2.3.09

ジェロントロジーとか

母と食事をしている時に、テレビで、老人だとか、介護の話を、女優さんがしていて、母が「あなたの日常をすっかりそういうことにしてしまってごめんなさいね」と言った。わたしは答えた「だって、最近の流行だもの」。
本当にそうだと思いませんか?
ジェロントロジーは、東京大学のpod castで知った言葉です。こちら参照。このページの写真を見ると、赤ちゃん学に見えるけど。
老人人口が、どんどん増えるということは、つまり、選挙権を持っている人の老人パーセンテージが増えるということであり、そうであるならば、政府としても、有権者のニーズに答える政策やサービスを研究したいということで、東京大学にプロジェクトができたそうです。
実際は、ニーズに応えるフリをしたいのだろうな、と、わたしは感じている。
介護保険は、医療保険ではまかないきれない、老人医療のために生まれたわけですが、これは負担が増えるという意味。保険料を払うだけでなく、サービスを受けるための、負担が増えるのです。これからは、変わる?
若年層が少なく、高齢者が増える一方なので、運良くという言うべきか、たぶん、わたしが60歳くらいになっても、人口の真ん中よりちょっとだけ、高齢であるだけで、国民の主なるジェネレーションになる、というわけ。いったい、どういう世の中になるのでしょう? 早く死んで欲しいので、死を美化する芸術が、応援されるのかもしれません。楢山節考は、オクラいりか?

保育園をたくさん作ることになったらしく(都がサポートするのかな)、友達の経営する英語カフェがなくなってしまう(移転?)ことになりました。急に、保育園にしたいからと、大家さんに出て行くように言われたそうです。契約の違約ですから、お金を少しもらうらしい。

政策といった見方かからいろいろなことを考えると、うんざりするばかりです。
東京大学には、「文化資源学」というのもあり、なんだか、ナチみたいだと言ったら、おこられるでしょうか?
最近の、「コミュニケーションアート」「コミュニティアート」ブームは、こういうことと無縁ではなく、つまりは、お上から言うところのコミュニケーションとかコミュニティは、当然、教育と関わるわけで、教育といえば、当然、政治的なのだと思います。それが、わからないで、それを推進している人は、是非、カート・ヴォネカットの「母なる夜」をお読みください。ちょっと違うけど。前から、におっていたよという人は、OK。
 物事には、政治的でもいいものもあれば、やはり、個人に帰していて欲しいもののある、とわたしは思う。だけど、個人のネットワークには、やはり、限界がある。

話のしりとり。それで、その「母なる夜」に「何かのふりをしていると人はそれになってしまう。だから、慎重に選ばなくてはならない」とある。でも、もちろん、慎重になるなんて、むずかしい。何にもならない、わけにはならないわけなのだから。引きこもりというものになってしまうではないか。
ということで、パフォーマンスアーティストとか言うものになってしまったのは、人生のいかなる損失か(どれほどのことを失ったであろうか)と、日々思うわけだけど、こうなったら、それから逃げ出す方法を考えるものではなく、その咎で、殺されることを選ぶ、というのが、「母なる夜」である。おおい、殺してくれ〜。

ということで、トロントで会った、ばりばりのパフォーマンスアーティストのポウルにメールを書いて、近頃は、どういう研究をしているのか?と聞いた。それで、少し、メールのやり取り中。少しは、この罪でも、少しでもいいことがあれればと思って、同じ罪人から情報を得ようと思う。

写真は、10年前。赤羽の水門でのわたし。