31.3.11

他者、喪

テーマは他者だなと思っている。

そして、喪。
喪に服するかどうかは、個人の宗教観による。わたしは明確に宗教的な人間なので喪に服する。私は活動はするが、ハレの行為はしばらく、する気がしない。
これを、制度やマスコミが呼びかけるのは、違うだろうとは思う。だけど、それに過剰反発するのは、もっと、どうかなと思う。自粛ってどういう意味だ? 騒げない人は騒げないというだけのこと。騒ぎたい人は騒ぐ。いいじゃん、好きにしよう。

ハレの儀式はみな、死の儀式につながっている。だから、時期というものがあると思う。時間には流れやバランスがあるんだ。江戸時代は村八分でも、葬式だけは参加できた。それほど、喪は大事なことだったんだね、共同社会には。その意味を考えたい。人の死は、個人的なのことではないのだ。
でも、そのへんの感覚は、その人の宗教感覚次第。たとえば、私の感覚では「宗教は金儲けか、政治でしょう、所詮」と言い切る人の気持ちはわからない。宇宙人だと思う。しかし、私の方が少数派かもしれないね。

でも、人のそういう内面感覚を、とやかく言わないのが、21世紀だと思う。それぞれのやり方を行う。それが、アートということもある。仲間を作ってもいい。そういうアートもあるし。

私は、
他者とどうやっていくのか、理解、和解のきっかけがいつも欲しいだけなんだ。
2項対立のいらない世界へ。みんな一緒ということではない。力関係を否定もしない。なんというか、もっと、あいまいな状態を許す感覚。まだらに、いろんなことが起きているのがいいと思う。

20世紀は人が人を「躁」状態で殺戮した世紀だった、だから、21世紀は喪の世紀だと思っていたけど、21世紀になっておこった事からすると、死はもっともっと、誰にでも身近になった世紀と言ってもいいかもしれなくなった。イデオロギーだけを呪っていればいいというわけではなくなった。それは、悲しいとか、そういうことだけはすまされない。ひとつの命は限りがあるし、その限りは本当にいつ来るかわからない。つながっているのは、家族だけだと言っているのでは間に合わない。家族と言っているうちは小さい。もはや、血縁でも、国家でもない。もっと、もっと偶然な何かだ。時間を共有しあうことのできた、一期一会のすべての人だし、その中のとてもとても、偶然な人たちだけ、と言ってもいい。そう、誰でもではないのだ。しかし、出会いはどこにあるか、わからないほど、散らばっている。

私は、空気が見えるけど、読めない。だから、時々、自分と空気の違う人の中に入り込んでしまう。邪魔だ、お前は違うぞ、という空気を感じることがよくある。でも、出て行かないよ。私は、進んで「空気」の合わない世界に、出ていかなくてはならない人だと思っている。痛いんだ、痛い。というか、いつもそうなっている。そうする人がいないと、世界は、固まってしまうと思い込んでいる。だから、そうする。
これは、銀行ATMに寝るのと同じかもしれない。