風に。だれも狂言風だとは、気がつかなかったみたいだけど。
この作品は、楽しんだ人も多かったが、いやがった人もちょっといた。 

さっき、友達が携帯メールで、わたしが、阿部寛に似ているのではないかと書いてきた。そうかな。





5.12.09

誰かな〜

このブログを書いている人。わたしのこと、少し、知っている感じ。そんな風に、読むこともできるのか〜、と感心する。

地球の歩き方、銀座編
これはどういうこと? オートマチックに組み込まれたのではないでしょう? ビデオを撮った木村さんの投稿かもしれない。

4.12.09

手術、のことなど

父がまた手術をすることになった。でも、今度、手術すると、死ぬ可能性もあるとのこと。でも、父は、すっきりしたいので、死ぬ覚悟で、手術したいとのこと。一日一日、一時間一時間、一分一分が、貴重に感じられる。
時間が重くなると、今度は、どうしたらいいのか、わからないくて、時間が流れるのを、眺めてしまうことになる。
どのみち、人生とはそうなのかもしれない。

人は、自分に心地よいことで動くという生き物だ。お金がもらえる、異性と(あるいは同性と)仲良くできるといった基本的な欲望の次に、名誉を感じられる、自慢できる、良い人に見られる、何かを得る為に学べる、チャンスを得られる、かっっこいい気分を味わえる、人の上に立てる、自分のセンスを磨ける、自分独自のモノの見方をためすことができる、共犯者になる、などの他、「面白い」にはいろいろなニュアンスがあるが、どちらにせよ、とんがりたい気分とつながっている。誰もが楽しめる、といったことに、あまり興味がないのが、本当のアート好きだと確信している私。味わうには、集中力や経験、想像力のたくましさを求められるようなものに、ぴんと来る、喜び。スノッブさが必要だと思っている。ミーハーよりスノッブ。簡単に見えてしまうものでは、満足しない。


自分の作品。台湾で行ったもの。
目で見ずに、指の感覚だけで、駒を返してゆく。
最後には、すべてYesにしたが、本当は、どちらでも良い。ゆっくり混ざって行く過程が大事だと思う。床には、陰陽のマークが描かれている。白い脚立は、オノヨーコの「Ceiling Painting」の主なツール。わたしは、登って、虫眼鏡ではなくて、双眼鏡を使う。yesだろうが、黒だろうが、どちらでも良いというのが、わたしの方法。21世紀的だと思っている。






3.12.09

共犯感覚

皆さん、お元気ですか。わたしは元気です。身体は、あちこち痛くて、がたがたですが、気力はばっちりです。(年寄りみたいだ)

いろいろなことがありました。「ぴちぴち行動展」のパフォ『Wind from Sky 2』。まあまあです。喜んでくれた人が何人かいたので、それで、良いと思います。銀座でのが、私的にはベストなんだけど、場所が広くなると、いろいろ条件が変わるし、わたし自身の欲も出てきます。ラストは、今回の「ターナーギャラリーバージョン」固有の展開があって、良かった。固有の展開が、大事。課題は、同じテーブルクロスでも、滑りの悪いテーブルというのがあって、グラスがテーブルから落ちる前に、テーブルの上で倒れてしまうことを、どう扱うかです。前できたことを同じことをしようとしても、それは無理だ。台湾の時も、そう。テーブルが大きいという問題もあります。どちらにせよ、楽しくやれれば、何でも良いのだ。


もうひとつ意外だったのは、床が、危険+汚れまみれになること、若い人たちは「面白い」と感じていること。やっているわたしですら、「汚くなった、やばい」と思っているのに、彼らは、そのまま、残したいと思うらしい。なので、当日は、掃除をしないで、その後ずっと、ガラスをジャリジャリ踏みながら、イベントを続けました。酔っぱらいがでると危ないなと思ったけど、最近の若者は、泥酔しないみたいです。飲み物より、食べ物の方が、あっという間になくなります。彼らが、健全であるゆえ、ドロドロが、かっこ良く見えるのかな。もしや「やばい」の意味が、世代で違っているのと、同じような理由かもしれない。


台湾でも聞かれたけど、「発想はどういうところからですか」「コンセプトは?」という質問には、「すべて何もかもをのものを、めちゃくちゃに壊し尽してみたいという欲望って、誰にもあるでしょう?」と私は、まず、言います。すると、聞いた若者は、私の目をじっと見て、用心深そうにうなずきます。決して、勢い込んで、うんうんとは言わない。わたしは、それを見ると、胸がきゅんとなる。おおっぴらに認めては行けないことだと思っている、のか? たぶん、開き直ってはいけないことなんだね。その、やさしさ、臆病さが、好きです。それから、その瞬間、私たちは、共犯者の心になる。それも胸きゅんだ。

銀座で、みんなで寝るパフォーマンスも、共犯感覚だった。わたしのパフォーマンスは見ている人と場所を共有して、欲望や興味を共有することになりがちである。それって、ちょっと、共犯なのかなと思う。反社会的なことを、疑似体験するってカンジ。あくまで、アートの文脈で、それを行うというのが、わたしのスタンス。なので、銀座であれをしても「格差社会」に、問題提起できたとは思わない、通行人にインパクトを与えたいとも思わない。ほんとに、社会の中で、暴れたい、あるいはメッセージをしたい人とは、別だ。


今日は、別のネタを書くつもりだった。今日、書く予定だったことは「類は類を呼ぶ」ということと、人間関係の話ばっかりする人々について、文句をたれようと思っていたけど、まあ、いいや。あしたにしようっと。


腕については、整形外科で、何枚もレントゲンをとって、骨の異常がないということで、痛み止めだけもらう。異常がないって? 骨盤が「ダンス中」みたいに、右上がりなのは、お医者には、「問題ない」らしい。しょうがないから、今度は、整体師だ。ダンスは、ダンスのときだけで良いのであります。ダンスを休もう。