28.1.09

驚く事柄に耐えるために

このところ、えっと驚く、絶句してしまうようなことが続いて、それらをどう理解するか、そしてそれらに潰れてしまわないように、人生には、何が必要なのかということを考えています。
そのひとつとして、世界は、有限なことだけではない、ということを、人間として知るために、芸術があるのではないかと思ったりします。どうでしょうか。

きのうは、オバマの就任式関係で見た写真で作ろうと思っていてコラージュを、やっと作る事ができました。そして、今日は、絵を描いています。
わたしにはそれが、わたしの仕事であり、本当は、すぐにお金になることを何か始めなくてはならないのだけど、他のとりあえずお金がもらえる仕事のすべては、むしろ、逃避のような気がするのです。
でもこれこそが、逃避なのかな。やはり、お金にすることを考えなくてはならないことも事実。

それから、料理ということを、とても毎日考えています。何かの命をもらって、私たちの命を生き生きさせるのだから、彼らを美しくいただくことは、大事なのだと思うのです。冷凍食品になった、鳥のつくねなどは、かわいそうで食べるのがいやです。せっかく食卓に載せるなら、楽しいプロセスの、美しく、愛のある盛りつけにしたい。そのことは、ずっと前から思っていたけど、今はもっと、思います。

人生は短く、芸術は長いと言ったものです。ですが、わたしの精進が、甘いので、人生より短い芸術を作っているのではないかと、日頃思い、とても辛くもあります。

写真は、ジョージ・ワシントン像の下のBest Place to Sleep



27.1.09

距離Distance

いろいろな距離のために。

左は大統領就任後のダンス。ワシントン、建築博物館。
右は、ちっぽけなアーティストの旅の記録。マサチューセッツ州議事堂の中で。

興奮は、居眠りあるいは昏睡の始まり。


















この作品は、サークル/円であるという類似、ダンスと居眠りという対比のことだけでなく、オバマ氏のあの歴史を想起させる演説を意識すれば、この2枚の写真は、アメリカの政治の原点の中の重要な場とも言える、18世紀に建てられたまだローカルだった頃のアメリカのマサチューセッツの議事堂と、今のワシントンでのグローバル化した政治のシーンとの間の、時間の厚み(distance)を感じさせるイメージとなると思いました。また、多くの大統領や政治経済の中心にいる人たちは、ボストンつまりハーバード大学の出身なので、ボストンは、今のワシントンの政治の場の、背景とも言える場所なのではないかと思います。そういう様々な関係性を、思い描く為の、装置(作品)です。
もちろん、わたしという場所と大統領就任という場所の距離を考えるというのが、メインテーマでもあります。わたしは、案外近いんだと思うのです。


23.1.09

医療とアメリカ

身近の知り合いのmixiなどのブログを見ると、驚くくらい、大統領の就任式に関心がないらしい。関係ない? そうかもね。でも、なんだか、もやもやした感じがするんだ、それは何だろうかと、考える為に、私はいろいろを見ている。


ところで、私が書いた「医者につけるくすり」の件、友達に随分、心配されて、いろいろな人が、いろいろアドバイスをくれた。まさに、遠くの親戚より、近くの知人と言う感じ。ありがとうございます。

事情を知らない方へ。
病人なのは、わたしではなくて、父なのだ。父は、脳梗塞をわずらって、これまでに2回発作があったが、2回とも、すぐに救急車で運ばれて処置があり、全く麻痺もなく、回復しました。ところが、今度(12月中旬より入院中)は、大腸がんの手術中、あるいは手術後1〜2日以内に発作を起こし、「病院内」で手遅れになったのです。植物状態は逃れましたが、日ごと、力がなくなっていて、ベッドに寝たきりです。

今、家族はばたばたと、転院をしようと情報を集めているのだけど、どうやら当人は、医者への、義理立てにこだわって、動く気がないようです。「あいつの顔を立てる」とまで、言いました。院長は、父に「元通りの身体にしてあげる」と言ったその日に、私たちには、「寝たきりになる可能性が高い」と言いました。日々、力がなくなっているのを、座視しておれと言われている気がしました。
東京の近くとはいえ、埼玉県は、いかにも田舎で、インフォームドコンセントもセカンドオピニオンも、常識からはほど遠く、院長に説明を求めると、毎回、ごまかしの説明がなされます。聞くたびに、違う事を言います。追求すると、いやな顔をする。

わたしが納得できない院長を、信じると言う父。今は私は、それも、彼の人生かなと思うようになってきました。
わたしの友達は、皆、声を揃えて、「患者の主体性を」と言って励ましてくれるけど、父は誰かに預けてしまいたいらしいです。素人判断は、だめだと言う。本など読むなと言うのです。......それも彼の「主体性」のうちかな。

少し。父と話し合って、みます。どうしても、それでいいなら、わたしは、母の人生を守ることを優先しようかと思います。もちろん、わたしのもねっ。男どものメンツの尻拭いを、女がやる、なんてのを、目の前で見たくないからね。

なぜ、このことと、「アメリカ」をつないで、書いているか、ちゃんと理由があるんだよ。

20.1.09

医者につける薬


人の身体、命を扱う職業は、厳しい試練が必要だが、たいていは、科学者の中でも最も、アホの部類だろう。美容師くらいの謙虚さか、殺し屋くらいの罪の自覚が欲しい。緩慢な殺人者よ。
ああ、医者にかからずに、死にたい。


17.1.09

深刻とか


















なんだか最近は、悲しい、つらい、系テレビドラマが、どっと増えた気がする。わたしは、どちらかと言うと見るなら、コメディが好きで、深刻もの、根性ものは、苦手。だって、スポンサーがいて、商品やらイメージを売るのとセットで行われているものに、どれほどの真実があるのかしらんと思う。CMが面白可笑しいように、ドラマは面白可笑しい方が、納得いく。

あしたは、わたしとプラットフォームスタジオと共同企画、新年会だ。思いがけず、たくさんの人が、来てくれそう。

アーティストだろうが、そうでなかろうが、イマジネーションを、楽しみのために使うのが、正しいとわたしは思う。「深刻」なふりごっこは素敵だけど、深刻な「気分」に浸ってしまうなんては、「本当の深刻な問題」を、冒涜しているとぐらい思っている。本当の「深刻」は語り得ない。ドラマはドラマだし、NHKのドキュメンタリーも、あまり信じない。信じないところで、興味深く見る事のできるものを、わたしは求める。真実に触れるとしたら、そういう時だと思う。人をいちいち、嘘つきだ〜なんて言うのは、子供じみている(笑)。

おとなな会話を楽しみましょう。

14.1.09

モランディではなく

が、好きだって前の日記に書いてから、モランディの作品を探してみたら、(画集も持ってない)、なんかイメージが違った。自分のとっての理想的なミニマルな絵画って、どれだったか思い出せない。

それでそれを思い出す為に、エンピツを動かしている。どこへ消えたか?
自分の絵を描きながら、いいないいなって楽しくなると、その次に、それって自分を甘やかしているだろう、という別の声が来る。なので、壊す。たとえば、自分の作品のシリーズなんて作ろうと思った時から、自分を甘やかしているのだと思う。問いの対象にならなくなった時、それは休んだ絵になるのかもしれない。と、大口聞く程の絵を描いていない。プロジェクト型ではなくて、孤独とどう向き合うかで、できている作品に向かっている。今年のわたしは、絵もパフォもそういうスタンスで行く。しかし、........いいな、と思うようなものは、結局は、「モード」に合っているだけだったりするのだ。だが、しかも、それは避けにくい。一人でいても、人はひとりでないことが、恐ろしい程、よくわかる。びびってちゃ、だめだ。
そんなことも考えず、すらすら、描ける時期、人はあるものだ。いいじゃん。違ってて。

こんなことをしていても、お金になるわけでもないのに、大の大人が、真っ昼間から、絵を描くということは、まっとうな市民としては、恥ずかしいことなのだ。そういう後ろめたさが、わたしの原動力だ。というよりない。ここで、何かに役立つだろうと思うようだと、だめなような気がする。本質的なエゴについての、専門家になりたい。

父が入院している。2週間で、退院するつもりが、ひと月を越えた。不安な気持ちを、どう自分で解決し、しのいでいくかが、彼の一番の仕事。治療や家族ができることは限られている。他人のしてくれることを、どう受け取るか、そこがポイントのように見える。

それぞれの仕事のことを思う。

13.1.09

絵のこと

2日間、あちらこちらの展覧会を見た。美術館級のものから、ちいさな画廊のものまで。多くの人々の、想像力や、形にするセンスの豊かさに、まじ、感心してしまった。
最後にみた、フジタ展は、少々期待はずれだった。というか、良い作品もあったけど、晩年のはあれは、イラストレーションでしょう?.......と思いながら、イラストレーションってなんだっけと思う。
図式的で、チャレンジがない、ということかな。でも、チャレンジのあるイラストレーションもたくさんある。漫画だろう、と一緒に見た友達が言った。まあ、そうだ、指し示したいことを面白く、かわいく描いたというわけ。
自分の描く絵も、イラストレーションとアートのはざまで、もやもやしているから、どうでもいいながら、気にかかる。
家に帰って一番にしたことは、絵のエスキースを描く事であった。
モランディといった、絵描きのことを、ふと思い出したりした。フジタより、モランディが好きかも。ミニマムなものが好きなんだよね、わたしは。

9.1.09

狙いは何ですか?

学生の時からの友達で、まったく美術系ではない友達。どちらかというと技術系かな、その人が、山岡さんは、相変わらずあちこちに横たわっているけれど、そのパフォーマンスの狙いは何ですか?と尋ねた。わたしは作品シリーズ「Best Place to Sleep」のことです。
なので、以下のように答えたけど、こんな感じで伝わるでしょうか。

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ひとりで行う時は、写真作品として行っています。
権威のある場所、多くのお金の動いている場所、コントロールされている場所を選びます。そういった場所のたたずまいと、最もリラックスした、だらだらした形の身体との、コントラストを、絵として、楽しみます。社会では、身体つまり個人が、社会全体の利益のために、ハイレベルでコントロールされている、という現実を、感覚的にあぶり出したいと思います。それが良くないと訴えているわけではありません。社会とはそういうものだということです。そして、コントロールとコントロールのスキマを、みつけるということをしている、とも言えます。だから、特に、反体制というわけではありません。といっても、レジスタンスのイメージを使ってはいますね。とにかく、あくまで、アート的なレベルでやっているつもりです。たしかに、誰かの仕事の邪魔をしているという認識はあります。失礼でもあります。
参加型もあり、パブリック度の高い場所、交差点の真ん中や、駅、美術館で行います。この場合、写真作品を作る意味もありますが、体験として、空間のスキマを味わっていただくのを目的としています。

5.1.09

interakcje 2008年5月

 新年のあいさつがてら、ポーランドのインタラクシャのオーガナイザーから届いたビデオを、アップします。
昨年5月、ポーランドはピオトルコフトリブナルスキという長い名前の地方都市で、1週間続いたインタラクシャという名前のフェスティバル。ビデオは、そこでのパフォの断片集。

 わたしが、植物のふりをしているパフォ(ビデオの真ん中あたり)では、となりの椅子で誰かが参加しているのがいい感じ。(椅子に、あなたもいっしょに植物になってみませんか、と書いた。風で動く木々の枝葉の早さで時間を過ごす。)一日につき4時間2日間おこなったデュレーションパフォ。これだけするためのポーランドに行ったのか?みたいな作品です。もちろん、それだけしたわけじゃないよ。
 このビデオには、他の人のパフォもいろいろ入っている。このムービーのクオリティでは、作品のクオリティまではわかりませんけど。国内では、まず、共演することのない人の次に、わたしのがあります。

1.1.09

ひみつ

















 去年は、へんな年だった。何かが、わたしに何かを知らせようとやっきになっていたのではないかと思う。それは何かを考える、気づくのが、今年の仕事かも。少し、戦いの手を止めて、思考を深くしてみたい。

 世界には、いろいろな、公然とした秘密があって、それは、日常的な、市民的な会話では構造的に語れないゆえに、「別の方法」で表す必要がある。
 そういうことに気づき、そして、「別の方法」で効果的に表す役目というのがあるのだ。表すことで、気づいている者同士の意識の交流ができるし、孤独ではない(やはり孤独ではあるが)ことを感じていないと、何かが危ない、といったようなこと、だ。
 たとえば、それをバッハの演奏ということで行うこともできる。ある秘密を、そこに込めるために、バッハの作品を借りるのだ。
 年末のある日、でかける時に、本棚から取った、ある一冊の本のはしがきに、そのひみつらしきことの一つが書かれていた、と思う。その本は、去年の9月頃に買ったんだけど。
 タイミングは、単なる偶然ではない。何かの知らせなのだ。

 よいお年を。