30.9.14

note


あと、1週間で私はスエーデンのマルメ市に発つことになっている。スエーデンでは3番目に大きな都市で、デンマークのコペンハーゲンに近い港町で、外国人の移住者がとても多いそうだ。ムスリムが人口の25パーセントというのには、驚く。どんな町なのか、とても楽しみだ。
 展示する作品はもう送ってあり、あとはオープニングに行なうパフォーマンスと、2週間の間に5回もあるアーティストトークの準備を考えている。トークのテーマは、基本的に、参加アーティストの自分の作品についてであるけれど、それとともに、私たちは、震災以後の変化、という質問に答えることになっている。なにせ、今回は、日本のアートを紹介する展覧会なのだ。
 誰にとっても、3.11以後というには、一言では言えない苦渋の出来事や思いがある。それの、どの部分を、私が、プレゼンしたらいいのかと今、考えている。
 正直言って、震災1年後に参加したストックホルムでのパフォーマンスアートフェスでは、彼等は日本の問題にはほとんど興味がないのだなと感じた。日本は、世界であまり同情されないし、なにしろ経済的政治的プレゼンスが低いんだから、しょうがない、とその時は思った。
 それにしても、今月のシンガポールでも、欧米やシンガポールの私の世代以上のアーティストたちは、比較的文化的にリッチな環境にいるので、作品において、安定した美学を究める方向にいるように思った。それはそれで、興味深く鑑賞することができたが、私は、私が住んでいる世界が、そういうところではいられない、ジレンマに満ちていると感じているので、私は、そのことを作品に反映させざるを得ない。今回は、抽象度が高かったせいか、私の提示したことを、直接受け取れる観客は少なからず、いた。
 にしても、他の多くの観客のためには、目に見えていることの、バックグランドにあるものの、紹介や展覧会の要点の解説は必要だろう。それは、キュレーターにしかできない。実際、パフォーマンスアートフェスには、それがちょっと足りない。シンガポールでは、それを埋め合わせるためにか、各アーティストにライターが付いた。私には、ありがたいことに、日系のアメリカ人女性が関わってくれて、いろいろと話し合うことができた。しかし、その記述が公的になるのは、パンフレットが出てからなのである。



10月のマルメでの展覧会では、キュレーターがいる。彼がわざわざ日本に何度もやってきて、アーティストを選んだ。その彼が「美術館、大学、アカデミーなどで行なわれるトークイベントで、震災以後の変化」について、聞きたいと言う。そしてまた、彼の視点の面白いところは「日本には実に幅広くいろいろなタイプのアーティストがいる」という点。イベントタイトルには「テーマパーク」という、陽気でシニカルな一語が入っている。

 
私が、語れるのは、美意識の変化(雑然としたものへの興味)、他者(観客の重要性)との関係の変化、といったところか。芸術の自律性などないのだから。




23.8.14

写真の小冊子をつくりました。

レジデンスの制作記録としての、小さな写真ブックをつくりました。
ご興味のある方は、今月中なら、すぐにお送りできます。メールをください。

なんだか、ただの写真のようにも見えるし、結構、えぐい写真にも見えます。「いかにも」変ったものを狙った写真ではないけれど、私の、思想をとてもよく反映しています。
テキストもあります。あまり、上手な文章ではないけれど、理解しにくいというほどでもないので、読んでいただけるとありがたいです。

大事なのは、別にスカンジナビアでなくても良かったのだということが、わかったということです。










20.8.14

地球という玉と、ひとりで向かう

では、「推移」というイメージのために、何を挑むか。
今、9月のイベントのために、「Relocation(移転)」と、「White Clothes(白い服)」というタイトルの2つのパフォーマンスを考えている。
 「Relocation」は、シンガポールで行う。移民の国であることを少し意識している。家具のセットを移動する、6時間かけて、ギャラリーの端の角から、もう反対側の角まで、移す。
 中国で行なう「白い服」の方は、まだ、考え中な部分が大きい。とりあえず、白い服を着る。近代以前は、極東では、結婚式だけでなく、葬儀も白だった。靴も白にしよう。それから、個人が使っていた食器を葬儀の際に壊すという、日本の風習。また、嫁入りの際に壊す場合もあったらしい。あるステージから別のステージに変る時に、日常的に使っていた食器(身体をつくるためのものだ)を壊し、別の世界に突入させる。カラフルな中国のどんぶりを使いたい。(中国ではそういう習慣はないみたいだが)
はっ、白い服買ってこなくては。


きのうは、MOTの2つと銀座の2つの展覧会を見た。
銀座4丁目の交差点、日産のビルが今、工事中なので、背後のビルがよく見える。ビル裏はセクシーなのだ。
展覧会を見て、その自分の反応を感じると、自分の特徴がよくわかる。それから、今日のように自分の発表が近い時には、他の方々の作品を見ながら、自分の作品を考える。考え方の流れを、他のアーティストの脳や作品を借りて、試してみる。なかなか良い経験だ。

MOTから銀座まで、友人が車で送ってくれた。その時に、見た、東京の橋たち。その印象も今日は私の頭に残っている。網膜ではなくて、身体全体で記憶する。橋は、どこか、身体に似ている。

ところで、より個人的な「インディビジュアル」な感覚に関心がある。それは、語り、によって表されない。言葉になってはいけない。物語になってしまうとそれはまた別の作り物になる。しかも「言葉」は、何か、真実に近いのではないかと、人は誤解するから。

より、ミステリアスなこと。未踏の領域。目や態度に表れていること。目で、空気で感じられる状況。誰かの態度が突然、きらきらするとしたら、それはどんな時か。

ビジュアルアートは、言葉のように「わかられたり」しなくて、たかが作り物、と言うところが良い。(それもまた、権力的になっちゃうんだけどね、へたすると)

私の、これからのパフォーマンスは、あまり「参加型」ではない。しばらく「集団」の身体に興味があったが、私自身でそれを組織できないことが気にかかるようになった。自分の身体だけで、やってみたい。

今の興味は...... 「丸い地球」と対峙できる、玉のような身体感覚を持つこと(夢はでかい)。磨いたら、なるんではないかと思う。

MOT(現代美術館)は現在、キッズ向けのイベント目白押し。ロビーでくつろぎ過ぎの、バルティスな少女たち。

撮ってもいいか、アイコンタクトで承諾をとった。どこか、ポーズをとっているような。



10.8.14

推移を見つめること

9月、10月と、海外でのイベントが続く。シンガポールで1回の6時間のデュレーションパフォーマンス、北京と済南市で1回ずつショートもの。10月はスエーデンのマルモという都市で、展覧会。無人島プロダクションのアーティストたちや、奥村雄樹さんらとともに、展示する。パフォーマンスもオープニングにする。
それらのテーマは、「推移」。具体的にもだいたい決まっている。材料を揃えつつあるところだ。
なぜ、それが今、私のテーマか、話したい。

この1年くらい、身体の急速な変化に驚いている。白髪が増え、筋肉と脂肪が下がり、物事を考えるのにこだわりから抜けにくく、なんかの勘違いが多くなった(前からそうだったけど。)話し方もおかしい。人は、それらを更年期障害だとか、よぶ。

<目玉問題>
たとえば、面倒くさい目玉問題。もともと、ど近眼である。裸眼だと、かなり近いものが見える。しかし、眼鏡をかけると見えない。近眼の老眼である。随時、都合に合わせて眼鏡を作っているうちに、種類が増えてしまった。読書用の眼鏡と、パソコンと生活用の眼鏡と、外出用の遠近両用眼鏡と、スポーツジム用眼鏡など。

ずらり

自分の身体への感覚が、ものすごく変ってしまった。この身体はなんなんだ?それを、このところずっと考えて来た。わからないから、保留。ベッドにごろり。わかるまで放置することにした。

<推移をみつめること>
そして、はた、と気がついた。
「それ」だ。
変化をウオッチすること。自分の目や感覚で、観察、凝視、感じながら、その変化を見ること。壊れてゆく身体と、抵抗とケアの効果の「攻防戦」を眺めること。

老化は急激だが、実のところ「推移」はいつだって起きていたのだ。きのうと、今日の違いは、誰にでもあるように。一見、当たり前のことだが、とてもとてもミステリアスだ。


9.7.14

暴力は自分に向かっている、それで良い。

私の部屋の伝教大師像

自分の気分がやりたくないことを、無理にやらせようとする。
私はそういうことをする。皆さんもするよね。
私の身体は猛烈に反発する。
あなたもそうですか?

今は、相性の悪い分野の人たちが書いた資料を読もうとしていて、身体がいやがる。でも、私は知りたいのだ。頭が知りたがっている。
..... 頭と身体、という分類も私は怪しいと思っている。
何と、何の、対決なのか、わからないけど。
身体がぴくぴくして、落ち着かなかったり、寝ているしかないくらい、「落ちた」感じになったりする。

でも、やるぜ。

私は割と暴力的な方なので、それが外に出る時と、内に行くことがある。
去年くらいまでは、外にも随分行ってたし、それはトラブルも生んだ。
そして、それを楽しんでくれる人もいる。
その頃の作品を見て、私に依頼してくれている人もいて、しかし。
このごろは、
その暴力が内側に向かっているので、
作品は一見、外からは、ソフトになったように見えているかもしれない。
「その頃の作品を見て、私に依頼してくれている人」は、私の最近の作品を見て、変わったと言ってた。
だが、彼の存在に感謝している。
私がそのことを忘れないために。
たぶん、
人は変われないから。

このごろ、私は私を責める。
「森」での生活で、ちょっと、癒されたふりをしてみた。
いや、癒されたのではなくて、懐を深くしてきたのさ。

だから、こうやって、また、自分をいじめ始めている状況に、たじろかない。
ゆっくり、
それが成熟するのを待っている。

作っているフォトブックのタイトルを、Walk to the lakeに換えた。この方が、詩的だし、一応、パフォーマンスアーティストとしては、動詞、の入っているタイトルの方がいい。


アートっていろんなことができる分野だと思う。遠慮することはないのだ、見ている人はいる。見てもわからない人もいる。
あとは、
運だぜ。


28.6.14

Photo and Essay の本をつくってる



ところで..... この1〜2年くらい私は、鬱になってた。知ってました? 若いころ、「わたし落ち込んでるの」なんて言っていたことなんて、お笑い、なぐらい、鬱って言うのがあるんだと言うことがわかった。人は、それを更年期障害と言うかもしれない。
そんなのどっちでもいい。
今は、落ち着いている。どうやら、単に、日本の社会が狭くなってきただけの話だと気がついた。特に震災以後。つまり、私の問題だけではない。
私より、強い心を持っている人や、たまたま動きやすいところにいる人たちは、なんとか、なっているだけで、誰にとっても、生きにくい社会になっているのだと思う。
私は、自分が、からっぽのペットボトルのように無価値に感じることがしばしばだった。


ところで、今は、すがすがしい感じで、アートブックの準備をしている。
タイトルは「ホームランド」。写真とエッセイで構成される。小さな冊子だ。

私は、幸運にも、5月に参加した、スエーデンでのパフォーマンスフェスの参加後、そのキュレーターのスーエンさん(アーティストでもある)が、彼女のスタジオのゲストハウスに、しばらく滞在して良いよ、と言ってくれた。それを、私は勝手に、はやり言葉の「アーティストインレジデンス」と呼び、10日間だけだが、滞在した。

森の中。隣の家に行くには、車で5分かかる。


でも、プランはなし。そこに、滞在してみただけだ。なんにもしない、と決めて、自分が何をしたくなるか、試してみた。

初日に、スーエンに森を案内してもらったが、カメラなどを持って行く気にならなかった。写真を撮ることは、shootという。つまり、武器なのだ。自分が、それをする必要も感じないまま、習慣的にshootはできない。

このごろの私は、町を歩いていて、おもしろげなものがあると、iPhoneで、すぐ撮っていた。iPhoneでは、Shootの感じはしない。でも、実はそれは同じなんではないかな。

日中は、森などを歩いた。結果、5日経ったころから、ようやく、写真を撮り始めた。いや、その前に、ノートに考えていたことを書いていた。たまたま、PCに入っていた、放送大学の哲学講座を毎夜、聞いた。食料品店に滅多に行けなかったので、ベジタリアン食に徹した。人付き合いとしては、余計なことを話さない、実践派の彼女と、日中、庭仕事をしたくらい。
インターネットもほとんどしてない。
あれほど、他者との関わりを求めて、イベントを催したり、SNSに頻繁に投稿していたのがウソみたいだ。
気持ちがよかった。日にちが限られているからかもしれない。しかし、それでも、その間に、自分を見つめられる。しかも、自分を責めることなく。

さて、
その撮った複数の写真を見て、「Homeland」という言葉が浮かんだ。特に、鉄道の写真。
緑が豊かだが、同時に、雲はたれ込めている。決して、のんきではない。写真の画面とは、「鏡」のようなものだ。shootされているのは、私自身。watching at me.




ホームランド。微妙な言葉だ。やばい、ニュアンスも感じる。なにせ、たんに、翻訳すると「故郷」になってしまう。そこは私の「故郷」ではないし、だいたい、私には「故郷」がない。
こういうとき、翻訳は、便宜上だけ。言葉の深いニュアンスは消えている。
しかも、この、カタカナはあんまりきれいではない。

「ホーム」とは、「横たわる場所」という意味があるらしい。または、「本来の場所」。「ランド」は、まずは、「陸」の意味だが、スエーデン語では、ただの陸ではなくて、「窪地」という意味もあるらしい。「ホームタウン」という言葉のように、人によって作られた場所ではなく、自然の場所、であることを意識したい。動物としての自分を思い出してみる。無理なんだけどね。想像する。
ふと、そこに現れた、みずたまりのような、場所。目をそらしたら、もう消えているかもしれない。しかし、それは、確かに、出現する。

これは、私からの提案。

世界中どこでも、私たちがその気になれば、その瞬間、その場所が、私の(あなたの)「ホームランド」になる。そのような、感覚を持つこと。「くつろぐ」ところかもしれないが、「自分が何ものか、考えるための」あるいは「目を開く」場所として、「ホームランド」という言葉。それは「生きている根拠」でもあるし、「それでいけ」という声でもいい。
場所の占有、場所の主張権、それによる対立、の世界への抵抗、の意味はあると思う。


その名前の場所。
声を出して言わなくてもいい。鼻の奥だけで、唱える。「フーフフンフ。」
音は、心の中で、出せばよい。


「還るところ」ではない。「裂け目」としてのホーム。
どんな瞬間でも、自分で、アクセスできる「裂け目」を、持つこと。それがあれば、怖くない。

そんなことを感じる機会になる冊子。
その「冊子」を持っていれば、その「裂け目」を開けるかもしれないと思える、魔法の(?)冊子を作りたいと思い、
今、
作ってる。
あくまで、表現されたものであり、実際の「ランド」ではないけれど、その気になれば、アートも、そうなれる。の可能性。




ゆっくり考える機会を与えてくれた、スタジオの持ち主、スーエンさん、本のデザインを引き受けてくれたグラフィックデザイナーの佐野佳子さん、翻訳してくれる予定の人、そして、その他、サポーターの方たち。写真を見て、「いいわね!」とびっくりしてくれた母へ。そして、それをプレゼントしたい人たちの顔が浮かぶ。



その気になれば、私にだって、そういう方たちが回りにいるんだという、幸運、に感謝しつつ。


もうすぐ!!





31.5.14

Stay longer in a forest

スエーデン滞在。


5月18日から28日まで、ディレクターでアーティストのSU-ENのスタジオのゲストハウスに住み込んでいた。


充実した良い時間だったと感じる。
Amlungeという、美術館からバスで車で、1時間くらいのところにある、ディレクターでアーティストのSU-ENのゲストハウスで、とてもとても静かに暮らした。自然を歩く事、観察すること、写真やビデオ、そして毎日毎日、一人で自炊して(都合上ベジタリアンになっていた)、一人で夜を過ごし(なんと22時半くらいまで明るい)、とても、充実した、ゆっくりの思索の時間だった。カメラはじっくり使った。露出やら、シャッター速度など、研究するいい機会だった。また、毎日、凸凹の地面を歩くのは、足に腰に心地よい。気温は30度を超す日もあれば、やっと6度という日もあり、体力調節も楽ではない。




秋からまた忙しくなる。9月にシンガポールと中国。10月に再び、スエーデンに行く。それは、日本のアーティストを紹介する、展覧会なので、作品の準備が必要。美術輸送で送るなんて、初めて。他のアーティストさんらの一緒に、とあるMプロダクションさんがまとめてくださる。

今後のパフォーマンスについては、ちょっとしたプランがある。森でかたつむりを見ていたら、思いついた。いやいや、思いつきではなくて、時間がかかる方法なんだが、今やらず、いつやる?的な件。

まずは、今回の旅にサポートしてくださった財団への報告書。ちょっとした印刷物をつくるプラン。どんどんやる。


わたしの回りにはわたししか、アーティストはいない。

3.5.14

Reading Cinema, Finding Words: 映画をめぐる美術展など



映画をめぐる美術―マルセル・ブロータースから始める展、見た。@東京近代美術館。
アートのことで、鬱々している時には、気分転換に別のこと(たとえば、海を見る)をするのではなくて、やはり、よいアートを見るのが一番である、と私は思った。
かなり〜、面白かったなあ。

「いろいろな方法があるのだ」と、頭をうきうきさせてくれた。「こうでなくてはならない」のではないか?と思うようなことから解放される。自分のやっていることを許せるし、落ち着くし、そして、勇気づけられる。
展示の方法も、工夫があった。6つの分類。
もっと時間を作って行かないと、まるまるは見られないけど。とはいえ、まるまる見なくてもよい、というのが、美術系映像なんではないかとも、思う。





以下は、道すがら、撮った写真。



写真の構図がスクエアだと、
スクエアや丸いものを撮りたくなるみたいだ。



ニコライ堂の夕暮れ。


21.4.14

コミュニティ発酵→極私的領域

以下は、2007年の私の名作! 今、見ても楽しいです。ぜひ、見てみてください。
この時あたりから、複数人で何かやるのが好きでした。パフォーマンスも楽しかったけど、Youtubeにアップしたら、たくさんの方が見てくださいました。
以下のは、さっきVimeoにアップし直しました。前より、少し、映像のクオリティにきれいなやつ。
このような作品を国内でもやりたくて、いろいろな方たちにご相談しましたが、かなわないうちに、7年が経ってしまいました。クロアチアでは、少しやりました。


We Are Elegant 2007 edited version from Sakiko Yamaoka on Vimeo.

少し仲間のいるイベントでは以下のような、のんきで、社会批評的な作品「パブリックサービスセンター」というのもやりました。2012年です。



ところが、去年あたりから少しずつ.......
パーソナルなことに興味が出てきました。
結局のところ、イベントに誘われていなければ、私はひとりで作業していますから、コミュニティの感覚がないんですよね。パブリックスペースに出ると一人で歩いているし、人に会っても2〜3人でしょう?こうなるのは、当然の帰結かもしれません。
誰かに向けられる個人の視線、に興味を持ち、以下のような作品を作り始めました。4つ作りました。2〜4人ずつ(計9人)の友人に協力いただいて、「視線」をテーマにショートムービーを作ったのです。楽しかった。記憶と妄想が混じり合います。自分で出たかったけど、撮影がかなり大事になっていくるので、演じるのは、他の方にやっていただきました。感謝。
発表は今のところ、ブラジルでしただけです。
今年の10月にスエーデンで発表することが決まりました。(ぱちぱち)
ちなみに、サウンドも効果音も環境音も省いております。文字通り、moving imagesです。



そして、そして、今はもっともっと、極私的な空間に興味があります。2人でもなく、たった、一人の空間。それは絵画。


ちょっと、気味の悪い絵ですが。
それでも、投票用紙、という体裁で、パブリックとのつながりを残しております。小さな絵なので、皆さんは、近眼よろしく、近づいて見るはめになります。美術館にど〜んとある大きな絵みたいに、「ひいて」みんなで見る、というような絵ではありません。

あるいは、馬鹿みたいな絵。実は描いたのは3年くらい前です。



パフォーマンスをする機会に恵まれても、もう、大きな目をあけて、きょろきょろしない方が、面白いかしら、と思っています。だから、狭い穴から見ることを、皆様にも求めてしまいます。大きな目を開けると、いや〜なことも入ってきてしまいます。


などです。

どんな風に展開するのでしょうか。