この問いについては、「作品をやるので、参加していただけますか?」という姿勢で行ったものは、作品と言って良いと思う。私の「いっしょにやるアクションパフォーマンス」は、やるアクションそのものは、私のある意味「振り付け」だし、パーソナルな問題を扱ってはいない。「感情」や「事情」がそこにあるとしたら、それは「私の」ものだし、しかももしかしたらそれは、「私たち」のことして、共有しているものがあるかもしれない/あるに違いないだろう、という前提から来ている。一時的に、あくまで一時的に、「仲間」になった気分を、共有する。だが、別れれば、私たちは別々だ。思い出を共有したとしても。
そして、それがワークショップなら、それは作品ではない。それは、ドキュメントにする時は、はっきり、表示すべきだろう。写真にしても、そこで得られた何か、たとえば、参加者の書いた/描いたものは、決して、作品とは呼ぶべきではない。コーディネートしたということは、表すとしても。
一方で、アーティストが何か、誰かのパーソナルな要素を取材し、それを作品にした場合はどうなんだろう。そして、そのアーティストが、成功したら? 成功したいと思って行っているとしたら? しかも、そのパーソナルな人たちは、社会的弱者だったり、社会的成功から遠い人たちだったら? アーティストはヒーローなのか? それとも? 取材された人がヒーローなのか? まさか。それはさらにトリッキーなことになる。
ちょっと心配していることがあって、書いた。