30.3.09

つくらない会とデモの身体

きのうは、3週間ぶりに、銀座。
直方平さんの「つくらない会」の報告会。パフォーマンスのビデオ記録もたくさん見せてもらって、面白かった。財布を枯れ葉のかたまりの中に隠して、その近くで体操をするとか、自転車置き場で、たくさんの自転車のベルをばらばらにならすとか、動物園にでかけて、動物とコミュニケーションをとるとか、町で聞こえる音を声でまねするとか。
この会のメンバーは、なんというか、世間的に言ったら、たぶん「はっきりしないオトコ3人」なんだと思う。直方平さんが発起人で、ニパフに属している野本さんを誘って始めた。最近、少々年長の、関根さんが加わった。その関根さん、この方が、また筋金入りの「つくらない」人(笑)。

どんなことも、できる限りに、自分の言葉で説明しようとし、はっきり言葉で意識できてないことを、とりあえずの言葉で説明し、わかった気にはなりたくないという、頑固さ、がある。だから、あーでもない、こーでもない、と言っているように聞こえるだろう。
やっていることが、パフォーマンスなのか、アートなのか、それも、決めかねている。
「パフォーマンス」という分野は、何か、身体にわざわざ、日常しないことをさせたり、「伝えるため」に何かをわざと強調したりするとことがあるので、それに対する、アンチという態度でもあるようだ。当然ながら、作り物は使わない。特に、野本さんは、パフォーマンスを始めたころ、感情を表現しようとしていて、ある時、気がついて、それを排除したいと思うようになったと言っていた。ややもすると、文学になってしまうパフォーマンスのあやうさに気がついている。

直方平さんは、裸で生まれてきたこと、そのものに、とまどっているかのような動きをする。とまどいが、生々しいので、つい、見入ってしまう。それがアートかっていうと、確かにわたしもわからない。でも、ヒントがそこにあるように思う。

3人のやっていることは、つくると、つくらないのキワを、一歩一歩問をかけながら、歩をすすめている感じ。人に見せることを前提にしていないで、自分の感覚を感じることをまず、大事にしているみたい。もしかしたら、ワークショップと言ってもいいのかも。

ちなみに、最近、路上でのパフォーマンスの規制のことが話題なっているが、彼らの場合いつも路上で行っているが、ほとんど、とがめられることはない。人が集まるわけではないし、日常の行いと、さして変わらないから。

別件だけど、最近、あるMLに、あるアクションとデモの記録映像(Tokyo mob のこと)のことをわたしは「覇気がないような」と書いてしまって、その映像を提供していた人をがっかりさせてしまったようだが、「つくらない会」は、覇気がないと言えるか? 人に見せようとするか、とりあえずやってみているということとは違って見える。人にお題を与えられてどこか半信半疑でするのと、趣旨を飲み込んでやる、あるいは、そのリーダー格であることには、それぞれ、違った、動きが見られると思う。それから、見せることが目的ではなくて、参加することが目的という身体もある。

デモ。一度も参加したことがないけど、みんなでぞろぞろ歩いている様子が、「まあ、とりあえず」といった感じ。
リーダー格の人は、責任があるので気持ちが忙しそうだが、ついて歩いている人は、なんとなく、手持ちぶさたという感じになる。

それから、ハレとケということもあると思う。茶道の御点前や、舞踊、芝居はハレである。
ハレの機会の少ない現代生活。どこにでも、ジーパンとフリースででかけてしまう。オンの服装をすることに、反抗するような思想ってあるね。自由人というニュアンス。「つくる」ことへの抵抗もこれにちょっと似ている。
日本人にとって、デモは、ケの世界なのかな。家にいて、テレビを見ているのと、おなじような顔つきで歩いている。それが自由の証? 
それを称して、わたしは、覇気がないと感じた。わたしの感覚を問いてみる。この件は、もっと考えなくてはならないことがありそうだ。

つくらない会の新人、関根さんは、まだはずかしくて、なるべく、人のいないところで、やろうとしているそうだ。一方、直方平さんはひとりで、全然ヘーキで、駅の真ん前でやっている。場所の空気の、日常と違うモードの周波数を、キャッチしている。それは見せる身体になっているとか、そういうことではなくて、居場所を獲得している感じ。群れている人のコミュニティ感覚ではないのだ。

参加しているコミュニティがまったくなくても、自分を意識していられるか、が、何かの鍵のような気がする。そこには、ハレもケもない。ハレとケは、世間というコミュニティの作法だから。もちろん、アートの世界は、そのコミュニティがある。だけど、基本のその「鍵」の感覚がなければ、主体的にそのコミュニティに関われない。


写真は、つくらない会の3人によるリンゴのパフォーマンス。リーダーの直方平さんが、スーツを着ようと言い、他の2人は特に異論はなかったらしい。わざわざ、会場で着替えていた。パフォーマンスは、直方平さんの家で、リハーサルしたともこと。.....それで、けっこう、作っているじゃん、と言うのは、「作らない」会の趣旨を理解していない意見。
彼らが、スーツを着て、画廊でパフォーマンスを行った。これは、「つくらない会」のターニングポイントかもしれない。
ケの世界から、「ハレ」を意識し始めたのだから。