20.6.11

新聞紙にメッセージを遺す

<ワークショップの記録、その2>


詳しいコンセプトなどは、昨日の投稿を見てください。



新聞紙に、足へのメッセージ、足についてのメッセージ、なんでも、足についてのコメントを書くようにというインストラクション。そして、それはその後、折り紙の舟に折られる。最後の「黙祷」の時間の前に、それらは誰かに手にとられ、開かれ、読まれる。そして、そのことについて、少し雑談の時間を持つ、という段取りがある。(舟は、川や海に近い民家では、洪水の時の備えに、一家にひとつずつ以上は、備えられていたのもだと、かつて聞いたことがある。)備えとしての小舟、供えとしての小舟。


左がエルサレム、右が東京。

ここには、学生さんたちが書き込んだ、新聞の文面を記録する。エルサレムと東京のをあわせると40枚くらいになり、ちょっと多いが全部載せたい。

なぜ、新聞紙か。何か白い紙を用意しようかと思っていたが、「身の回りにあるもの」がコンセプトにフィットすると、ふと思った。そして、新聞の活用方法を開く機会となった。

本は、しばらく本として生きていけるが、新聞はたった一日、よく3日くらいで、ただの紙切れとなる。ピクニックの敷物になるし、ペンキ塗りの養生にもなる。野菜を包んで冷蔵庫にしまうのに役立ったり、荷物の梱包に役立ったり。そして、しまい込んでいた荷物を久しぶりに開けてみた時には、なつかしい「昔の出来事」を楽しむ、玉手箱の役割をする。期せずして、その荷物を梱包した時の時代の空気を運んでくれる。紙の風合いとともに。あのサイズの紙はであることも重要だ。
それは、インターネットのニュースには、できない芸当である。
オブジェであることの魅力。しかも、紙であること。びりびりと破れば、サウンドアートにもなる。
空いているところを使ったメモや、秘密のメッセージに使えるかもしれない。ハイジャックや、飛行機事故で、絶対絶命になった時に、人は目の前の新聞紙や雑誌の余白にメッセージを遺すかもしれない。

それから、シュールレアリズム的な意味で、メモを書いた人がその横にある、新聞の記事に影響を受けているかもしれない、ということもある。私たち見る側が、勝手に想像する楽しみ、でもある。

まずは、エルサレムの参加者の分。新聞は、2011年5月22〜23日分。20代の学生が多い。会場は、ムスララというメディアアートの専門学校だが、やってきた学生さんたちは、ベッサレーと言う美術アカデミー(大学)の生徒さん。メッセージは、なかなかしゃれたものが多かった。


どっちがあなたのお気に入りの靴?どうしてあなたは、休まないの?

足よ、あなたはニューヨークとイスラエルとどちらを歩くのを選ぶ?

あなたが臭いの?それとも靴が臭いの?
丘にのぼるのは、正しい選択だったかしら?

もし、私があなたを置いてきたら、あなたは生きられる?

あなたは、私?

なぜ汗ばむの?

なぜ、あなたはそんなに平たいの?
なぜ、疲れるの?

あなたは、あなたを食べることはできる?


始めて歩いた時はどんな感じだった?


なぜ、みんなは柔らかい足を望むのかしら?
なぜ、小さな足が好きなのかしら?


あなたは独立していたい(読めないけどたぶん、訳注)? それとも対である方がいい?
地面に触れているのと、空気の中にいるのとどっちがいい?


あなたは、もし私が〜(切れている)〜してもまだ歩いていたら、どうする?
右足さん、あなたは左足の友達?左足さん、あなたは右足の友達?あなたたちの関係について話してみて。

冷たい床を歩いている時、あなたは気分的にどう感じているの?
あなたは、かつて、自分ではなに何かになりたいと考えたことある?
あなたは、靴のことをどう思ってる?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?




以下は、東京経済大学のコミュニケーション学科の学生さんたちのメッセージ。






















靴を高いところへ上げよ

「ガレキ系」ということを意識し始めている。

実は、いつでも人は、何かのガレキを乗り越えて、生きているのだ。過去を踏み越えて生きるしかない。過去を踏まえて生きると、言うこともできる。しかし、今回私たちは、あまりに急速にできた恐ろしく暴力的な量の瓦礫に、愕然としている。そして、目をそらすことができない。沢山の大事な命と想い出がゴミ同然になってしまう理不尽。うそだろ、うそだろ、と何度も思った。そのことは、私たち日本人の全員が共有しているのではないか。どこから、やり直したらいいのか、わからない。

このごろ、私が作品やワークショップで作っているイメージは、意識していなかったが、「ガレキ系」と言っても良いのではないかと感じる。ゴミのように見えるイメージこそが、ゴミでは決してなく、何かとてつもなく、かけがいのない、いとおしいものだと思うのだ。思おうとしているのではないかと思う。いや、思えてならない。意識に修正が働いているのではないだろうか。受け止めるために。「ガレキの風景」は「見つめるべきもの/目をそらすことができない/私たちの姿/受け止めるべき/ここから始める」という意味で、まさに「美術的」だと、私は思う。


そして、自然は、淡々と、その営みを行なっただけのことなのだ。「彼」は、人間のパニックや悲しみ、苦しみなど、全く知らない。私たちは、夢や神話ではなく、実際に存在する、コミュニケーション不能の巨大な存在を知った。しかし、その理不尽さは、宗教でないと理解できないことではないか。自然を制御するのではなく「畏怖」する意識が必要だと思う。そのことは、原発のことへと続いていく。まるで、バベルの塔のような傲慢。イスラエルでは、旧約聖書に書いてある出来事にその予兆を読み、次は自分たちだと思っている、と誰かが言った。



エルサレムのムスララスクールでのワークショップ。5月23日(月)午前10:00〜11:45
東京国分寺の東京経済大学でのワークショップ。6月13日(月)午後2:40〜5:30
この二つのワークショップは「足のため避難」というタイトルである。(ワークショプだが、私には自分の作品と同じ位の重要さがある。)

<コンセプト>
緊急避難の時に、人は足を酷使する。9.11以後に、私が「指圧屋」をしていた時代なんだが、すでに1年以上も経っているのに、ふくらはぎの緊張が取れないという、富士銀行の行員さんに会ったことがある。富士銀行は、WTCビルの南棟78〜82階にあり、彼は一気に階段を駆け下りたそうだ。そして、心理的な緊張がとれないのだ。震災でも、津波でも、テロでも、暴漢でも、なんでも、人は、最後には走る。地震〜津波では、ビルにいた人たちは、駆け下り、そして駆け上がった。小学生たちは、学校の裏の丘を駆け上った。

足は、世界と私たちをつなげ、折り合いをつける仕事をしつづけている。負担をかけている。頭から一番遠いので、つい、意識が遠くなっているかもしれない。



その1 下だったものが上に行く
(今まで見ていた世界の「順序」がくるう→靴をできるだけ高いところに置く。)



その2 感謝のメッセージを残す場所としての新聞紙の余白
その3 歩きにくいところを最も大切なもの(水)を持って歩く
その4 大声を出す ストレスをはらす 叫びの合唱 



<ワークショップの記録、その1>




まずは サイレンの音を聞いて、外に走り出る。そして、またサイレンの音を聞き、今度は走り込む。そして、できるだけ、高いところに靴と靴下を「避難」させるサイレンの鳴る中、それをできるだけ早く行なう。サイレンはまったく苛立たしい音である。

エルサレムでは、壁にピンを打って、壁に「インスタレーション」してもらった。
東京経済大学では、壁にピンが打てないので、学生さんたちの頭にのせることにした。

まずは、エルサレムのインスタレーション。参加者はだいたい15名くらい。ものが、普通そうはない状況にあると、オブジェになるというのは、現代美術史の基本。「瓦礫」が美術的なのはそのせいだ。しかも、様々な形でひっかかっている靴が、今はちょっと怖い。












次は、東京経済大学の方。参加者は20名。頭に直接はいやかもと思い、日本手ぬぐいを用意したら、それが妙にフィットした。お祭りのようだ。皆楽しそうだし、なかなか、かわいい。昔は、川を歩いて渡る時にこのような格好になったのではないか?  緊急時ファッション。この格好のままで、その後のパフォーマンスを行なった。



















17.6.11

今日は美術館に行かない

今日は、夕方に知り合いのイベントがあるので、でかける。だから、その前の美術館など行こうかなと思い、いくつか、調べてみたけど、なんか、動けない。

今、私の感覚の中で、アートマーケットというのが、かなりネガティブに響いている。勿論、世の中に存在していることにまで、文句をつける気にはならない。
ただ、それを動かしているのは、「超金持ち」たちであるってことが、わかって来たし(それは、日本の多くのコレクターたちの比ではない)、大きな美術館で見せているのは、そのおこぼれみたいなもんなんだ。特に国立系の美術館はそう。「超金持ち」に対する反発は、全くない。そういう人がいてもいいと思う。だけど、彼らの文化は、私や私が愛している友達、知り合いたちの文化ではないんじゃない? そういう所での、新規なアイデアの新しい作品群の価値を決めているのは、彼らなんだ。その「超パワー」を感じる場所になりつつある、国立美術館。作品のコンセプトを読んで、感心してはならない。あれも「超金持ち」イベントの流儀で、形式みたいなもんだと思う。最後のところでは「欲しいか」どうか、なんだから。なんのために欲しいかというと、それは、彼等の文化のためである。彼らは自分のうちにそれを飾り、社交パーティを開き、その作品を見せびらしながら、様々な考えや感想を言い合う。彼らの知的好奇心をそそるものなのである。別荘を買ったり、ボートを買ったり、時には自家用飛行機を買うのと同じように、アート作品を買う。それらは、自分の「高さ」を自慢し、競争するためのもの。それはそれでいいと思うけど、それは私のブンカではない。
アーティストは、実のところ、芸人フゼイなのだから、もともと、彼等を喜ばせてなんぼの職業であったのかもしれない。でも、そういうことは変わりつつあるのではないかな。

このことが身にしみて感じたのは、ここで以前、少し書いたことのある「東北大震災をテーマにしたチャリティ展覧会をアートバーゼルで開き、大金持ちたちからのドネーションを義援金にする」という計画への参加経験から。これは、3月の末頃、少し名前を知っていたある若いキュレーターが、ツイッターで、その企画スタッフのボランティアを募集していた。その頃、アートチャリティが続々と企画されていて、もともと、「もの」を作る系の作家ではない私が手元にある「お金になる作品」はわずかだし、うまくお金になっても、数万円。それよりも、バーゼルの大金持ち相手に、売れれば一点数十万円以上になるアーティストの作品をいくつも売って、義援金にする方が、現実的だと思ったからなのだ。

だけど、それはだんだんチャリティの要素が減って行った。アートバーゼルは、一見優雅ではあるが、大金の動くところだから、ディーラーはしのぎを削って、大仕事をするところであり、一ボランティア団体が、どんなに大きな犠牲に対するチャリティだからって作品を売ってお金にするなんてこと、甘い考えだったってわかったきたのだ。だって、それだって、彼等の貴重な「パイ」を削ることになるからね。ということで、これはブロックされてしまった。これはこれで、いい研究だった。

でも、その代わりに何をするか、という議論が始まっていくと、なんだか、目的がもともと違っていたんではないかと気づく。少なくとも、私の考えとは随分、違うんだなと思うようになった。どんなに優れた超有名アーティストによるアート作品だとしても、それ自体が、東北の犠牲とその復興をサポートする力を持つとは私は思えない。それは、あくまで「ブンカ」。ブンカを共有していない人には何程でもないことだと思う。いくら、アートの超パワーだって言っても、アートの世界の話にすぎないと私などは、思ってしまうのです。
しばらく、興味深い議論を彼等とすることができたことには感謝でしています。もし、誰かメンバーが、このブログを見たら、あまりいい気持ちがしないかもしれない。ごめんなさい。


文化は、階級と差別のひとつの姿だ。どんな文化も、なにかしら、排他的になる。


国立の美術館というのは、国威発揚のイメージの宝物館である。国立劇場は、もっとあからさまに国威発揚。ここでも言うけど、私は「国威発揚」を批判しない。愛国心って大事なものだ。
だけどさ、あれって、私たちの文化だろうか?
今だに、西洋文化に負けないように、汗かいて、誰かを蹴落としながら、格好つけるための場所に見えちゃう。「愛国心」があるなら、もちょっと違うことをした方がいいのではないだろうか。

そういえば、私は、「博物館学」をちゃんと学んで、学芸員の資格もあるんだよ〜ん。でも、「博物館」はパワーの表現だとは習わなかったけどね。それは、感じて学ぶもんだろう。


個人的には、西洋から、いいことはたくさん学ぼうと思う。まず、観客は「ありがたいものを見て帰る」のではなくて、見たものの感想をたくさん言おう。文化に参加するのだ。ネットで書くだけでは(今、私は書いているわけだが)なく、生の空間で意見を戦わすんだ。好きか、嫌いかだけだったら、会話にならないことにすぐ気がつくだろう。そして、「正義」や「慈善」や「癒し」では、終わらないことにやがて気づくだろう。「一流」を与えてもらうんではなくて、「一流」を育てよう。金出せって言っているわけではない。そういう「文化」が生まれるような生活や話し方を持つってことだと思う。「私はこう思う」と言うのを、ずかずか言う。「どうして?」って誰かが聞く。それを伝えられるように、言葉や態度を工夫して言うんだ。勉強も必要さ。そうやって、みんなでセンスを磨くんだ。「一流」と「上流」は同じではない。「一流」は、どこにでも築くことができる。劣等コンプレックス持っているうちは、それはつくれない。



ということで、今日は、MOTに行きません。
今日が特別ってわけではないんですが。

16.6.11

立ち位置 

きちんと書こうと思っていると、いつのことになるかわからないので、少し書いておきます。

私の立ち位置は、わりとわかりにくいらしい。
ノンポリに見えるし、社会派にも見える。というか、人それぞれなんだと私は思うんだけど、わりと、他の人はカテゴリーがはっきりしているようです。もっと、揺らいでいてもいいのでは?



<イスラエルのこと。>

日本では、特に関心ない人か、あるいはイスラエルという国に反感を持っている人かの2通りしかないみたいに見えます。反感を持つ人に対して、私は、自分の立場をはっきりさせなくてはならないかな、と思っています。でも、たいていは、はっきり聞いてこないで、探るような質問だったりするので、答えにくい。

だから、書く。
私の立場。
まず、アーティストや、個人は、かの国の政策とイコールではないという、当たり前のことを言いたい。そして、彼らはとても悩んでいます。ボイコットや、いやがらせをあちらこちらで受けている。
ネオコンのような、お金や権力のある人は、主にアメリカに住んでいます。今の首相もアメリカ育ちで、アメリカの大学に行っている。一方、主な市民は、イスラエル建国の時に、やってきた人たちと、その子孫ですが、やってきた、ということは、それまでに住んでいた場所では、あまりうまくいってなかったんだと思います。だから、希望を持ってやってきた。つまり、金持ち階級ではない人が多い。イスラエルを動かしているのは、アメリカのネオコンだったり、イスラエルの上流階級である、アシュケナージュ(ドイツ語圏から移民してきた)です。ユダヤ人には、スラブ系だって、アラブ系だって、アフリカ人だっています。それが階級をなしていて、それもなかなか、大変らしい。また、ユダヤ教の宗派もいくつかあって、頭に丸い平たい帽子をのせている「改革派」は、最も危険なナショナリストだと、私の友人であるイスラエル人は、警戒していました。彼らの中にも、様々な違うタイプの人がいるのです。それを、まとめて、イスラエル人として、ボイコットするのは、違うと思う。
もちろん、いくら何千年も前から「約束の地」だったからと言って、そして、イギリスに建国をすすめられたからと言って、それまで何百年と住んでいた、アラブ系の人を追い出すのは、ヒューマニズムから考えて間違っている。建国以前は、混ざり合って、同居していたのです。

テルアビブは、新しい町なのでともかく、エルサレムの状況はとんでもない。アラブ系の人は、端っこの方で、汚いコンクリート(に見えた)の家で暮らしている。そして、蛇のように長い壁によって、居住地が分けられている。イスラエルの市民権がないので、パスポートはヨルダンから出してもらっているそうです。パレスティナのパスポートがありませんから。
ユダヤ人の入植が、他の民族を「避難民」にしている状況を悪いと感じたユダヤ人で、移住するお金とチャンスのある人たちは、海外に出ていると聞きます。でも、誰でもがそれをできるわけではない。国際社会の倫理感からすると、そうすべきかもしれません。

パレスティナ人というと、貧しいという印象かもしれません。貧しい人は貧しい。でも、リッチな人は、とてもリッチです。ユダヤ系のアーティストたちは、あきれるほど、ボロ車に乗っていましたが、パレスティナのアーティストは高級車に乗っています。つまり、パレスティナでは、リッチな人しか、アーティストにならないのかも。ここに、アートは世界でどういうものかを、示していると思います。

ユダヤ人は、2000年も前に、エルサレムを追い出され、さまよい続けてきた。たぶん、そういう民族は他にもたくさん、あったでしょう。そして、大抵は他の民族と混ざって、消滅したのだと思います。民族の定義も、いつの時代からなのか、案外、近代のものかもしれません。それにしても、やはり、強い血の流れている民族であることは確かです。

彼らをそれを「葛藤(コンフリクト)」と呼びます。「解決(ソリューション)」という言葉もよく耳にします。強さもまた、コンフリクトのもとです。


ユダヤ人の個人個人は、その「コンフリクト」のことで苦しんでいる。苦しみ方は、様々だけど。
ユダヤ人ではない、ヨーロッパ人のアーティストが言いました。「信仰はすばらしいけど、そのコミュニティが問題なんだ」と。

日本人的に言うと「信仰」も問題かもしれません。でも、私は「信仰」のない人はいないと思うし、ないと思っている人が気持ち悪い。具体的な宗派に属する必要ななく(宗派は、コミュニティで、パワー(権力)をつくる装置ですから)、一人一人が持っていれば充分だと思います。人の心には、自分という狭い範囲だけの感覚ではない、何かが必要です。というか、「自我」という観念は、近代の作り物であり、それもちょっとした妄想だと思います。だから、信仰がない人は「俺様」的な人か、あるいは誰か他の「人間」に特別な思い入れがあったりするので、それは気持ち悪い。あるいは、「イデオロギー」。「科学」もそうだし、「拝金」もそうでしょう。
イデオロギーの人は気持ち悪いだけでなくて、コワイ。自分は正義だと思っているらしいけど、そのイデオロギーのパワー(権力)を自分の一部だと思い込んでいる。だから、彼らは、揺るぎがないよね。まあ、信仰も、しばしば、そういうことになりますね。
仏教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という一神教と違っていて、その意味では宗教とは言えない。哲学に近いと言われます。だけど、教団を持ったり、ローカルな信仰と混ざって、危険なものになることはしばしばありますね。コミュニティは、人間社会には必要なものだけど、なんの力で集まっているか、が問題だ。

近代人は揺らぐべきなんだと思う。揺らいでない人なんてコワイです。
なんら信仰もないよ、日本人のひとりって意識もあんまりないよって、言う人もいるようですが、それはどうなんでしょうか?
誰一人として、自分一人で生きていないのです。
だからって「世間様」ではだめだと思います。狭すぎる。誰かがコントロールしている可能性もある。空気なんか、読んじゃだめです。


ということで、イスラエルの事を書くと、ものすごく、長い長い、しかも、宗教的な話になってしまうので、そこそこにしておきます。でも、その意味で、このテーマには「近代」と「近代以降」の世界におこっている、問いがつまっている、とも言えます。
何か、短く説明できる方法が見つかればいいのですけどね。

以上で、私の立ち位置が少し説明できていればいいんだが。

すくなくとも、私が彼らと親しくなればなるほど、私への評価も危なくなっているんだなという、感覚はあります。日本では、たいしたことないでしょうが、欧米ではね。でも、それは受けて立ってみようかな、と思っているところです。そして、なぜ、仲良くなってくるのかの理由も不思議だ。

たぶん、私が子供のころから、「亡命」という言葉にひっかかっていたことと、関係があるかもしれません。

15.6.11

主張せよ!

5月にエルサレムで行ったワークショップと、6月13日に東京経済大学の粉川先生の授業で行ったワークショップの報告をしたいと思います。
これらは、同じタイトル「靴のための避難」というワークショップです。


まず最初に、学生さんにお約束した、13日(月)東京経済大学コミュニケーション学科の、粉川哲夫先生のクラスでのワークショップの際の映像をYoutubeにアップしたので、お知らせします。最後のパートですが、約束なので、早めにアップしました。約2時間のワークショップの最後に、私のやりたいことが、やっと腑に落ちて来た学生さんたちが、最大のエネルギーで協力してくれた、結晶でもあります。(もちろん、あきらかに、手を抜いている子もいて(笑)、それはそれで面白いです。)

これは、エルサレムでは、私のワークショップの後にあった、親友のマルティン・ツェットが行ったワークショップをアレンジしたものです。マルティンは、楽器も使いました。東京では楽器を用意できなかったので、私の作品「いっしょにやるアクションパフォーマンス/Love or Not」のインストラクションである「罵詈雑言を叫ぶ」という要素を混ぜました。


さて、みんなで並んで「叫ぶ」アクション。「助けて〜」の方が、趣旨に直接沿っていたかもしれませんが、とにかく、大声で言いたい事、「バカ〜」とか「大嫌い」とかを絶叫します。そして、たまったストレスを発散します。ひたすら「あ〜!」でもかまわない。ある女子は「電話出て、返信して、連絡して」でした。彼氏あて? それから、「おっぱい!」と言っていた子もいました。とにかく、繰り返し、ミニマルに連続して叫び続けること、私がストップと言うまで続けること、というのがインストラクション。声を出したくない人は、足踏みでもいい、としました。最後のパフォーマンスだから、あらん限りのエネルギーを出し切ってねと言いました。
タイトル「主張せよ!」は、私が勝手にあとで、つけました。その理由は、また別の日に書きます。

実のところは、私が見たかったのは、叫ぶ内容や声よりも、態度の方です。叫ぶには長過ぎる時間(だいたい3分)なので、だんだん、疲れてくる。そうすると、だれてくる。それが面白い。それでも、がんばろうとする様子もなかなかいい。そして、やる気のない人の態度もまた面白いです。それらは、ナマで見るより、映像で見ると、より見えてくる。映像の不思議。

3分は、見るにはそれほど長くないですから、良かったら見てください。楽しい、ファニーです。

まあ、およそ、私の世代の子供たちぐらいの年齢でしょう。彼らがどのように育ったかは、私たちがこの20数年、関わっていた社会の反映なので、いい所も、やばそうな所も、自分たちの鏡だと思います。でも、とっても、いい子たちでした。





8.6.11

シャトマル5とWS

5月後半は、イスラエルへ行っておりました。パフォーマンス、ワークショップ、様々な濃い会話と対話、聖地の訪問、なかなか充実した日々でした。ご報告をしたいですが、なかなか時間がとれませんなあ。
(以前はなんであんなに時間があったんだろう?)

さて、6月の東京でのイベントのご案内です。
パフォーマンスイベント(シャトマル)と、ワークショップです。

6月26日(日)
シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー パフォーマンス公演 第5回「モノらる」






物から離れる表現行為
物余り」の時代、改めて物との関係について考えようと、物を使わない、もしくは物に頼らないで表現をやってみます。
モノラルは、一つの信号音源を再生すること。「モノらる」とは、”一つの信号”つまり身体のみを使った行為、を表すために作った言葉です。踊るのではなく、あくまで、パフォーマンスアクションとして行ないます。

http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/



東京都小金井市本町6-5-3 シャトー小金井2階

14:30オープン 15:00スタート
トーク:17:30~
入場料:1500円
出演者:山岡佐紀子、村井元、直方平ひろと、門倉緑、内田聖良、小林橘花、中村博司

2ヶ月に一度のサイクルで続けているパフォーマンスアートのラボ企画シャトマル。
このところ、若者ゲストが増えてきました。毎回、テーマを考え、取り組みます。前回は、パフォーマンスアートの意味をぐいっと広げて、町で人々と話す、という行為を行いました。今回は、うんとクラシックに「表現」をミニマルに深めてみます。「もの」を使わないパフォーマンスアクション。どうなるか、見届けに来てください。


*以下は、東京経済大学のコミュニケーション学科、粉川哲夫教授の授業です。一般の方も参加できます。





昨年10月にメディアクションズの参加アーティストと時間をわけあって40分ほどのワークショップをしましたが、今回は2時間50分を、ひとりで行ないます。
5月にエルサレムで行なった「足のための避難」をベースに、3つのパートに分けて様々な形のパフォーマンスのワークショップを行います。
「身体表現ワークショップ」というのは、粉川先生の名付けられたタイトルです。ちょっと恥ずかしいけど、言ってみれば、その通りです。

6月13日(月)
「身体表現ワークショップ」公開授業
東京経済大学 国分寺キャンパス 6号館 メディア工房
14:40~17:30
無料

3.5.11

へんじん類とはし類

4月21日のフジシンのトークの時に、話したこと。私がOLみたいなことをやっている時、私のデスク周辺は、いつもはすごく厳しい、ある女性の上司の「休憩所」みたいになってた。彼女は、週に1回くらいは私のデスクの所へ来て、あぶらを売って行った。その時だけは、あまり厳しい顔をしていないで、まるで、高校生の時の友だちか、後輩にしゃべるみたいだった。まあ、一般的に言えば、私は、単なる「癒し系女子社員」だったってことかもしれないけど、どうしてなのか、実は、私は自分でわからない。たぶん、彼女がいつもぴりぴりして戦わなくてはならないことについては、私は戦わない人だって気がついたからだろう。逆に言えば、人間として生き延びるために、皆が戦っている「何か」が私に欠けているのだと思う。それが何なのか、実は、全くわからない。それを知りたいんだ。
 だから、こういう私を受け入れてくれる人がいないところでは、たぶん、私は生き延びられない。邪魔だって、いびり出されてしまうんだと思う。
小学生の時ドッジボールが全然できないで、邪魔にされてた時みたいに。
そして、他の人が戦わないところで、戦いを起こそうとして『?』ということになる。大事な事が違うんだ。


そういえば、高校生の時、たった一度だけど、学年一番の成績をとってしまったことがあって、その時は、つらかった。すげー、いじめられた(と、感じた)。だけど、「私は美術大学受けるから」と競争のラインから離れたとたん、いじめっこがみんな優しくなった(ような気がした)。こういうことなのかな。違うかな。



こういう人はたぶん、私だけではない。



世の中は、同類同士が協力関係を結ぶということがよくある。男社会も、「男同士」ののりでやっていると、戦う所と戦わない所が似ているから、けんかもできれば、恊働もできるんだ。県人会の人たちがどれほど似ているか知らないけど、子供の時の記憶に似た所がある人は信用できるんだろう。同窓生もそうだ。価値観を共有できる。セクシャルマイノリティだって、フェミ系だってそうだ。楽しみや不満を共有している。

ふ〜ん、私はそのどこにも、属せないなあと思っていたら、変人類という類の共同体が、できつつあるような気がしてきた。どう?


そして、ありとあらゆる業界に「変人類」がいれば、協力しあって、独占的な領域を作れるかもしれない。キュレーターも変人で、コレクターも変人で、プロデューサーも変人で、観客も変人。変人類は、お互い似ていない。似ていないという点において、類なのだ。

ああ、ドリーム!!!


あとは、世界には「橋類」という人たちがいればいい。「橋」類は、ありとあらゆる「類」をつなぐ事が好きだというミーハーである。「変人類」と違って、欠けているものがない。ありとあらゆる「類」が大事にしていることが一応、わかるんだ。だから、ある意味賢い。ミーハーで、スノッブなので、変わったことをして、ひんしゅくを買うのが、楽しい。「変人類」にすら、しばしば、見捨てられそうになるが、全然、気にしない。そのうちに、ありとあらゆる「類」に、「よろしく頼むよ」と言われるようになることを夢見ている。





さあ、君。その「橋類」になりませんか?