20.8.12

感情の再配置 Re-Disposition of Emotion


みずほ銀行 本店にて

とある本の為に用意したプロフィル

山岡佐紀子(やまおかさきこ)。アーティスト。移民、都市、公共空間、旅、感情の推移などを取り扱い、主にサイトスペシフィックな表現を行なう。パフォーマンス、ビデオ、写真作品、インスタレーションなど。

Sakiko YAMAOKA: Artist. Yamaoka undertakes site-specific engagements through a variety of expressions including performance, video, photography and installation. Her work focuses on issues of migration, the city, public space, travel, and  our shifting emotions.


太田エマさんに英文の方を作ってもらって、はっとした。migration(移民) の次のcityには、theがついていて、そして、最後のemotion(感情)には「our」がついている。文の流れからして、cityはmigration(移民)した場所であり、emotion(感情)は、「私たち」の感情である「はず」だと言うことだろう。きちんと考えてはいなかったが、まさにそう。そして、emotionは複数である。1つではない。
言語というものは不思議なもので、他の言語に訳することにより、より明らかになったり、不明になったりする。ここでは、彼女の解釈が入ることにより、私の「輪郭」がはっきりしてきた。感謝。

ところで、「帰化する」は 英語で、naturalization書くらしい。自然化するというニュアンス。国民であることは自然」であるべきだということだろう。なんか強引な感じ。「国民」という概念が、そもそも強引なのだ。そういえば、植物も、帰化すると言う。あれほどはびこっていたセイタカアワダチソウは、根付くことができなかったが。



「感情」のことを最初に考えるようになったのは、2008年に、アディーナ・バロンというイスラエルのアーティストと話した時からだ。彼女の作品のタイトル「Disposition(配置)」のことを、私が質問した。「何の」配置なのかと。彼女は応えた「Emotion(感情)」。彼女がイスラエル人であることから、「あの」土地のことを連想する人は多いだろう。もちろん、それもある。国家へのセンスとは、感情だと思う。法律もあるが、それだけではない。しかし、アディーナの場合それもあるし、だけでもない。自身の感情のことも言っていると感じた。離婚した夫と、また再婚した後のことだったから。しかも、末期がんにかかった夫と再婚したのだ。介護するために。その彼も昨年亡くなった。彼女の作品のタイトルの意味は、幾つかの現実を反映していたと思う。

私は、それまで、感情を作品に扱ったことがなかった。というか、考えたこともなかった。感情は、表現の中で「配置換え」できるだろうか。そう思った。以来、意識するようになった。まさに、パズルのように、上演しながら、感情を配置することを試みたこともある。


7月に関わった「疑問の状態」展では、観客に、いわゆるアンケート、私たちが名付けたところの「質問票」に、考えを書いてもらった。展覧会の主役であるマレーシアのアーティストが、画廊の壁のあちこちに手書きで「感情」を書き込んでいた。「日本人は戦争時にアジアで、日本軍がどのような行為を行ったかすっかり忘れているし、関心がないし、そのことに触れようとはしない。こんなことに関心を持った自分の頭がおかしいのだろうか」と。それに対して、どう思うか、という問いが質問票である。予想を超える40人くらいの人が、ぎっちり小さな字で書き込んでくれた。
「忘れてしまってはいけないことだ。学校で教えらないことを、恥じている」と、ほとんど全員の日本人が、おおよそそう言う趣旨で書いていた。総懺悔状態......。
しかし、彼も私たちも、被害者、加害者の当事者ではない、なんか無理がある。国家(nation)の問題を個人が答えるのは「不自然」な気がする。私たちは、これを強制してしまったようで、少し、申し訳ない気持ちにもなった。しかし...... いろいろ考えたが、.........やはり、私達は、自分の属する集団の責任も背負っていると私は思う。「責任」というのを考えるために、「私たち」という概念がどう形成され、市民としての「責任」が何なのか、考えなくてはならない。

「私たちの」感情というのは、どうやって私たちの中に生まれるだろうか。


そして、ディスカッションの日に、観客のひとりとてして、香港出身のアーティストが入ってきた。「私は、アートは個人的なことをすれば良いと考えます」。そう発言すると、すぐに帰って行った。勿論、その通りだと、私は思っている。アートは、個人的なものだ。そのためにあると言ってもいいくらい。

そして、さらに、もう一歩すすめて思う。


個人の感情は、本当に社会の感情に影響されず、個人のままでいられるのだろうか。確かに、みんながオリンピックに沸いている時に、全く乗れない気持ちというのはある。そればかりか、私たちはしばしば、すべての世界の中で、自分が孤立していると感じることもある。

だが、それは本当に「私の感情」だろうか? むしろ、それは何に属しているのだろか、と考える。私は私を考えているようで、私を私だと感じることなど、むずかしい。私の頭に中に沸いて来る思いなど、私にはコントロールすることはできない。 しかし...... 全く、このごろのことなのだけれど、「感情」をながめることは可能だと思うようになった。


その上で、再配置は可能か? 作品の計画である............