3.8.12

「豊饒の海」を思い出しながら。

日比谷ダイビルのブタさん



たいして三島由紀夫ファンでもないのですが、人生を少しは長く渡っていると、この小説「豊饒の海」のことをしばしば思い出します。文庫本4冊のこの小説。高校生の時に読みました。なかなか面倒くさい小説ですが、最終巻を読んでびっくりしました。輪廻転生などの様々な出会いの数々の果てに、実はそのようなドラマは「何も起きてはいなかった」と気づかされる、というストーリーです。高校生の私にはあまり理解できなくて、その女の人はうそを言っているだろうか、読者を驚かせるためにそうしたのかしら、とすら思いました。
でも、最近は、そういう感覚、よくわかります。しばしばあることですね。家にいて、どこかにでかけた妄想をするということではなく、実際に、いろいろな活動があり、様々な人に会い、様々ことをし、確かな何かに向かって、...そのひとつひとつの意味の受け取り方が、その時と、それが過ぎ去った時に、意味が違ってきてしまう。そして、総体として、まったく何事も起きていなかったに等しいと気づく...。そして、それは実際、無に帰したというわけではないのです。それは、ある種の経験です。
三島由紀夫自身、私などから見るとほぼフィクションに見えるような理想と、彼自身の人生というノンフィクションに橋をかけて、自ら死を選んでいる。しかも、とてつもなく、作り物臭い、死に方です。

面白いことだと思います。




こっちの手が右で、反対側の手が左であることすら、人間のつくり話で、そう決めてみることによって、いろいろなことが説明でき、創造へと発展するのですから、不思議。

そして、それは「事実」であるかどうか、ではなくて、その「経験」によって、「経験」の質が作られてゆく。

一人の頭の中に、さまざまなフィクションがあり、それがまた別の人との関わりによって、フィクションが増幅されて行く。それらを、「作り話」だと決めつけてしまえれば、それは発展がなくて、ある意味無事に、そこだけの童話のように終わりますが、私が言っているフィクションとは、本人にも他人にも、完全にフィクションには見えない、そのような代物です。どこか違う気もしながら、リアルな要求に根負けして、どんどん「現実化」して行く。

芸術作品は、そのような人間たちの営みの、氷山の一角。そして、疑似創作ですが、完全に作り物であっては、魅力に欠けます。どこまでが本気でどこからが妄想なのか、本人も回りの判断しがたい状況の、宙ぶらりんのバランスが、びったり行った時、それは魅力を放つのかも知れない。それを数時間後にみたら、何でもないものに変わりかねないくらい、あいまいなことかもしれません。それらを「永遠」にするために「うまい言い方」で説明される必要があるかもしれない。あるいはその「うまい言い方」のおかげで、台無しになってしまうことすらあります。

花や水晶が美しいように、美しいわけにはいきません。


意識された様々なことの切り取りと、接続。あっと驚く接続。とんでもない切り取り。あるいは、適切な接続と切り取り。そんなものを見たいし、実践したいと思います。見せ方のスタイルは無限にある。スタイルの出会いも、大事ですね。少なくとも言えるのは、「何かを説明」するものではない、ということです......