6.9.11

美術作家、そして、ほほえみの給食センター

美術作家という言葉を久しぶりに思い出しました。しかも、肯定的な意味で。

現在開催中の所沢ビエンナーレを見に行き、感じたことです。最近は、アーティストという言葉の方が聞かれることが多いし、私も使っていました。アーティスト、となると、アイデアやコンセプトを重視している感じがあり、美術作家というと、ものをつくる人たちという感じがします。ものをつくることで、思考している人たちだと思います。

所沢ビエンナーレは、前回は2年前くらいでしょうか? あまり、良かったとは思えなかったです、正直。80年代のモノが空気なしで、そのまま、運ばれてきた感じがありました。80年に活躍した美術作家たちが、集まって、企画したものだと聞いています。現代の流行物に危機感を感じ、抵抗して、創られた展覧会という感じでした。だけど、なんか、負けているように思いました。でも、今回は、いろいろと楽しめました。なぜでしょう?



その理由は、展示場所から来る条件の違いではないか、とふと思いました。作家の選び方が変わったから、というのは、もっぱらの理由らしいですが、作品の1つ1つと言うよりは、場所の違いにより、展示の方法も違ったのだと思います。



前回の会場は、かつての西武線の車庫や電車の整備工場でした。今回は、学校の体育館と給食センター。この違いは、前回が、マッチョな近代工業を象徴するような場所であったのに対して、(だから、企画者たちの世代の人は惹かれたんだと思います)、今回は、古いとはいえ、女子供の場所であること。前回のような「戦う男社会の残骸」の場所ではなく、「受け入れ」「育む」ための場所です。そのせいか、現代の空気の中で、今生きている人たち(作家も観客も)の「身体」になじんでいるように思いました。今は、オトコもオンナも子供もすべての人が、何かを「受け入れて」「育む」時代でしょう? それが、今風の強さだと思います。


もちろん、体育館も給食も、「近代的インフラ」には違いないです。しかも国策として「身体」を創る場所です。けれど、鉄道の機械のどこか「深刻」で「天下国家」を背負ったかのような気配と比べ(私鉄なんだが)、給食室の機械には「ほほえみ」があります。当然「そのほほえみ」は、トリッキーでもあります。それは、今の、日本の美術の状況に、似ています。「ほほえみ」を装った管理というのかな。....... 私はあまり否定的ではないんです、そういうの。


とにかくまあ、そのことがが、80年代風の硬めの作風も、いかにも今風の遊びのある作風も、どちらも受け入れて、しかも、前向きに見させてくれているように思いました。


会場で、懐かしい人たちにも、何人か会いました。サウンドパフォーマンスをした多田さんは、パフォーマンスの後、少し笑って「これがぼくの30年だよ」と言いました。私が、その場で感じていたことと近かったので、その言葉は、すっと入ってきました。


そして「美術作家」という懐かしい言葉が、硬直した印象ではなくて、創造性の豊かさのヒントとして、私に降ってきました。基本的に私は、アーティストが、「もの」を創るのも、創らないのも、それは、選択の問題だし、ケースケースでどっちでもいいと思っています。「創らない」とは、撮影やパフォーマンスによるもの、既製物を使い配置するような作品、あるいは、参加者の動きによって完成されるもの、あるいは、アシスタントや業者に発注して創らせるというようなもの。あえて、アーティストの職人的な力を使わないと言う方法です。しかし一方、確かに、ものを創ることから、発見されることは、少なくないのです。「手の思考」という言葉はありましたね。そのことを、今回の展覧会で、久しぶりにプラス思考で感じることができました。ちょっとした配慮なんかも、面白いと思うことがありました。

考えたり、作ってみたいことが、たくさんある、と思っているところです。