17.1.09

深刻とか


















なんだか最近は、悲しい、つらい、系テレビドラマが、どっと増えた気がする。わたしは、どちらかと言うと見るなら、コメディが好きで、深刻もの、根性ものは、苦手。だって、スポンサーがいて、商品やらイメージを売るのとセットで行われているものに、どれほどの真実があるのかしらんと思う。CMが面白可笑しいように、ドラマは面白可笑しい方が、納得いく。

あしたは、わたしとプラットフォームスタジオと共同企画、新年会だ。思いがけず、たくさんの人が、来てくれそう。

アーティストだろうが、そうでなかろうが、イマジネーションを、楽しみのために使うのが、正しいとわたしは思う。「深刻」なふりごっこは素敵だけど、深刻な「気分」に浸ってしまうなんては、「本当の深刻な問題」を、冒涜しているとぐらい思っている。本当の「深刻」は語り得ない。ドラマはドラマだし、NHKのドキュメンタリーも、あまり信じない。信じないところで、興味深く見る事のできるものを、わたしは求める。真実に触れるとしたら、そういう時だと思う。人をいちいち、嘘つきだ〜なんて言うのは、子供じみている(笑)。

おとなな会話を楽しみましょう。

14.1.09

モランディではなく

が、好きだって前の日記に書いてから、モランディの作品を探してみたら、(画集も持ってない)、なんかイメージが違った。自分のとっての理想的なミニマルな絵画って、どれだったか思い出せない。

それでそれを思い出す為に、エンピツを動かしている。どこへ消えたか?
自分の絵を描きながら、いいないいなって楽しくなると、その次に、それって自分を甘やかしているだろう、という別の声が来る。なので、壊す。たとえば、自分の作品のシリーズなんて作ろうと思った時から、自分を甘やかしているのだと思う。問いの対象にならなくなった時、それは休んだ絵になるのかもしれない。と、大口聞く程の絵を描いていない。プロジェクト型ではなくて、孤独とどう向き合うかで、できている作品に向かっている。今年のわたしは、絵もパフォもそういうスタンスで行く。しかし、........いいな、と思うようなものは、結局は、「モード」に合っているだけだったりするのだ。だが、しかも、それは避けにくい。一人でいても、人はひとりでないことが、恐ろしい程、よくわかる。びびってちゃ、だめだ。
そんなことも考えず、すらすら、描ける時期、人はあるものだ。いいじゃん。違ってて。

こんなことをしていても、お金になるわけでもないのに、大の大人が、真っ昼間から、絵を描くということは、まっとうな市民としては、恥ずかしいことなのだ。そういう後ろめたさが、わたしの原動力だ。というよりない。ここで、何かに役立つだろうと思うようだと、だめなような気がする。本質的なエゴについての、専門家になりたい。

父が入院している。2週間で、退院するつもりが、ひと月を越えた。不安な気持ちを、どう自分で解決し、しのいでいくかが、彼の一番の仕事。治療や家族ができることは限られている。他人のしてくれることを、どう受け取るか、そこがポイントのように見える。

それぞれの仕事のことを思う。

13.1.09

絵のこと

2日間、あちらこちらの展覧会を見た。美術館級のものから、ちいさな画廊のものまで。多くの人々の、想像力や、形にするセンスの豊かさに、まじ、感心してしまった。
最後にみた、フジタ展は、少々期待はずれだった。というか、良い作品もあったけど、晩年のはあれは、イラストレーションでしょう?.......と思いながら、イラストレーションってなんだっけと思う。
図式的で、チャレンジがない、ということかな。でも、チャレンジのあるイラストレーションもたくさんある。漫画だろう、と一緒に見た友達が言った。まあ、そうだ、指し示したいことを面白く、かわいく描いたというわけ。
自分の描く絵も、イラストレーションとアートのはざまで、もやもやしているから、どうでもいいながら、気にかかる。
家に帰って一番にしたことは、絵のエスキースを描く事であった。
モランディといった、絵描きのことを、ふと思い出したりした。フジタより、モランディが好きかも。ミニマムなものが好きなんだよね、わたしは。

9.1.09

狙いは何ですか?

学生の時からの友達で、まったく美術系ではない友達。どちらかというと技術系かな、その人が、山岡さんは、相変わらずあちこちに横たわっているけれど、そのパフォーマンスの狙いは何ですか?と尋ねた。わたしは作品シリーズ「Best Place to Sleep」のことです。
なので、以下のように答えたけど、こんな感じで伝わるでしょうか。

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ひとりで行う時は、写真作品として行っています。
権威のある場所、多くのお金の動いている場所、コントロールされている場所を選びます。そういった場所のたたずまいと、最もリラックスした、だらだらした形の身体との、コントラストを、絵として、楽しみます。社会では、身体つまり個人が、社会全体の利益のために、ハイレベルでコントロールされている、という現実を、感覚的にあぶり出したいと思います。それが良くないと訴えているわけではありません。社会とはそういうものだということです。そして、コントロールとコントロールのスキマを、みつけるということをしている、とも言えます。だから、特に、反体制というわけではありません。といっても、レジスタンスのイメージを使ってはいますね。とにかく、あくまで、アート的なレベルでやっているつもりです。たしかに、誰かの仕事の邪魔をしているという認識はあります。失礼でもあります。
参加型もあり、パブリック度の高い場所、交差点の真ん中や、駅、美術館で行います。この場合、写真作品を作る意味もありますが、体験として、空間のスキマを味わっていただくのを目的としています。

5.1.09

interakcje 2008年5月

 新年のあいさつがてら、ポーランドのインタラクシャのオーガナイザーから届いたビデオを、アップします。
昨年5月、ポーランドはピオトルコフトリブナルスキという長い名前の地方都市で、1週間続いたインタラクシャという名前のフェスティバル。ビデオは、そこでのパフォの断片集。

 わたしが、植物のふりをしているパフォ(ビデオの真ん中あたり)では、となりの椅子で誰かが参加しているのがいい感じ。(椅子に、あなたもいっしょに植物になってみませんか、と書いた。風で動く木々の枝葉の早さで時間を過ごす。)一日につき4時間2日間おこなったデュレーションパフォ。これだけするためのポーランドに行ったのか?みたいな作品です。もちろん、それだけしたわけじゃないよ。
 このビデオには、他の人のパフォもいろいろ入っている。このムービーのクオリティでは、作品のクオリティまではわかりませんけど。国内では、まず、共演することのない人の次に、わたしのがあります。

1.1.09

ひみつ

















 去年は、へんな年だった。何かが、わたしに何かを知らせようとやっきになっていたのではないかと思う。それは何かを考える、気づくのが、今年の仕事かも。少し、戦いの手を止めて、思考を深くしてみたい。

 世界には、いろいろな、公然とした秘密があって、それは、日常的な、市民的な会話では構造的に語れないゆえに、「別の方法」で表す必要がある。
 そういうことに気づき、そして、「別の方法」で効果的に表す役目というのがあるのだ。表すことで、気づいている者同士の意識の交流ができるし、孤独ではない(やはり孤独ではあるが)ことを感じていないと、何かが危ない、といったようなこと、だ。
 たとえば、それをバッハの演奏ということで行うこともできる。ある秘密を、そこに込めるために、バッハの作品を借りるのだ。
 年末のある日、でかける時に、本棚から取った、ある一冊の本のはしがきに、そのひみつらしきことの一つが書かれていた、と思う。その本は、去年の9月頃に買ったんだけど。
 タイミングは、単なる偶然ではない。何かの知らせなのだ。

 よいお年を。

20.12.08

誕生日だったので

以下、普通の日記。

   父が入院中なので、母とふたりでわたしの誕生日を祝う。祝うというより、わたしにかこつけて、おいしいものを食べようとしている母なので「お寿司でも取ろうか」と言うが、わたしの関心は、酔っぱらうほど、ワインを飲むことだけなのだ。
   で、夕食は適当にして、近所の手作りケーキ屋のケーキを食べ、シチリアワインに、ガーリックチーズとクラッカー(聖体拝受のようだ)。母は、食べた事のないチーズにすっかりはまり、確実にわたしより、食べた。
それから、見よう見ようと思っていた、グレゴリー・ペックの「オーメン」を見る(母が大ファンなのだ)。ビデオ屋で借りて来る。そして、続けて「オーメン2」。誕生日がテーマになっているので、はまる。まあ、ホラーの古典ということで、シンプルで良い。最近、テレビでやっていた2006年版の「オーメン」は、無駄なことに(風景や室内を美しく見せるとか)色気を使いすぎて、集中力をそぐと思った。見せたいことに集中して、それを誰よりも深めていくことしか、本当の勝ち(?)はないのでは? とてつもなくからっぽに美しい、というのをねらったのかな。でも、ちょっと「広告美術」みたいな美なんだよね。ならば、旧作の方の母親の方が、無駄に美人だし(大スターだし)、父親も無駄に立派(大大スターだ)なので、こっちの方があやしい美は充分。殺されシーンも、旧作の方が残酷。さらに子供はもしや無垢なのかもと思わせる感じがある不安さがストーリーを深く感じさせる。
 朝起きて、母と話すと、チーズの食べ過ぎた夢を見たそうだ。わたしは、鳥かごに、3種類の違った鳥を飼っていて、それを分けてやらなくてはならないと、あせっている夢だった。スキマから、賢く、身体を動かして逃げ出して行く一羽の鳥の様子が、ホラーのように頭に焼き付いている。

18.12.08

植物になる

















































ようやくトロントの時の写真が届いた。ビデオも届いた。なかなか記録の撮り方がうまい。
とりあえず、写真をひとつ載せておきます。


14.12.08

変わった

横浜のさなぎ達から、いつもの「さなぎ通信」が郵便で来た。
理事長が書くには、「これまでのさなぎは、虚業だった。これからは実業となる」。
今年の4月頃に、ふらりと行ったところ、ちょうど、ホステルビレッジのところでパーティがあり、理事長に会った。事務所に泥棒が入り、たしか70万円ほどの売り上げを盗まれた話をしていた。それで、寄付をよろしくというわけである。わたしは2000円くらい出したような記憶。その後のすぐに「さなぎ通信」から全国的な寄付の呼びかけがあった。今月の「実業」宣言の文面にも、泥棒騒ぎのことがまず書かれていた。
まるで、それが転機のように。
「通信」には、書いてなかったけど、そのパーティの時、理事長は、「実はこの土地は一等地なんですよ。これを生かさない手はない。これから、老人介護の町として、たとえば、一人暮らしのご老人が、他の町からも来て、気持ちよく暮らしていける町にしたい。港湾労働者として、職をなくて、路上生活者となった人たちはもうかなり高齢で、あと10年くらいすれば、ここからいなくなる。もう彼らのためだけに、やっていける町ではなくなるので、その準備をしなくては」と言っておられたと思う。
11月29日にNHKで特集があったようで、それについて理事長は「通信」で、「上品」と言う言葉を2回も使っていた。どういう意味かな。

とにかく、変わる。

さなぎの将来と、わたしはあまり関係ないけど、手応えの持ち方が、変わってきているというのは、同じ。
でも、さなぎの過去を虚業と言ってしまうのは、ある意味、ファンだったわたしとしては、ちょい寂しい。寂しがっている場合ではないってことだね。

6.12.08

翻弄
























 今年は、いろんな人や出来事に翻弄されたなあと振り返って、思う。まあ、自分のせいなんだけど。話が食い違うことが多いのだ。うそつき!と、わたしは思っているけど、案外そういうことではないのかも。ある思想本を読んでいたら、現代は、「話が通じない」と感じている人が多いそうです。
 写真の本は、ボストンで勧められて買った本。日本語訳も出ているので、そちらも手にいれようかな。1900年前後のボストンと日本の関係、特に美術品をめぐる様々な人々の話。天心のことやら、フェノロサのことやら。