ちょっと疲労気味なので、日記などを書いてみる。3331のレジデンスプログラムのことと、メディア芸術祭のこと。
おとといは3331アーツ千代田に行った。東南アジアのアーティストが、招待されて来ている。私はシンガポールのアーティストのジェレミーと2004年からの知り合いなので、彼のワークショップに出てみた。小学生向けのものなので、どう指導するのかしらと思って参加したわけだが、子供といっしょにお絵描きするはめになり、結局、指導を受けた(笑)。妖怪の絵を描いて、それに電池仕掛けのぴかぴかするものをつけて仕上げるんだ。妖怪は、その辺の子供ごときより、もっとへんちくりんなものを描く自信はあったけど、私の電気の知識が、幼稚園レベルなので、火を噴いちゃった。あきらめて、ほったらかしていたら、ジェレミーが修理して完成してくれた。
それから、このイベントの担当のひとりのエマさんが、ぜひ紹介したいということで、香港のリーチュンフンさんと作品の紹介しあいをした。彼は、香港で、公営のコミュニティスペースを間借りを拠点とした、若いアーティスト10人くらいのグループのメンバーである。近所の人との関わり合いの企画の他、中国政府へのプロテスト(抗議)イベントを、アクティビストたちと行っている。返還前は、アクティビストとアーティストの活動はあまり、リンクしてなかったが、返還後は、コラボレーションが多いそうだ。彼は、このプロテスト活動がとても楽しいみたいだ。そして、この文脈に近い活動が、日本(東京)に見つからないことに、ちょっといらだっている。以前、メディアクション展で来日したジャスミンが、インドでの女性差別の状況が、日本(東京)で、なかなか当てはまらないことに不満そうだったのとなんだか、似ている。
このことは、客観的には面白い。プロテストというアクションは、その事自体が、興奮の対象になる。仲間との、共犯感覚もなかなかスィートなものだ。でも、日本人は、それを70年代までにさんざん行って、今は、別の方法を模索しているところなんだ、と私は思うよ。敵を想定して攻撃するのでは変わらないってわかったんだと思う。「もっと民主主義を」という文脈ではないし。やってる人たちもいるけどね。日本人の社会改良は、より実践的になっていると思う。それがなかなか進まないのは事実だけど、あちらこちらの人々が努力していると私は信じているし、感じている。それを実践する時に「プロテスト」の精神/態度が必要なことは多々ある。でも、そんなことは彼にはまじめすぎて「面白くない」だけかもしれない。でも、そのように、文脈の地域差があること自体が私には面白いし、できたらそれを超えて、共有できることがあればな、と思う。あるいは、それがない、ことをわかるのはもっと大事なのかもと思う。文化はグローバル化する必要はないんだ。だけど、知るべきだと思う。なぜなら、どこの文脈もまたいずれ変わるのだから。
彼らのイベント紹介は以下。展示は25日がオープニングです。
http://www.3331.jp/schedule/000824.html
きのうは、文化庁のメディア芸術祭の最終日に、かけこんだ。ものすごく混んでいて、人の間をかき分ける忍者作法を訓練しに行ったようなものかな〜。展示の仕方への問いも聞くけど、祭りだからしょうがない。インデックスとして、概観すればいいんではないかなと、案外、冷静な私でした。マンガとアニメとゲームは、私は見なかった。別に私が見なくても見たい人がたくさんいるから、いいと思う。
さて、そのアート部門だけど、大賞をとった大きな音具と言うべきインスタレーションは会場になくて、映像だけなので、「たぶん、すてきと思う」という感想。映像で見る限り、かなり面白そうだった。次の賞の、グーグルのストリートビュウだけで映像を作った作品「Nightless」は、本当にクールだと思う。ストリートビュウには、夜がないっていう発見は示唆深い。つなげて、ナレーションを入れて、ロードムービー仕立てにしていたが、その内容はそんなに大事ではなさそうだったので、全部は見なかった。もしかしたら、「夜がない」ということを何か文学的に表現した内容だったかもしれない。千葉やネブラスカ、アラスカ、マドリッドなどの町が出てくるから、地球の裏側も夜じゃないというわけ。「夜がない」ということをテーマにすると、様々な意味で表現可能だろう。人間が寝ている間に働いているデジタルメディア社会そのものの事だし、いつも覚醒していなければならないという現代的強迫観念にもなるし、眠れないという精神病のことにもつながる。そして、夜がないということは、世界の陰を隠蔽すること、ということにも連想が行く。また、寝ている間に、再生するはずのものができないということ。夜というものが育む豊穣な命の可能性を否定してしまう。第一、陰影を礼賛できないのは日本人としては、文化的損失だ。闇社会がないと表の社会は活気づかない。
他の作品では、キーボードをインスタレーションの真ん中に置いて、音と車窓風景の連動イメージを見せる/聞かせる作品(「Sound/track」というタイトルだった。)があって、センスが良くて印象に残ったけど、音と映像という芸術の安全領域内。芸術的であることの愛着から出てない気がする。出る必要がないって考えているだけだろうけど。でもなんか私には物足りないような。それから、私は、3Dのボックスをつまみあげるインタラクティブ(アート部門ではなかったかも)な作品も好きだった。アートではなくて、あくまでテクノロジーの問題かもしれないけど、狭い薄暗い部屋で、人がかがんで、「あれ?」「あれ?」っていいながら、テストしている様子がおかしかった。なんていうのかな、ものすごくローテクなことと、すごくハイテクなことが仲良く、行われている感じ。ちょいださい感じが良かった。クワクボさんのインスタレーション作品は、以前、ICCで見たことがあり、誰もいない会場でひとりで独占してうんと楽しんだことがあるので、あの喧噪の中でももう見ませんでした。部屋に入るために20分並んだけど、2分くら見て、出た。でも、間違いなくいい作品と思う。
メディア芸術は、知識、感覚、美意識、思想、意識、社会性、そしてそれらの共有感覚、そういう様々な私たちの人間の「インターフェース」を、刺激/訓練/拡張してくれる。もちろん、本当は、そういう「はやりの」メディアを使わなくたって、可能なはずなんだ。だけれど、案外、デジタルメディアの作品は、テクノロジーにかまけているおかげで、硬化した自我意識/美意識/思想への執着が薄まって、今まさに、彼/彼女が大事にしたいと思っている意識や希望のあり方が、ふいに生まれ出る可能性があるように思う。実際は、私は刺激されて自由になっていると思うし、そういう意味では期待できる。デジタルメディアが「自分自身」ではない、というところに、もしかしたらミソがあるかも。メディアアートなんか、おもちゃバカだと言う意見もある意味正しいと思うし、でもそればかりではないってこと。フジハタ先生は「機械に使われて/笑われているみたいで、はずかしい」と言うけれど、そうでもないかも。もちろん、先生が言うのは別の意味もある。
ミッドタウンの建物を探検するのも楽しかった。六本木って場所を、否定しようとすれば、どうにでも否定できると思うけど、なんか、それもベタだな〜と思い、私は楽しむことにしている。というか、建築というものに関心があります。4階の講堂に行くのは、ちょい迷路みたいだった。そうこうするうちにお腹がすいて、しかし、さすがに、同ビル内の高すぎるハンバーガーにはおそれをなし、少し歩いてモスに入った。けど、こっちのハンバーガーは、なんか、小さくなったみたい。さびし〜..........。ドンマイ。
文化庁のホームページから、各作品のインデックスや説明などを見ることができます。展覧会は終了しました。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/
スペインでの、あたらしい作品「Boil Me」については、明日以降書きます。