作品で反感を買うことが増えて来た。あまりにわたしが簡単なことですましているのが、気に入らないのかもしれない。でも、それは、狙いでもある。芸術ってすごいもんだなんて、思わなくなった。崇高なことであるわけでもない。善良を気取るのは、もっとも意に反したことだ。ちょっとした視点の違いを提供するだけ。少しだけ、呼吸が楽になるように。世界はあまりに禁止事項が多くて、あまりに暴力が多いから。緊張を解きたいだけ。今なら、脚立を置いて、天井に小さく、noと書いても良いのである。わたしなら、noと書く。いつもと同じだと思うなよ、のメッセージだ。あなたの知ってるあれと、同じと思うなよ、と。
わたしは、誰にでもできそうなことをするようになった。はあはあぜいぜい言うようなのをやっていたことがあって、それでもって感動されてたが、その時は、その努力に感動されているようにしか、感じられなかった。熱とかエネルギーは、とりあえず、説得力があったりする。実のところ、それぞれの人は、その都合で、いろいろ感じているにすぎないんである。アーティストなら、自分の作品が否定されるような作品は許せないとかね。だから、わたしはもう、自分にとって、意味のあることをするだけ。ただし、スタンダードにはならない。はずしていたいのだ。ちょっと怒られたいって、いつも思っている。「おいおい違うだろ」ってね。
それから、病気をして、身体のコントロールがむずかしくなった。あせってどうにかしようと思ったって無理なんだもん。醜いと思われていてもいいことにした。でも、それが、そう容易くはないのは、本人にしかわからないでしょう。
まだ、耳に入ることが気になることもある。それと戦うことも修行のうちだ。「聖アントニウスの誘惑」と同じである。今はただ、自分の思想を自分で研ぎすます、だけである。