それでも、
まだ、ふつふつ、熟成中のことがある。
きのうの公共哲学カフェでは、ワークショップという方法で、公共の場をつくっていくことについて、それが誰の作品かということとは別の「アート」の方法であると言う話題が前半。後半は、写真というメディアを扱った時の、被写体の立場という話題。様々な意見が、いい感じに出たと思う。前半では、みなさんが作品という概念からなかなか出られないということ、後半には、アーティストを保護する意見が多くて、意外だった。でも、良かったと思う。ディスカッションになっていた。皆さんに感謝だ。
写真ということで言えば、実は、私の頭にはもうひとつ、別のこともあった。「個人の死」を扱うこと。でも、この話は深すぎるので、別の機会にした方がいいと言うことになったので(打ち合わせで)、きのうは出さなかった。
以下が私の問い。
一週間程前に写真美術館で見た、ウイリアム・ヤンの写真について、だ。
HIVで死んで行く昔の彼氏の姿を、15枚くらい(だったと思う)ダイアリーを付けて、作品にしていた。1枚1枚、弱って行くアラン。痛々しい。苦しい。泣きたい。泣いた。このことで、いろいろなことを、思った。
私は、シャッター音を想像して、非情な気持になった。亡くなっていくアランの姿は、アーティストの成功(すでに成功しているかどうかということでなく)に、利用されているような気がして、私はもやもやした気持になった。HIVはゲイだけの問題ではないし(アフリカやアジアでたくさんの人が亡くなっている)、死はすべての人の問だ。だが、どうやら作品的には「一般的な死」とは捉えられてはおらず、現代的で、芸術的な問(ゲイって芸術的なテーマなんらしい)を扱った作品ということになる。なんか、死が利用されているように思った。
でも、今日、ふと思ったこと。
ウイリアムも、このことで、深く、傷つきながら、シャッターを押していただろうということ。自虐的な愛。そして、さらに、自虐的な快楽なのであろうということ。あるいは、加虐的? もしかしたら、究極の愛の方法かもしれないとすら、思った。傲慢な感じがしたのは、そのせいかもしれない。写真を撮ることが、愛の表現であるのかもしれない。
そう思うと、ふと、疑問はどうでもよくなった。疑問の答えには全くなってないけれど。トリッキーではあるね。
確かに、アーティストは作りたい作品のために、注目されるようなテーマをわざわざ選んだりして、他人を巻き添えにしたり、傷つけたりするのだ。そのことで、作品が、貧しいものになることもあるし、とてつもなく美しくなることもある。そこには「因果」はない。
芸術というのは、そういうパラドックスの中にあるんだね。そのパラドックスでもつれているものを感じるのもいいし、まるで感じないで、とにかく面白いぞと言うのもいいし、とにかくひどいぞと言うのもいいし、それぞれの勝手でもある。
写真は、アラン。インターネットの画像検索でみつけた。