26.11.11

まともな大人

最近の思うこと。この3週間、Facebookで、「研究会バクスイレン+シャトマル」をやりました。そんなことなどから、思うこと。(アーティスト以外と話せて良かった)

今の日本は、まともな大人は、政治や社会問題、経済問題で、手一杯であるということ。アートに関心がないわけでも、感性がないわけでもなくて、優先順位が下がっているということだと思います。彼等は、社会や回りの人たちに対して、より責任があると感じている。まともな大人が、そうでなくては、むしろ、困るかもしれなません。語るべきは、アートというより、文化背景のようです。「なぜ、このような社会になったのだろう?」と。

手一杯であっても、なにがしか、アートなどの表現に触れていたいという人は当然います。アートに触れれば、感じることは確実にあって、その場では口にしたりはする。でも、後までわざわざ覚えていたり、人前で話したり、人宛に書くための「言語」にはなかなか、しないのでしょう。「芸術のための言語」を鍛えている暇は、もちろん、なかなかない(研究会の目的はそこでした)し、必要もない。




私のまわりの人たちはだいたいそうです。その人たちは話していても刺激的だし、信頼できると感じます。応援してくれていれば、なおさらです。私の仕事は、それに答えるべく、視点をずらす可動域の広い首のしなやかさ、人の見てない深いところをみつめる眼力などを、じっくり鍛えておくことだと思います。そしてますます、突拍子もない作品、あるいはよくわからない作品を提出し続ける。


世の中の様々なアートの普及活動も意味があるかもしれない。行き場がない、若者たちの居場所を提供するやり方もあるかもしれない。昔ながらのアートファンやそのコミュニティを支える画廊の活動も意味がある。また、コマーシャル画廊の活動、それらと共同作業しているらしい美術館や国際展も悪くない。話題になり、評価されるような企画展を考えるキュレーターさんたちは忙し過ぎで、私のところまでは来られない。またまた、社会問題フォーカス型のアート作品とその批評活動は、どこか私からは遠い。どれも、どうも、私の活動域ではないけれど、見物して楽しむことはできます。

もしかしたら、それについて問をかけるメタな作品が、できるかもしれないですねえ?
 私は、ひねくれ者の、へそまがりだから。

メタというのは、私が9月にバンクーバーでやったパフォーマンスを評して、何人かの人が「メタパフォーマンスだね」言っていた言葉。なので、「メタ」っていいかも〜。


文化っで、「こうあるべきでしょう」なんて言っても意味がない。


以下は、Facebookで拾ってきた様々なイメージ。