15.1.10

この時期、亡くなる人が多いので、斎場の予定がつまっており、約1週間ほど、父の身体をこの世において置かなくてはなりません。エンバーミングという技術で、腐敗が進まないようにして、葬儀社の霊安室(というのかな)に、預けています。きのう見てきましたが、大変、見事な技術で、まるで生きている感じがします。
でも、わたしには、抜け殻に見えます。だんだん、壊れてきて、父を苦しめた「容器」という印象があります。なので、むしろ、憎らしいです。
また、父の気持ちを形にするための筋肉と皮膚と血でもあったわけなので、それが笑顔になって動き出すのではないか、と期待してしまうのも、正直なところです。

今、祭壇に飾る写真の処理をしています。できたら、わたしが用意できたらと思って、フォトショップを駆使中。四つ切りサイズで、持ちそうな写真は、普通の生活をしている人には、なかなか、ないですよね。それを、それらしく、するには、プロにおまかせした方がいいのでしょうが、やってみます。

姉や母、それから、父の友人や近所の方々との会話で、「失った」モノが、人によって、かなり違うということがわかります。

また、「苦しんで死ぬ」ということの、残酷さには、今だに、不条理に思い、辛い思いを止めることができませんが、葬儀に向けての準備ではいろいろな人の、協力やあたたかさを感じてすばらしいし、そして、すてきなセレモニーにしたいという気持ちがあり、私は、決して気がふさぐことはありません。こんな時に、「縁起が悪い」という言葉が、様々なシーンで出てきますが、私は、あまり、意味がしっくりしません。「悪い」ことではないと思うのです。

裸になった魂には、魔物がつきやすいようです。その魔物が、生きている人に何かすることもあると思います。その意味で、気をつけなくてはならないことがいろいろあるようですが、それを気をつける行為が大事だと、わたしは、個人的に思います。

また、わたしは、でかける時は、黒っぽい格好を心がけていますが、そういう意識は、あまり意味がないと、姉は言います。会場で、喪に服せばそれで良いと。


これは、文化の違いですね。
身近の人との文化の違いがあるところが現代的だと思います。