28.9.10

メディアアクションズ、ワークショップ

MediActionsのこと。以下は、広報です。

きのう、アーティストたちと相談して、今後のワークショップの方向性が決まってきました。
「モバイル・ティーパーティ」(仮題)
というと、なんだか、ハイテクそうですが、ここでは、身体も道具も重さのある移動式、できたらリヤカー*を使って(借りられたら)、地域を移動します。
あちらこちらで、お茶会をし、様々な「メッセージ」を集め、箱につめて(?)、どこかに、配達する(しない?)、ということ。
参加者の数が、まったく、予想がつかないので、今週末の1回目をやってみてから、今後の具体的方法を決めたいと考えています。

第1回 10月2日(土)14:00〜17:00 3331Arts Chiyoda B1  
「私たちの身体そのものがモバイルなメディアであること」アーティスト:ピラさん+ジャスミンさん+GOGOさん+山岡佐紀子
ということで、まず、活動のための、Tシャツのデザインをつくります。
また、メッセージも相談して考え、デザインに入れます。絵を描くのが好きな人か、言葉を考えるのが好きな人は、是非、いらしゃってください。
それは、2週間ほどすると出来上がる予定。希望者には、1000〜1500円くらいの値段でお分けします。
これから、屋外に出かけていくための準備です。(選ばれなかったデザインも展覧会では、展示します)
土曜は来られないけど、Tシャツは欲しいという方は、予約受け付けます! 
問合せは、info@dis-locate.net まで または、わたしの方へ。


ワークショップの大事な要素としては、
  • パブリックスペースの利用方法を開く。と言っても、パブリックスペースなどどこにもないので、「居心地」の良さそうな、短い時間でも、過ごせそうな場所をみつける。 
  • 「主張」という方法では出てこない「言葉」「メッセージ」をひろう、言語にならない言語をひろう。 面と向かったり、台に立つのではなくて、何かやりながらしゃべるという方法から、メッセージをみつける。
  • インターネットのメディアを媒体にするのではなく、身体性というメディアを使う。テクノロジーやメディアについて、本質的な意味を考える。
  • パーティと言う言葉は「党」という意味もある。言語はコミュニティによって作られるということを、実現する。
まだまだ、不十分な内容ですが、毎回の経験で、アイデアをブラッシュアップしていきたいと思います。



*リヤカーは、1920年頃の秋葉原で初めて作られたと言われています。かつて、貨物駅や青果市場のあった秋葉原は、物流の最先端だったというわけ。
もの/メッセージを届ける媒体なのです。



アジア的抵抗の術

MediActionsのアーティストが集まり始めました。もう土曜日には、公開ワークショップを、行わなくてはなりません。これから続く計4回の1回目であり、そのプロセスと最終展覧会というプレゼンテーションの両方を重視したものです。しかも、10月は、隔週月曜には、東京経済大学でのワークショップがあります。ハードです。
つまり、短時間に様々なことを理解しなくてはならないこと、責任がかなり高いということです。年長なので、まとめ役をさせられているところがあって、それはちょっと困るなあ。

きのうは、最初のミーティング。3331の地下1Fの私たちのスタジオで。朝11時から始まって、夜はレジデンシーに移り、11時間続けて話あいしました、勿論、2回の食事もしたし、お茶も飲んだし、30分ほどの昼寝もしましたが。主に、コミュニケーションということを話しました。運良く、方向性としては、近いものを持っているもの同志のようです。つまり、「コミュニケーション」に対して、ナイーブな(純粋、幼稚な)妄想を持っていないということ。これは、良かった。コミュニケーションの不全性について話した。面と向かって話さないで、メールで会話する人たちのことや、また、言語を自己の表現として持っていない人についても、出て来た。サバルタンな場合ということまで、想定しないと、「話せばわかる」になってしまう。欧米型の民主主義を理想としている人たちとは、違ったコミュニケーション法の象徴としてのアキハバラがある。「引きこもり」「おたく」「暴力」。論理的に説明して、闘争方法もノウハウのある現在闘争中の「渋谷系」とは、違う方法。私たちは「抵抗」「潜伏」「いたちごっこ」「無視」「流民」という方向性を提出したい。「市民運動」ではなくて「流民運動」と言っていいかな。「居心地」というのは、大事なタームです。居心地が悪ければ、どこかに移動してしまうんです。「民主主義」なんて言葉を、冷笑なしに口にできない。拳をあげたりしたくもない。しかし、もうひとつタイプの「民主主義」をあざ笑う力が、駅前にどんどんどん、3つ4つ、とそびえているわけです。じゃ〜ん。


まずは、これからの活動のために、Tシャツのデザインをすることにしていますが、そこの書く文字は、絶対日本語が良いというのです、ふたりは。なぜなら、英語にすると、「ファッション」になってしまうからだって。ワークショップもなるだけ、日本語だけにして欲しいというのは、私が大変になるんだけど、「英語をしゃべる外国人」だから、面白いかも、という空気に、抵抗したいらしい。さすがだな。
まあ、Tシャツをつくって、みんなで着るというのは、もともと欧米的だったかもしれないけど、最近のタイの市民の活動を見ると、アジアが、うまく自分たちの方法にしたものかもしれない。

3331というところは、宇宙ステーションみたいです。入り口が、階段になっているところなんか、「未知との遭遇」で見た、宇宙船に乗るための入り口みたいなんだ。それで、中に入ってみると、どこを歩いている人も、スマートな身のこなしで、ルールをきちんと守り、アートのための貢献する、とっても、前向きで前途有望な人々に見えてきて、感心する。もちろん、人それぞれと思うけど、私なんかだめだろうなって思ってしまう。エマさんがいなかったら、私はここでやれないと思う。でも、せっかくだから、学べることは学んでいきたいです。

ベストを尽します。きのう、帰る電車の中で、呪文のように唱えていたのは「ベストを尽します。でも、その後は、神様に任せます」
ということ。

今日と明日は、オフなので、自宅で、摂食障害の人のインタビュウの録音書きおこしをやります。


21.9.10

仕分け時代

前にも書いたかもしれないけれど...........バブル期を過ごしたことは、恥でもなければ、「反省」しなければならないわけではないと思います。「失われた20年」しか知らない人たちには、悪いけれど、物事が、ディープだったり、軽薄短小だったり、贅沢だったり、インスタントだったりと、両極端に、いろいろあった時代を楽しませていただいているから、近頃のように、売れるとか、経済効率とか、仕分けされたりとか、世の中に役立たなきゃ、プロのアーティストとは言えないとか、せっこい時代に対しては「これがあたりまえと思うなよ」といって、距離を置く気持ちでいられるのだと思います。
確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。

でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。

仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。


不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。

ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。

以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。





















14.9.10

態度がアートになる時

「態度がアートになる時」という展覧会が1970年代に、スイスであった。それから、40年弱。その頃の探求は、様々な表現に影響したと思う。パフォーマンスアートだけではない。でも、わたしは、パフォーマンスアートを選ぶ。今は。

日曜日に、マルゴーに来てくださった方、ありがとうございました。今回思ったのは、パフォーマンスのイベントに来てくださる方たち、彼女/彼たちが、だんだん、「目利き」になって行くのと、自分の表現の成長があるのとの、連動していることがあるってこと。それって、スマイルでもあるし、「本気」で、やばくもある。なあなあの関係ではない。
観客は多くないけど、「パフォーマンスが見たい」という人が、これだけいるんだってことは、それだけで、やる意味があると思った。

それから、自分のしていることは「ある態度」なのだと思っている。音やビジュアルを時間軸に作っているのだけど、それを作り出す「態度」が、本当の「芯」。グラスを割る、ということだけで理解すると、「破壊的」な表現としか、印象に残らないかもしれないけれど、私は「メンテナンス」しながら、行う。実は、木々の葉が落ちて、それから、春が来る、というようなイメージで行っている。とはいえ、「皆殺し」的な気持もある。時間を経験するとは、なまっちょろいことではない。破壊だけでないのだ。それは、「刷新」するための「煉獄」でもある。今回、白いテーブルを会場の奥から、手前に引いたり押したりすることを繰り返ししたのは、「火葬場」の印象からだった。「弔い」とは、ただの「死」の儀式ではなく、「生」を肯定し、讃えるためだ。ここで、安易に、「再生」とは言いたくない。
無闇に未来志向に「明るそう」なふりをするのは、実は、ものごとを「ネガティブ」に考える証拠ではないかと思う。重みに、耐えられないからに違いないと思う。

コンセプトを遂行するだけでなく、「演奏者」のような感性がいると思っている。6歳から13歳まで、音楽の勉強をしていたことがこうやって生きてる。親に感謝。

今回、なんだか、脳内なんとかが出てしまったようで、きのうまで、ハイになってた。もしかして、1人でこうなってしまい、私のパフォーマンスを見た人は、ついていけなかったのかもしれないと、ちょっと心配だ。だが、一方で、ある程度、ついて来れないくらいの方が、良いのではないかと思う。コミュニティに親和的な「態度」と、それからどうしても食み出てしまう「態度」とに、左右から、ひっぱられ、ひっぱられ、定まる場所を、模索する、そのプロセスを、表すことはできればと思う。

最後に書くようだけど、今回はメンバーも良かったと思いました。「パフォーマンス」という表現をシンプルに愛している、そういった人たちとやれてよかった。


ありがとうございました。よかったら、次回も来てください。11月18日です。次回は、「パフォーマンスサファリ」といったコンセプトです。

11.9.10

明日は、マルゴーのパフォーマンス。狭い椅子ではありません。

明日は、小金井のシャトー2Fで、他4人とパフォーマンスです。一応、順番にやりますが、一部重なります。狭いイスに、くくりつけられるようなことはありません。

今日は、私自身の物質的、精神的仕上げ。

http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/

9.9.10

シャトーのトワレット

9月いっぱい、毎平日5時間見当くらいで、続ける仕事があって、生活にペースがでてきたかもしれない。継続的に仕事があるってすてき。それは、摂食障害の人のインタビュウのテープおこし(前にも書いたね)です。おかげで、タイピングが早くなったかもしれない。

今度の日曜日が、シャトーPAマルゴーのパフォーマンスなので、段取り、小道具など、用意している。グラスは、3ヶ月近く前から用意して、会場であるシャトー2Fの食器棚に入っている。感覚の準備が一番大事かな。シュミレーションを、いろいろなところで、妄想している。どんな感じで進めるか。サウンド(自分で出す音、例によってモノが擦れる音や壊れる音)の要素もあるし、自分のリアルな感情の、セルフコントロール。息の要素が高くなると思う。それは音や色と連動する。音とは大きく連動するけど、色はどうだろうと思ったり。視線の角度が様々になるようにしている。トーンとしては、場所の記憶にコミットするから、ゲゲゲ系になるね。プネウマかな。演劇でも、従来のコンセプトの強いいわゆるパフォーマンスでもない。スキルや、私個人の身体の持つものが生かされる方が良いと思っている。そして、シャトーの特性が活かせればいいなと思っている。あ、イベント前に、村井さんとシャトーのトイレ掃除をじっくりするよ。5ボトルのオープンワイナリーだからね、リフレッシュは大事だ。

ジョアン・ジョナスの本と、福音書を読んでるよ。


*来週くらいから始まる予定の、イスラエルでのC&M展は、挫折組が多くて、2組しか、作品展示ができないかもしれない。ネットしか使えないコミュニケーションで(しかも英語)前向きなコミュニケーションができたのが2組もあれば、すばらしいのかもしれない。村上チームは、テルアビブのどこかの地下で、彼の作品が展示され、ナバによるパフォーマンス、ニスリーンも何か、作品を置くそうだ。あの作品に、地下はあってる。鈴木チームは、リオが、鈴木さんのSkypeの映像を制作中。これは、出来上がる見込みがあるので、展示できる。場所はまだ不明。

3.9.10

関わりやすいものはNG

ちょっとメモ。


関わりやすい、とっつきやすい、もの/こと/関係は、あとで、ダメダメになる、私にとって、それを学ぶ3年くらいだたと思う。
難易度高くしないと、自分が満足しないってことだ。そういう私だってことだ。
割と、いろいろなことを始めたかったから、手がつけやすい所から始めてみたりしたのが、反省点だ。
やるなら、1日限りのもの。


MediAtionsについて。ワークショップの定義だ。いっしょに行うインタラクティブを期待されているが、いっそのこと、自分ひとりのワークショップにしてしまおうかと思う。関われる要素を少し残しておく。それは、ほとんど、上演と同じだけれど。これまでのスタディをまとめておいて、展示できるようにしておく。

マルゴー。グラスを使う。屋外にも少し出る。
だが、大事なことは「気晴らし」になってしまってはいけない。はっきりとした思想を、胸にためておくこと。

2.9.10

躁状態の強要

タンスに白骨化したお母さんをしまっていた事件(事件と呼ぶべきか?)やら、摂食障害の人のインタビュウ(今、わたしが臨時収入としてテープ起こししている)やら、身近の人たちの様々な悩みを聞いたりしていると、いつも「躁状態」であることを、強要されている強迫観念に満ち満ちている昨今の東京の「アート」シーンが、どこか、別の島で行われている絵空事にか、にしか感じられない。


何も「掬って」ないではないか?アートは。


今月末から始まる予定の「MediAcitons」では、どういうスタンスでいこうか、まだ迷っている。「パブリックな」人間として、「前向きに」語られている言説の、尻馬に乗ってみようかと思ったこともあるけれど、それで、どうなる? パンフレットの「挑発的」なアイデアを頭に叩き込んで、ワークショップ案を10個以上も考えてみたが、まあ、それは頭の体操、ということで、もう少し、真剣に「掬う」ことを考えたい。



「人は、メディアを手にした」。しかし、関係性は、より希薄になっている。





躁状態なふりするなんて、まっぴらでしょう?

27.8.10

プレイベントWS「お邪魔フォト」


















*ディスロケイトプレイベント

 2010年8月29日(日)14:00〜17:00
 3331Arts Chiyoda 夏休み企画「東京の多様性」参加イベント  
  進行:太田エマ(ディスロケイトディレクター)、山岡佐紀子

  内容:1.MediActionsの紹介、参加アーティストの作品紹介(DVDなど)
     2.Prilla Taniaによるパフォーマンス(インドネシアからのSkype)
     3.秋葉原散歩Mapづくりワークショップ「マッピングデート」
      報告と参加者によるトーク
     4.パブリックスペースというコンセプトについてのディスカッション
     5.ワークショップ体験 入門編「介入出会いショット(仮題)」
       ナビゲーター/山岡佐紀子 
       デジタルカメラをお持ちの方は持ってきてください。
                       PCに取り込むためのケーブルも。
         写真は10月30日〜13日の3331ArtsChiyodaでの展示に発表されます。







ワークショップは、アキハバラの繁華街にでかけて、カップルや家族ずれに話しかけて、スナップ写真を一緒にとってもらうことをします。
たいしたことはないんですが、町で会った人と結べる関係の可能性についてのワークショップなんです。
でも、ちょっとお邪魔虫なので、「お邪魔フォト」というタイトルも考えました。「介入出会いショット」とどっちがいい?
添付の写真のようなこと。邪魔な感じが、ちょっと可笑しいでしょう。
これらは10月末の展覧会で、発表されます。



しかし〜。アートの意味も変わってくるよね〜、このごろ。



23.8.10

しかし、やっぱりナンセンス

個人的には、アートはナンセンスなものが好きです。好きだし、大事にしたいです。今時は、こういうのは、自分たちで企画するのが、一番。表現力を鍛える、楽しむのは、やはり、ナンセンスなものだと思うのです。アートは本当は社会に役に立ってはいかん、と思っている。それが本当の戦いだあ。
観客の方々に、社会とパラレルな、真正のアートをおとどけしたい。

それで、
そんなことを考えているはずのメンバーを集めて、始めたのが、
シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー
というイベント。会場が、シャトー2Fという場所だから、この名にしました。

略称はだんだん「マルゴー」になって来た感じです。⑤でもかまいません。
さて、シンプルに行いたいです。11月にもあります。できたら、1月もしたい。3月もしたい。
コアなパフォーマンスアートの好きな人も、パフォーマンスアートってなんだっけと言う人も興味があったら、是非、武蔵小金井まで、来てくださいね。



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第1回 オープンワイナリー(イベント)

2010年9月12日(日) 15:00



5つのパフォーマンス作品



村井元、直方平ひろと、門倉緑、山岡佐紀子、村上裕




入場料/1500円(1ドリンク)


武蔵小金井駅より徒歩5分 小金井市本町6-5-3 


予約/問合せ missinginciyt@gmail.com




会場には電話はありません。
迷った人は私に電話を。始まっていたら、出られませんが....
シャトーというマンションの、道に面した商店部分にあります。元レストランです。
カフェがありますので、2杯目の飲み物は、注文できます。


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村井さん。長いこと知り合いですが、一緒にやるのは、初めてです。ナンセンスと言えばこの人と言ってもよいくらい、背負ったもののなんにもない(なんて言ったらおこられるか)、軽みと渋みと諧謔味が、きいた表現です。なぜか、やすらぐ。

直方平さん。ご自分で、「村井さんに似たところがあって」と言ってましたが、一見近いところがあるようで、まるで反対側な場所にいる人だと感じます。つまり、彼の場合は背負ってる。それに、引き算に引き算を重ねてゆく。ストイックなのだけど、迷いを隠さない。見る側はその迷いに引きつけられる。

門倉さん。若いのに、パフォーマンスアートの本道を歩くかのような表現をする人。NIPAF現役メンバーです。頭がよくて、パフォーマンスアートでなされるべきことは何なのか、あっと言う間に理解してしまった人のようです。技巧派であると、私は思っています。

村上さん。本人は、パフォーマンス経験が少ないと言っていますが、結構、達者です。そして「アートは政治だ!」と叫んで、わたしを威嚇しています。そのアグレッシブさと、内に隠した詩人のような繊細さが、表現の現場で、ぶつかり合う、そういう表現の人。


各人のセルフプロフィールは、マルゴーブログの各人から見てください。



以下は、村上さんのデザインしたフライヤーです。




裏は私がデザインしました。デザインてほどでもないが。