24.6.11

御法度にしたいこと

思ったんだけど。



社会批判、文化批判をする時は、かならず「代案」をやり始めてからにしない?少なくとも、代案(実現可能性の高い)を必ず、言うこと。そうじゃない、「フマン」「ぼやき」は御法度にしない?


それを聞いている子供たちの気持ちになってみて。

子供って、好きな大人の味方をしてあげたいと思う生き物なんだ。覚えている?自分が子供の時のこと。大人になると、子供は無知で、非力で、勝手で、わかがままということしか思わないかもしれない。たまに「天使」「純粋」とか、大人の勝手な褒め言葉もある。
でもさ、それよりもっと大事なこと。子供は、「好きな人を助けたい」と思っているんだ。そして、それは「大人」であることは多い。気がついてる? そして、傷つくんだ。拒絶されて。

私は1961年生まれだから、70年代ににティーンエイジャーだった。70年代は、日本ブンカ批判のブームだったと思う。本も読んだ。とても、興味深かったし、私は「彼等のサイド」につくことにした。「影響を受ける」「学ぶ」ってことは、そのサイドについてあげたい、私が手助けをしたい、と思うことなんだ。
ブンカ批判って、頭良さそうな人がたいてい言っていたし、だから、私も彼等のようになりたいって思ったのも確かだ。



それから、30年以上が経った。彼等は今もぼやき続けている。そして、私もやはり、ぼやいてきたんだと思う。たぶん、就職と同時にぼやき始めた。でも、何かしたかな。したことと言えば、会社も博物館もやめてしまったことぐらい。

安手の小説やTVドラマや歌詞で聞かせるフォークソングって、そういう「社会に対するやりきれなさ」を抱えている人たちが「溜飲を下げる」ことができるようになっている。
確かに、どうにもならないことっていっぱいあるよ。
それに対して、「ま、いっか」って言うことは必要だとは思う。

けど、ぐちぐち言うばっかりって、そういう習慣って何? 自分は賢そうに見える? 負け犬に見えないために、リクツをこねるのさ。
でも、気がついたんだ。負け犬なんて、意味ない言葉だよ。そういう比較が好きですか?


気がついたんだ。「無責任だよ。」
「味方になってあげる」と思った子どもたちに。そして、私は「期待」に応えられるようになろうってがんばってみた。でも、どうやっても、先生は許してくれなかったね。

ふと、甦ってしまったんだ。あの日のことが。なぜ、私は許されなかったかが、わかった、先生は、ことが「好転」することなんか、期待してなかったんだと思う。「だめだね、世の中」って一緒に言う仲間が欲しかったんだね。そして、しばらくして、私はそういう大人になったみたいだった。私は、思い切りそうなったんだと思う。ああ、でもやめた。たぶん、大分前にもうやめている。


私の代案は、「言わないこと」。
そして、時間がかかって、うまくもいかないかもしれないけど、何かをやる。
へんな「満足」をしたくなくて。






21.6.11

安全に水を運ぶ

<ワークショップ その3>

3日前から、連続で投稿させていただきいているのは、先月のエルサレムと、先週の月曜日に東京経済大学で行なったワークショップのご報告です。ワークショップとはいえ、これ らは、私が2008年頃から始めている、「いっしょにやるアクションパフォーマンス」の流れという気がしています。これをすることで、私自身が気がつくことが多いし、作品にほぼ近い感じがします。私のアイデアによって、他者が動くことの責任と、アイデアをシェアするわくわくがあります。そして、リフレクションがとても大事な気がしています。

水は、エルサレムで問題である以上に、これからの世界で、エネルギー問題に次いで、テーマとなるでしょう。ビジネスだけでなく、災害に発展することもある。水害と旱魃。


この水を運ぶアクションは、エルサレムではワークショップとしてではなく、私自身のパフォーマンスとして行ないました。フェスティバルの最終日の最終時間に、自分のメディテーションのためと、東エルサレムのムスララという場所へのデディケーションとして、プログラム外で、アナウンスなし。もう夜もふけた、10時過ぎ。水をいれた白いボウルを両手で持って、フェステイバルの会場だった、住宅街の坂をゆっくり、上ったり降りたりしました。片道5分くらいでしたか。高いところから、青い水を運び、低いところから赤い水を運び、さらに、高いところから、赤い水を運び、低いところから青い水を運びました。

エルサレムは、水問題が深刻であることが、滞在しながら、ひしひしと感じました。イスラエルは、ほぼ、砂漠と言ってもよいような地域に位置しています。上の写真は、エルサレムからバスで2時間くらいのマサダ(世界遺産です)。国家的計画のひとつとして、木々が都市には植えられていますが、そこから離れるとほぼ砂漠。なぜ、そのような場所が、聖地として2000年以上もの間、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、中東、北アフリカの、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の「聖地」として、奪いあっているのか、日本人の私にはよくわかりません。そのような土地であるから、あの厳格で、パワーのとてつもなく大きな宗教群が生まれたとは言えると思います。
僧侶以外に、戒律などほとんどない、仏教圏の人間にはピンと来ませんね。

一方、東アジアの私たちは、「一杯の水にも感謝」と言って合掌する、という、仏教/仏教以前の文化を持っています。私たちが合掌する理由は、その対象(唯一無二の、厳格な神、ヤハウェ神のような)に「許しを請う」ためではなくて、その恵みに「感謝」し「ともにあろう」とする意識です。これが東アジアの宗教感覚だと思います。とにかく、日本では、水が豊かであるゆえに、泉や湖や川や滝や海に、静かに手を合わせてきました。勿論、旱魃の年もあるし、水の事故は多数ありますから、恐れもあって、手を合わせてもいます。龍のような存在として。

東京経済大学では、これをワークショップとして行ないました。学生さんたちは、頭に靴をのせています。これは、前のアクションから続いています。(一昨日の投稿をご覧あれ)かつて、川渡りで、歩いて渡れる川では、そういう格好だったと思います。わらじと荷物を頭に載せて、渡ったと思います。

たくさんの倒れたパイプ椅子で足場の悪いところを、頭から靴が落ちないようにしながら、水をたっぷりたたえたのひらサイズの白い皿を手に、静かに歩きました。実際のパフォーマンスは、神聖な空気とはほど遠い「がたがた」したのりですが、だんだん集中していく学生さんたち。いい時間でした。見た目よりむずかしいんですよ。













にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 美術ブログへ


20.6.11

新聞紙にメッセージを遺す

<ワークショップの記録、その2>


詳しいコンセプトなどは、昨日の投稿を見てください。



新聞紙に、足へのメッセージ、足についてのメッセージ、なんでも、足についてのコメントを書くようにというインストラクション。そして、それはその後、折り紙の舟に折られる。最後の「黙祷」の時間の前に、それらは誰かに手にとられ、開かれ、読まれる。そして、そのことについて、少し雑談の時間を持つ、という段取りがある。(舟は、川や海に近い民家では、洪水の時の備えに、一家にひとつずつ以上は、備えられていたのもだと、かつて聞いたことがある。)備えとしての小舟、供えとしての小舟。


左がエルサレム、右が東京。

ここには、学生さんたちが書き込んだ、新聞の文面を記録する。エルサレムと東京のをあわせると40枚くらいになり、ちょっと多いが全部載せたい。

なぜ、新聞紙か。何か白い紙を用意しようかと思っていたが、「身の回りにあるもの」がコンセプトにフィットすると、ふと思った。そして、新聞の活用方法を開く機会となった。

本は、しばらく本として生きていけるが、新聞はたった一日、よく3日くらいで、ただの紙切れとなる。ピクニックの敷物になるし、ペンキ塗りの養生にもなる。野菜を包んで冷蔵庫にしまうのに役立ったり、荷物の梱包に役立ったり。そして、しまい込んでいた荷物を久しぶりに開けてみた時には、なつかしい「昔の出来事」を楽しむ、玉手箱の役割をする。期せずして、その荷物を梱包した時の時代の空気を運んでくれる。紙の風合いとともに。あのサイズの紙はであることも重要だ。
それは、インターネットのニュースには、できない芸当である。
オブジェであることの魅力。しかも、紙であること。びりびりと破れば、サウンドアートにもなる。
空いているところを使ったメモや、秘密のメッセージに使えるかもしれない。ハイジャックや、飛行機事故で、絶対絶命になった時に、人は目の前の新聞紙や雑誌の余白にメッセージを遺すかもしれない。

それから、シュールレアリズム的な意味で、メモを書いた人がその横にある、新聞の記事に影響を受けているかもしれない、ということもある。私たち見る側が、勝手に想像する楽しみ、でもある。

まずは、エルサレムの参加者の分。新聞は、2011年5月22〜23日分。20代の学生が多い。会場は、ムスララというメディアアートの専門学校だが、やってきた学生さんたちは、ベッサレーと言う美術アカデミー(大学)の生徒さん。メッセージは、なかなかしゃれたものが多かった。


どっちがあなたのお気に入りの靴?どうしてあなたは、休まないの?

足よ、あなたはニューヨークとイスラエルとどちらを歩くのを選ぶ?

あなたが臭いの?それとも靴が臭いの?
丘にのぼるのは、正しい選択だったかしら?

もし、私があなたを置いてきたら、あなたは生きられる?

あなたは、私?

なぜ汗ばむの?

なぜ、あなたはそんなに平たいの?
なぜ、疲れるの?

あなたは、あなたを食べることはできる?


始めて歩いた時はどんな感じだった?


なぜ、みんなは柔らかい足を望むのかしら?
なぜ、小さな足が好きなのかしら?


あなたは独立していたい(読めないけどたぶん、訳注)? それとも対である方がいい?
地面に触れているのと、空気の中にいるのとどっちがいい?


あなたは、もし私が〜(切れている)〜してもまだ歩いていたら、どうする?
右足さん、あなたは左足の友達?左足さん、あなたは右足の友達?あなたたちの関係について話してみて。

冷たい床を歩いている時、あなたは気分的にどう感じているの?
あなたは、かつて、自分ではなに何かになりたいと考えたことある?
あなたは、靴のことをどう思ってる?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?




以下は、東京経済大学のコミュニケーション学科の学生さんたちのメッセージ。