7月の中ごろから、展覧会をすることになった。
マレーシアのアーティスト、チ・トーさんの、10ヶ月の日本滞在の成果発表がそのベース。その活動に対する問い、あるいはその活動からくる問い、それをわけ合うイベント。
マレーシアのアーティスト、チ・トーさんの、10ヶ月の日本滞在の成果発表がそのベース。その活動に対する問い、あるいはその活動からくる問い、それをわけ合うイベント。
キュレーターは太田エマさん。わたしは、協力キュレーター(co-curator)として関わる。
ディスカションは、そう簡単に生まれないので、そこを準備するのが、私の仕事になる。一般向けは、最終日にするとして、「スタディ・ディスカション」という研究目的なものを中日くらいにする予定。チ・トーさんは、賞賛よりも、Criticの方を求めている、ということが大事だろう。
さて、なぜ、私が自分の作品の発表機会を放棄してまで(最初はアーティストとしてオファーされた)、co-curator を、自ら立候補したか。以下、そのステイトメントです。この小文のタイトル「State of Debt 負債の状態」は、イベントのタイトルの「State of Doubt 疑いの状態 」をもじっている。
彼は、アクティビストだったことがあるそうだ。でも、今はそれをはっきり、やめて、アーティストになったと言っている。そのところに、私はとても興味がある。
「アートの言語」で語ることに決めたということだろう。これは、私の今、一番かんがえていること。「政治」に関わるということは、感情的なことをどうするかだ。「政治」は感情だから。人間関係は感情だから。そこを、流されない技法として、人間の感性の別の可能性であるところの「創造性」をフルに使って、探求しようとするのが、アートだと思う。そこの「危険性」に敏感な感性を持っている彼に、私は信頼をおいている。是非、興味深い「可能性のstate」を日本にのこしてから、帰国して欲しい。
彼は、アクティビストだったことがあるそうだ。でも、今はそれをはっきり、やめて、アーティストになったと言っている。そのところに、私はとても興味がある。
「アートの言語」で語ることに決めたということだろう。これは、私の今、一番かんがえていること。「政治」に関わるということは、感情的なことをどうするかだ。「政治」は感情だから。人間関係は感情だから。そこを、流されない技法として、人間の感性の別の可能性であるところの「創造性」をフルに使って、探求しようとするのが、アートだと思う。そこの「危険性」に敏感な感性を持っている彼に、私は信頼をおいている。是非、興味深い「可能性のstate」を日本にのこしてから、帰国して欲しい。
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<State of Debt 負債の状態>
チトーさんのパフォーマンスには、相方として一度、関わったことがある。それは、人通りの多いパブリックスペースで、互いの頬を平打ちし合う、というものだった。彼は、パブリックスペースでの、日本人の反応や態度というものを、リサーチしたかったようだ。
彼の日本滞在での作品のプランは、マレーシア人と日本人との相互理解、特に第二次大戦における互いの経験と記憶、その相互認識のずれの解消という、外交の場であれ、文化交流であれ、誰でも尻込みしてしまうような偉大なるミッションである。しかし、それは、なぜか彼の語り口だと、子供の鬼ごっこのような、創造性と寓意に富んだ、むしろ、繊細でスイートな「遊び」のように感じられた。彼がその重いミッションを、芸術の作法でトライしようとしているのだと私は理解した。私はかなり、軽い気持ちで関わることにした。しかし、それは予想に反して、あまり、軽いものではなかった。彼は、容赦がなかった。彼の手が私の耳にあたり、かなり痛かった。しかし、私は、彼の前に立ち続けた。なぜなら、それは「私たちの」パフォーマンスであったから。私はそれを完成させたかった。彼の滞在5ヶ月目くらいのことだ。
いつの時点からか、わからない。彼のコンセプトが「相互理解」から、「あなたは何か忘れていませんか」に変わったような気がする。「なくしたものへの問い」。何がそうさせたのか?
彼の滞在はあとひと月余り。プロジェクトはまだ、終わっていない。彼は、ミッションをどう終わらせたらいいのか、苦しんでいるかもしれない。しかし、それは私も同じだった。彼は、私に「負債」がある。私は、あの痛みがまだ「全然、忘れられない」のだ。
相互理解とは、いったい、何なのか。そういう、外交用語の、あるいは、幾何学のような関係性が、生身の人間たちの関係に可能なのか?
そもそも、それはいったい芸術に課せられうるテーマなのか?
しかも、彼は本気で、相互理解の儀式を執り行いたかったのか?
私は彼に、このまま、私に遺したこの「おとしまえ」を清算せずに、帰国してもらいたくない。私は、彼に「マレーシア人」としてではなく、モダンアート以降のグローバリズムの共通言語のひとつである、ファインアートの技法を用いる、「ひとりのアーティスト」として、この10ヶ月に何を経験したのか、語らずして帰って欲しくない。