27.2.10

梅は咲いたか桜はまだかいな

今日は、確定申告を史上最短の時間で書けた。うれしい。

あした四十九日。(七七日と書くのが正しいのかな)
お供えに、エビスビールと柿とはっさくとシュークリームとミルクチョコレート。トンカツが好物だったけど、お供えにはちょっと。夜に食べるか?

ご本尊として描いた絵を添付します。あした、魂入れです。でも、季節ごとに替えたら?と家族は言っております。
因に、戒名も父の自家製。5年くらい前に作りました。9文字のって、お寺に作ってもらうととても高いそうです。友達の友達にお坊さんがいて「戒名を自家製するってどうでしょう?」と聞いたらみたら、怒り出してしまいました。でも、ご本尊は、仏壇屋さんに聞いてところ、自家製でもいいのですって、言ってました。魂入れにかかる費用は、戒名にかかる費用とくらべたら、ずっとリーズナブルで、わたしのパフォーマンスの海外でのギャラの竹コースくらいだから、納得できました。今回のお坊さんは、市内の「大連寺」というところの副住職さんです。霊園の係の人が「副住職さんでも、ちゃんと、お経を読めますから、安心してくださいね」と言っていました。いろいろじゃな〜。今後、どのお経を読めばいいか、聞いておいて、わたしが読むつもりにしています(高校が浄土真宗系だったので、お経は読み慣れてます)。

戒名は川柳。本尊は絵画。お経はパフォーマンス。なんだ、うちでやれちゃうんじゃん。後は、仏壇をつくったり、お墓を作ってくれる彫刻家がいればよいです。お墓の表面の図柄のデザインはわたしがしました。あした、写真とってこ。


ではここで、記念に父の名句をひとつ。



湧き水のゆらぎは神の囁きか


25.2.10

都内の場所

数日ぶりに、へちまそブログにだけの日記。mixiからも来ない。

ここでは、ぼそぼそとしよう。

父の闘病1年が終わり、父がいなくなって、日常が戻ってみたら、日常が変わっていた。

中学生の甥が、高校受験の神様として父にお祈りして、合格したそうです。まだ、四十九日も来ておらず、成仏前なんですけどね。
今度の日曜がその法事です。

パフォーマンスを春までに屋外でしたいです。(このくそ寒いうちに)
チェスの駒を使った1時間から2時間の長めのパフォーマンス。今のイメージでは、寺や神社の入り口を入ったあたりとか、その脇とか。もしかして、能舞台上とか。
少し、歩いて探してみましょうか。都内の、ちょっと、忘れがちな場所で。広すぎず、風のないところ。川で言えば、瀬ではなくて、淵みたいな所。静かな場所。パフォーマンスを見ようかな、と思ってくださる方が、そこなら、行ってみたし、と思うような所。芽吹き始めた、木々なども、眺めることもできるような場所。

タイトルをやっと決めました。Blind Gameです。

おすすめが、あったら、教えてください。


24.2.10

経糸、緯糸

Art iTへリンク





ゆらぎや幻の感覚

Art iTへのリンク


この形式で、ブログを書き続けるかどうか、決めてません。テスト中です。すみませんが、おつきあいください。



22.2.10

Art iTのブログとリンクしました。

グーグルブログとリンクしました


上の色の違う字をクリックしていただくとArt Itのあたしのブログのページに行けます。たぶん、会員になってなくても、見られるんではないかな。ちょいとわからん。アクセスが増えれば、Art Itが儲かるシステムなんでありましょう(笑)。でも、アクセス件数がわかるし、mixiより公共性があるのでいいみたい。「アートに関心のある人々一般」に開かれている。しかも、現代美術系。

最近、「リンク」にはまっている私です。やりすぎになるかもしれない.........

今後は、Art Itに書くたびに、こちらのページにリンクが表れます。といっても、Twitterみたいに、その文章そのものが出てきたりはしないのね。それから、Art Itの方のブログには、こちらのは表れないみたいです。

どう書き分けたらいいのか、わからないので、Art Itの方は、ずっとほったらかしていました。リンクの可能性を思いついて、久しぶりにアクセスしてみた、というわけ。あちらには、美術展やArt It内のインタビュウなどの、感想を書こうかな。

こんなことしていて、何かになるのか、ただの時間つぶしなのか、不明であるが、やってみよう。
まあ、そういう暇があればの話ですけど。

(因に、mixiとはつながってます、ずっと前から。あっちから、こっちへ来れる)



21.2.10

魂と犬

Twitterをこのブログにリンクしました。 英語で書いている理由は、Facebookとリンクしているからです。Facebookの友達の95パーセントまでが、外国人だから。
ところで、あまりに簡単にリンクできて、怖かったです。これまでの私の感覚だと、リンクのためには、どちらかに、どちらかのURLを入力しなくてはならなかった。ところが、Twitterの設定の中で、ブログにリンクを貼る、というページに行ったとたん、もうすでに、こちらの素性がバレている。というか、もう準備オーライだったわけ。Googleのブログを使っていることを知っていて(つまりGメールアドレスを持っている)、Googleマークをクリックするだけになっているのだ。つまり、わたしのアドレスは、もうわたしの「顔」そのものになっていて、出歩いているので、「あなたのことは、存じ上げていますよ」というわけ。
セカンドライフというのがあったが(今もあるのね、きっと)、そんなところのサイトに入らなくても、もうすでに、セカンドライフになっているのを感じました。つまり、このインターフェイスのこちら側の心の動きに関係なく、ネット上でわたしが表した「表情」がそのパーソナリティとなって、勝手に生きている、そういう感じ。

今日は、そのtwitterに書いたとおり、うちの仏壇のご本尊を描いている。それに、来週、お坊さんが、魂入れのパフォーマンスをするので。絵は、パソコンで描いているの?と時々聞かれる。まさか。えんぴつで描いて、和紙か水彩紙を焦がします。お坊さんのパフォーマンスは、勿論、お経。人間のパフォが一番、かっこいいのだ。


なかなか辛そうなlifeの犬。台湾の海の近くの町で。

20.2.10

日常と内側

去年の7月に入ったまま、ほったらかしていたtwitterを思い出して、書き込んでみた。それから、それを、FacebookとLinkedInに、リンク。「友人の意外な日常を知ることができます」ということらしい。知らないうちに、意外な人が、わたしをフォローしているのに、気がついた。(フォローと言うからには、これは散歩のようなものらしい)これから、何が生まれるのか、もう少し、他人をフォローしてみないとわからない。でも、暇ではないとやれないんとちゃう?

10年前に出版された「情報デザイン学」といった本を、最近目を通して、とても楽しかった。10年前のわくわく感が伝わってくる。10年経っているので、もっと進んでいることもあるし、期待したほど進んでないものもある。「ユーザー」と「デザイナー」の境界がなくなるというのも、そう夢のようにはなってはおらず、せいぜい、ユーザーがデザインに参加することになった程度ではないかな。デザインしたりプロバイドする側は、あくまで利益を求めるし、使う側はあくまで「道具」または「娯楽」の感覚なんだと思う。どうでしょう? 
もっと勉強が必要かな。
わたしは、変わりゆく、身体感覚に関心がある。
一方、19世紀に書かれた経済学が今も有効である、といった、話も面白い。

私は10年ちょい前にインターネットをはじめた。e-mail に書き込みすぎることによる、礼儀やら問題やら誤解やらの配慮や作法の議論や工夫が、一通り終わったのが、わたしの感じでは、2005年くらいではないかな。mixiでも、最初はわたしもつい個人的な思いを書きすぎて、しくじった。私としては、外ブログを使うようになって、意識に公共性が増して随分、書きやすくなった。mixiで知り合える人には、限界がある。その後、面倒なMLからは手を引くなど、関係性の整理をして、今は、ネット利用は極めてクール。この間に、わたしの中のセンスとして大きく変わったのと感じるのは、自我意識。

自分の内側の奥に何やら、があるとは、感じないようになった。言葉も文章も、多くの人が使っているものを、利用しているのすぎない。ネタを明かせば、柄谷行人「近代日本文学の起源」に、影響を受けたのだけど、それは、ネット会話によって、余計に促進されたと思う。
なので、twitterに書く事は、出来事程度ということになる。自分の内側に、自分の内面がある、というのは、フィクションにすぎない、と感じるようになって、久しい。
ゲーテは言っている。「己を知れだと? もし、自分のことを知ったら、逃げ出すだろう」
これは、いくつもの意味にとれる。

自分のことと言えば、まあ、適性と言ったくらいのことは、知った方がいい、という程度ではないかな。
あるいは、他人に迷惑のかかる癖、といったことは、認識しておいた方がいいです。(まわりの他人は、いやほど、知っている)

自分だけが感じていることなどに、意味があるのだろうか? そういうことを大事にするのが、アートだったのかもしれないけど、それって、余計、孤独になるじゃない? 孤独がいやかどうかも、また問題。時間的には、孤独な時間はとても好きなんだけど、制作したものが孤独になるのは、どうでしょう? 普遍と個性の話をまだ、整理しきれない。唯一の場所としての、個人ってのは、どうなのよ、と思う。ノットとしての、個人はわかる。だが、それは、他とのつながりがあってこそでしょう? 個人とは、他者との関係性の束である、とキルケゴール(だったっけ)も言っておる。....... この辺が、実は、まだ解決がつかない。わたし、馬鹿でしょうか。

インターネットを使ったコミュニケーションは、費用が安くすむという事以上は、あまり、考えていなかった。だが、そのことの替わりに、何が、おこっているのか? 


17.2.10

対話はできたか(1)

対話展終了。

ところで、肝心の「対話」がどうだったか、学生さんたちと検証したいけど、わたしは「先生」ではないので、そこまではやらない。ていうか、そういうことを、話さないタイプみたいで、皆さんは。

対話という言葉は、もちろん、あえて、選んだ。どうしても、折り合わない二つの陣営が、和解のために、努力していくために、「とめてはならない」ものとして。もう1つの理由は、マルティン・ブーバーの著作(ユダヤ人だ)から。完読してないけど、読んだよ。

わたしは、そういう機会をつくるだけ。牛を連れて行くみたいなことはしない。無理強いしたって、無理だ。「わからない」からとそこまでにする人と、「わからない」から頭からつっこんでいく人とあって、そのどっちが、のびていくかってのは、自分の経験と、これまで、わたしの出会って来た人たちの人生を横目で見ていれば、それはわかる。言うまでも、ないのだ。今から、完成していて、どうする。わたしだって、のびざかりだ。

それから、私は、もちろん、イスラエルという国の若者の芸術家について、ほんの一部であるけれど、知ることができた。コンセプトの立て方など、優等生だと思う。学校ではちゃんとアートを教えているらしい。結局、アートっぽいことで、遊んでいるだけなんだなという人もいれば、かなり、頑固に取り組んでいる、興味深い人もいた。私から見て、興味深いのは、やはり、身体・社会・政治というテーマを自分の内側に入れて、アートという手法とのバランスを、自分自身の手探りで取っているアーティスト。社会的なこととの関係を、固定してしまった時、とっても、ベタなものになるからね。フレキシブルな人は、共感ができるし、私の作品も見て欲しいと思える。

イスラエルという国の中で、アーティストが行うことが、どう、許されていたり、期待されていたり、敬遠されたりしているのか、その度合いは、今のところまだ、わからないが、これは、今後のつきあいで、知っていきたい。今年中に、一度行きたい。ある種のやり方で、コントロールしているらしい、から。

単に、芸人として、アーティストが求められている、日本のパブリックな状況に、対して、わたしは、どう、スタンスを構えていけるのか。ムラカミ君(ハルキではなくてヒロシ)が心配しても、わたしも銃を持ちたくなるのか(笑)、そうではなくて、何か、ピースフルで、しなやかな戦略があるのか。それを行って行くために自身の力をつけつつ、仲間を見つけていく、経験のある人の話を聞く、力も借りる。アーティストイニシアティブというのは、夢なのか、実現すべきことなのか、私には無理な相談なのか。どげんでしょか。

上から、マヤゲルフマンの詩を自分の詩の言葉に置き換えて、リーディングパフォーマンスをした長尾日和さん。テルアビブのカフェのおしゃべりの録音に妄想参加している後藤君。銃の形の自家製のパンを必死で食べているムラカミヒロシ君。女性が銃を持つことを理解するためには、まずは食べてしまおうと思ったそうだ。その下、鈴木萠さんがLiorというパフォーマンスのアーティストの作品を紹介するためのカードを色とりどりに作ったもの。拡大して見てみださい。その下は、Iritのパフォーマンスの映像展示、担当は後藤君と磯君。その下の2枚は、丹下さん、畑江さんチームで、NavvaとAnatの平面昨品。こちら、拡大してくださいね。







16.2.10

C&M 広報記録

広報です。

日本イスラエル親善協会
(今見たら、なくなっていました。終わったから?)

Take Art Eazy


他、様々な人が、mixiやブログに書いてくださっています。感謝。
その方々のブログから写真を(勝手に)頂戴いたしております。ありがとうございます。以下の写真は、浅野幸彦さんです。
浅野幸彦さんのブログ。数日前にもあります。

緒方敏明さんのmixi ブログにも(mixi友のみアクセス可能)。数日間つづけてコメントあります。


15.2.10

ヒロシに告ぐ

あしたは、Cannons and Musesのパフォーマンスの日。

パフォーマンスアートは、技巧である前に、思想がなりより大事なのである。それに気がついている、Cannons and Musesのメンバーに誇りを持ちます。
でも、アーティストとして、やりとげなくてはならないことがあります。
自分たちを、外の、社会から来た人々に、自分たちの存在意義をアピールすること。
しかも、アートの力によって、アピールすること。

パフォーマンスは、その間に、死んでもいい、くらいのエネルギーでやらなくては、絶対に、他人に伝わらない。
イベント初日に、ムラカミヒロシ君が、銃の形をしたパン、予測よりずっと、固くて食べにくいでかい自家製パン一個を、40分かけて、食べ尽くしたエネルギーを私は評価します。お腹が痛くて、苦しんでいた。

それは、イスラエルのニスリーンという女性のアーティストへのオマージュでした。
彼女が、武器をアニメーションのイメージのメインにしているのを見て、ショックを受けたのだったね。だから、銃の形のパンを作った。

女性が、武器を、考えなくてはならない世界に対して、極東の非力な若者ができることって、なんだ?


以下は、ムラカミ君に、わたしが書いたメール。

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わたしは、あなたが必死ででパンを食べるパフォーマンスをして欲しい。
彼女が、武器を考えなければならないように、シチュエーションに対し、
極東の男の子が、なんとかしたいと思い、非力を承知で、何かを起こそうとした事自体が、
とても、心を打つ。

そのことは、1回のパフォーマンスでは終わらない。

日本とイスラエル、と言う関係ではなくて、
女子と男子と言う関係で、
思う、ところが、今回は新鮮でした。

Cannons and Muses テルアビブのアディーナにも、プレムにも知らせたけど、あなたが、苦しんで食べたことが何より、大事なのです。
バターを使ってもいいから、食べ尽くしてください。