30.9.14
note
あと、1週間で私はスエーデンのマルメ市に発つことになっている。スエーデンでは3番目に大きな都市で、デンマークのコペンハーゲンに近い港町で、外国人の移住者がとても多いそうだ。ムスリムが人口の25パーセントというのには、驚く。どんな町なのか、とても楽しみだ。
展示する作品はもう送ってあり、あとはオープニングに行なうパフォーマンスと、2週間の間に5回もあるアーティストトークの準備を考えている。トークのテーマは、基本的に、参加アーティストの自分の作品についてであるけれど、それとともに、私たちは、震災以後の変化、という質問に答えることになっている。なにせ、今回は、日本のアートを紹介する展覧会なのだ。
展示する作品はもう送ってあり、あとはオープニングに行なうパフォーマンスと、2週間の間に5回もあるアーティストトークの準備を考えている。トークのテーマは、基本的に、参加アーティストの自分の作品についてであるけれど、それとともに、私たちは、震災以後の変化、という質問に答えることになっている。なにせ、今回は、日本のアートを紹介する展覧会なのだ。
誰にとっても、3.11以後というには、一言では言えない苦渋の出来事や思いがある。それの、どの部分を、私が、プレゼンしたらいいのかと今、考えている。
正直言って、震災1年後に参加したストックホルムでのパフォーマンスアートフェスでは、彼等は日本の問題にはほとんど興味がないのだなと感じた。日本は、世界であまり同情されないし、なにしろ経済的政治的プレゼンスが低いんだから、しょうがない、とその時は思った。
それにしても、今月のシンガポールでも、欧米やシンガポールの私の世代以上のアーティストたちは、比較的文化的にリッチな環境にいるので、作品において、安定した美学を究める方向にいるように思った。それはそれで、興味深く鑑賞することができたが、私は、私が住んでいる世界が、そういうところではいられない、ジレンマに満ちていると感じているので、私は、そのことを作品に反映させざるを得ない。今回は、抽象度が高かったせいか、私の提示したことを、直接受け取れる観客は少なからず、いた。
にしても、他の多くの観客のためには、目に見えていることの、バックグランドにあるものの、紹介や展覧会の要点の解説は必要だろう。それは、キュレーターにしかできない。実際、パフォーマンスアートフェスには、それがちょっと足りない。シンガポールでは、それを埋め合わせるためにか、各アーティストにライターが付いた。私には、ありがたいことに、日系のアメリカ人女性が関わってくれて、いろいろと話し合うことができた。しかし、その記述が公的になるのは、パンフレットが出てからなのである。
正直言って、震災1年後に参加したストックホルムでのパフォーマンスアートフェスでは、彼等は日本の問題にはほとんど興味がないのだなと感じた。日本は、世界であまり同情されないし、なにしろ経済的政治的プレゼンスが低いんだから、しょうがない、とその時は思った。
それにしても、今月のシンガポールでも、欧米やシンガポールの私の世代以上のアーティストたちは、比較的文化的にリッチな環境にいるので、作品において、安定した美学を究める方向にいるように思った。それはそれで、興味深く鑑賞することができたが、私は、私が住んでいる世界が、そういうところではいられない、ジレンマに満ちていると感じているので、私は、そのことを作品に反映させざるを得ない。今回は、抽象度が高かったせいか、私の提示したことを、直接受け取れる観客は少なからず、いた。
にしても、他の多くの観客のためには、目に見えていることの、バックグランドにあるものの、紹介や展覧会の要点の解説は必要だろう。それは、キュレーターにしかできない。実際、パフォーマンスアートフェスには、それがちょっと足りない。シンガポールでは、それを埋め合わせるためにか、各アーティストにライターが付いた。私には、ありがたいことに、日系のアメリカ人女性が関わってくれて、いろいろと話し合うことができた。しかし、その記述が公的になるのは、パンフレットが出てからなのである。
23.8.14
20.8.14
地球という玉と、ひとりで向かう
では、「推移」というイメージのために、何を挑むか。
今、9月のイベントのために、「Relocation(移転)」と、「White Clothes(白い服)」というタイトルの2つのパフォーマンスを考えている。
「Relocation」は、シンガポールで行う。移民の国であることを少し意識している。家具のセットを移動する、6時間かけて、ギャラリーの端の角から、もう反対側の角まで、移す。
中国で行なう「白い服」の方は、まだ、考え中な部分が大きい。とりあえず、白い服を着る。近代以前は、極東では、結婚式だけでなく、葬儀も白だった。靴も白にしよう。それから、個人が使っていた食器を葬儀の際に壊すという、日本の風習。また、嫁入りの際に壊す場合もあったらしい。あるステージから別のステージに変る時に、日常的に使っていた食器(身体をつくるためのものだ)を壊し、別の世界に突入させる。カラフルな中国のどんぶりを使いたい。(中国ではそういう習慣はないみたいだが)
はっ、白い服買ってこなくては。
きのうは、MOTの2つと銀座の2つの展覧会を見た。
展覧会を見て、その自分の反応を感じると、自分の特徴がよくわかる。それから、今日のように自分の発表が近い時には、他の方々の作品を見ながら、自分の作品を考える。考え方の流れを、他のアーティストの脳や作品を借りて、試してみる。なかなか良い経験だ。
MOTから銀座まで、友人が車で送ってくれた。その時に、見た、東京の橋たち。その印象も今日は私の頭に残っている。網膜ではなくて、身体全体で記憶する。橋は、どこか、身体に似ている。
ところで、より個人的な「インディビジュアル」な感覚に関心がある。それは、語り、によって表されない。言葉になってはいけない。物語になってしまうとそれはまた別の作り物になる。しかも「言葉」は、何か、真実に近いのではないかと、人は誤解するから。
より、ミステリアスなこと。未踏の領域。目や態度に表れていること。目で、空気で感じられる状況。誰かの態度が突然、きらきらするとしたら、それはどんな時か。
ビジュアルアートは、言葉のように「わかられたり」しなくて、たかが作り物、と言うところが良い。(それもまた、権力的になっちゃうんだけどね、へたすると)
私の、これからのパフォーマンスは、あまり「参加型」ではない。しばらく「集団」の身体に興味があったが、私自身でそれを組織できないことが気にかかるようになった。自分の身体だけで、やってみたい。
今の興味は...... 「丸い地球」と対峙できる、玉のような身体感覚を持つこと(夢はでかい)。磨いたら、なるんではないかと思う。
今、9月のイベントのために、「Relocation(移転)」と、「White Clothes(白い服)」というタイトルの2つのパフォーマンスを考えている。
「Relocation」は、シンガポールで行う。移民の国であることを少し意識している。家具のセットを移動する、6時間かけて、ギャラリーの端の角から、もう反対側の角まで、移す。
中国で行なう「白い服」の方は、まだ、考え中な部分が大きい。とりあえず、白い服を着る。近代以前は、極東では、結婚式だけでなく、葬儀も白だった。靴も白にしよう。それから、個人が使っていた食器を葬儀の際に壊すという、日本の風習。また、嫁入りの際に壊す場合もあったらしい。あるステージから別のステージに変る時に、日常的に使っていた食器(身体をつくるためのものだ)を壊し、別の世界に突入させる。カラフルな中国のどんぶりを使いたい。(中国ではそういう習慣はないみたいだが)
はっ、白い服買ってこなくては。
きのうは、MOTの2つと銀座の2つの展覧会を見た。
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| 銀座4丁目の交差点、日産のビルが今、工事中なので、背後のビルがよく見える。ビル裏はセクシーなのだ。 |
MOTから銀座まで、友人が車で送ってくれた。その時に、見た、東京の橋たち。その印象も今日は私の頭に残っている。網膜ではなくて、身体全体で記憶する。橋は、どこか、身体に似ている。
ところで、より個人的な「インディビジュアル」な感覚に関心がある。それは、語り、によって表されない。言葉になってはいけない。物語になってしまうとそれはまた別の作り物になる。しかも「言葉」は、何か、真実に近いのではないかと、人は誤解するから。
より、ミステリアスなこと。未踏の領域。目や態度に表れていること。目で、空気で感じられる状況。誰かの態度が突然、きらきらするとしたら、それはどんな時か。
ビジュアルアートは、言葉のように「わかられたり」しなくて、たかが作り物、と言うところが良い。(それもまた、権力的になっちゃうんだけどね、へたすると)
私の、これからのパフォーマンスは、あまり「参加型」ではない。しばらく「集団」の身体に興味があったが、私自身でそれを組織できないことが気にかかるようになった。自分の身体だけで、やってみたい。
今の興味は...... 「丸い地球」と対峙できる、玉のような身体感覚を持つこと(夢はでかい)。磨いたら、なるんではないかと思う。
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| MOT(現代美術館)は現在、キッズ向けのイベント目白押し。ロビーでくつろぎ過ぎの、バルティスな少女たち。 |
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| 撮ってもいいか、アイコンタクトで承諾をとった。どこか、ポーズをとっているような。 |
10.8.14
推移を見つめること
9月、10月と、海外でのイベントが続く。シンガポールで1回の6時間のデュレーションパフォーマンス、北京と済南市で1回ずつショートもの。10月はスエーデンのマルモという都市で、展覧会。無人島プロダクションのアーティストたちや、奥村雄樹さんらとともに、展示する。パフォーマンスもオープニングにする。
それらのテーマは、「推移」。具体的にもだいたい決まっている。材料を揃えつつあるところだ。
なぜ、それが今、私のテーマか、話したい。
この1年くらい、身体の急速な変化に驚いている。白髪が増え、筋肉と脂肪が下がり、物事を考えるのにこだわりから抜けにくく、なんかの勘違いが多くなった(前からそうだったけど。)話し方もおかしい。人は、それらを更年期障害だとか、よぶ。
<目玉問題>
たとえば、面倒くさい目玉問題。もともと、ど近眼である。裸眼だと、かなり近いものが見える。しかし、眼鏡をかけると見えない。近眼の老眼である。随時、都合に合わせて眼鏡を作っているうちに、種類が増えてしまった。読書用の眼鏡と、パソコンと生活用の眼鏡と、外出用の遠近両用眼鏡と、スポーツジム用眼鏡など。
老化は急激だが、実のところ「推移」はいつだって起きていたのだ。きのうと、今日の違いは、誰にでもあるように。一見、当たり前のことだが、とてもとてもミステリアスだ。
それらのテーマは、「推移」。具体的にもだいたい決まっている。材料を揃えつつあるところだ。
なぜ、それが今、私のテーマか、話したい。
<目玉問題>
たとえば、面倒くさい目玉問題。もともと、ど近眼である。裸眼だと、かなり近いものが見える。しかし、眼鏡をかけると見えない。近眼の老眼である。随時、都合に合わせて眼鏡を作っているうちに、種類が増えてしまった。読書用の眼鏡と、パソコンと生活用の眼鏡と、外出用の遠近両用眼鏡と、スポーツジム用眼鏡など。
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| ずらり |
自分の身体への感覚が、ものすごく変ってしまった。この身体はなんなんだ?それを、このところずっと考えて来た。わからないから、保留。ベッドにごろり。わかるまで放置することにした。
<推移をみつめること>
そして、はた、と気がついた。
「それ」だ。
変化をウオッチすること。自分の目や感覚で、観察、凝視、感じながら、その変化を見ること。壊れてゆく身体と、抵抗とケアの効果の「攻防戦」を眺めること。
老化は急激だが、実のところ「推移」はいつだって起きていたのだ。きのうと、今日の違いは、誰にでもあるように。一見、当たり前のことだが、とてもとてもミステリアスだ。
9.7.14
暴力は自分に向かっている、それで良い。
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| 私の部屋の伝教大師像 |
自分の気分がやりたくないことを、無理にやらせようとする。
私はそういうことをする。皆さんもするよね。
私の身体は猛烈に反発する。
あなたもそうですか?
今は、相性の悪い分野の人たちが書いた資料を読もうとしていて、身体がいやがる。でも、私は知りたいのだ。頭が知りたがっている。
..... 頭と身体、という分類も私は怪しいと思っている。
何と、何の、対決なのか、わからないけど。
身体がぴくぴくして、落ち着かなかったり、寝ているしかないくらい、「落ちた」感じになったりする。
でも、やるぜ。
私は割と暴力的な方なので、それが外に出る時と、内に行くことがある。
去年くらいまでは、外にも随分行ってたし、それはトラブルも生んだ。
そして、それを楽しんでくれる人もいる。
その頃の作品を見て、私に依頼してくれている人もいて、しかし。
このごろは、
その暴力が内側に向かっているので、
作品は一見、外からは、ソフトになったように見えているかもしれない。
「その頃の作品を見て、私に依頼してくれている人」は、私の最近の作品を見て、変わったと言ってた。
だが、彼の存在に感謝している。
私がそのことを忘れないために。
たぶん、
人は変われないから。
このごろ、私は私を責める。
「森」での生活で、ちょっと、癒されたふりをしてみた。
いや、癒されたのではなくて、懐を深くしてきたのさ。
だから、こうやって、また、自分をいじめ始めている状況に、たじろかない。
ゆっくり、
それが成熟するのを待っている。
作っているフォトブックのタイトルを、Walk to the lakeに換えた。この方が、詩的だし、一応、パフォーマンスアーティストとしては、動詞、の入っているタイトルの方がいい。
あとは、
運だぜ。
28.6.14
Photo and Essay の本をつくってる
ところで..... この1〜2年くらい私は、鬱になってた。知ってました? 若いころ、「わたし落ち込んでるの」なんて言っていたことなんて、お笑い、なぐらい、鬱って言うのがあるんだと言うことがわかった。人は、それを更年期障害と言うかもしれない。
そんなのどっちでもいい。
今は、落ち着いている。どうやら、単に、日本の社会が狭くなってきただけの話だと気がついた。特に震災以後。つまり、私の問題だけではない。
私より、強い心を持っている人や、たまたま動きやすいところにいる人たちは、なんとか、なっているだけで、誰にとっても、生きにくい社会になっているのだと思う。
私は、自分が、からっぽのペットボトルのように無価値に感じることがしばしばだった。
ところで、今は、すがすがしい感じで、アートブックの準備をしている。
タイトルは「ホームランド」。写真とエッセイで構成される。小さな冊子だ。
私は、幸運にも、5月に参加した、スエーデンでのパフォーマンスフェスの参加後、そのキュレーターのスーエンさん(アーティストでもある)が、彼女のスタジオのゲストハウスに、しばらく滞在して良いよ、と言ってくれた。それを、私は勝手に、はやり言葉の「アーティストインレジデンス」と呼び、10日間だけだが、滞在した。
森の中。隣の家に行くには、車で5分かかる。
でも、プランはなし。そこに、滞在してみただけだ。なんにもしない、と決めて、自分が何をしたくなるか、試してみた。
初日に、スーエンに森を案内してもらったが、カメラなどを持って行く気にならなかった。写真を撮ることは、shootという。つまり、武器なのだ。自分が、それをする必要も感じないまま、習慣的にshootはできない。
このごろの私は、町を歩いていて、おもしろげなものがあると、iPhoneで、すぐ撮っていた。iPhoneでは、Shootの感じはしない。でも、実はそれは同じなんではないかな。
インターネットもほとんどしてない。
あれほど、他者との関わりを求めて、イベントを催したり、SNSに頻繁に投稿していたのがウソみたいだ。
気持ちがよかった。日にちが限られているからかもしれない。しかし、それでも、その間に、自分を見つめられる。しかも、自分を責めることなく。
さて、
その撮った複数の写真を見て、「Homeland」という言葉が浮かんだ。特に、鉄道の写真。
緑が豊かだが、同時に、雲はたれ込めている。決して、のんきではない。写真の画面とは、「鏡」のようなものだ。shootされているのは、私自身。watching at me.
ホームランド。微妙な言葉だ。やばい、ニュアンスも感じる。なにせ、たんに、翻訳すると「故郷」になってしまう。そこは私の「故郷」ではないし、だいたい、私には「故郷」がない。
こういうとき、翻訳は、便宜上だけ。言葉の深いニュアンスは消えている。
しかも、この、カタカナはあんまりきれいではない。
「ホーム」とは、「横たわる場所」という意味があるらしい。または、「本来の場所」。「ランド」は、まずは、「陸」の意味だが、スエーデン語では、ただの陸ではなくて、「窪地」という意味もあるらしい。「ホームタウン」という言葉のように、人によって作られた場所ではなく、自然の場所、であることを意識したい。動物としての自分を思い出してみる。無理なんだけどね。想像する。
ふと、そこに現れた、みずたまりのような、場所。目をそらしたら、もう消えているかもしれない。しかし、それは、確かに、出現する。
これは、私からの提案。
世界中どこでも、私たちがその気になれば、その瞬間、その場所が、私の(あなたの)「ホームランド」になる。そのような、感覚を持つこと。「くつろぐ」ところかもしれないが、「自分が何ものか、考えるための」あるいは「目を開く」場所として、「ホームランド」という言葉。それは「生きている根拠」でもあるし、「それでいけ」という声でもいい。
場所の占有、場所の主張権、それによる対立、の世界への抵抗、の意味はあると思う。
その名前の場所。
声を出して言わなくてもいい。鼻の奥だけで、唱える。「フーフフンフ。」
音は、心の中で、出せばよい。
「還るところ」ではない。「裂け目」としてのホーム。
どんな瞬間でも、自分で、アクセスできる「裂け目」を、持つこと。それがあれば、怖くない。
そんなことを感じる機会になる冊子。
その「冊子」を持っていれば、その「裂け目」を開けるかもしれないと思える、魔法の(?)冊子を作りたいと思い、
今、
作ってる。
あくまで、表現されたものであり、実際の「ランド」ではないけれど、その気になれば、アートも、そうなれる。の可能性。
ゆっくり考える機会を与えてくれた、スタジオの持ち主、スーエンさん、本のデザインを引き受けてくれたグラフィックデザイナーの佐野佳子さん、翻訳してくれる予定の人、そして、その他、サポーターの方たち。写真を見て、「いいわね!」とびっくりしてくれた母へ。そして、それをプレゼントしたい人たちの顔が浮かぶ。
その気になれば、私にだって、そういう方たちが回りにいるんだという、幸運、に感謝しつつ。
もうすぐ!!
31.5.14
Stay longer in a forest
スエーデン滞在。
5月18日から28日まで、ディレクターでアーティストのSU-ENのスタジオのゲストハウスに住み込んでいた。
充実した良い時間だったと感じる。
Amlungeという、美術館からバスで車で、1時間くらいのところにある、ディレクターでアーティストのSU-ENのゲストハウスで、とてもとても静かに暮らした。自然を歩く事、観察すること、写真やビデオ、そして毎日毎日、一人で自炊して(都合上ベジタリアンになっていた)、一人で夜を過ごし(なんと22時半くらいまで明るい)、とても、充実した、ゆっくりの思索の時間だった。カメラはじっくり使った。露出やら、シャッター速度など、研究するいい機会だった。また、毎日、凸凹の地面を歩くのは、足に腰に心地よい。気温は30度を超す日もあれば、やっと6度という日もあり、体力調節も楽ではない。
秋からまた忙しくなる。9月にシンガポールと中国。10月に再び、スエーデンに行く。それは、日本のアーティストを紹介する、展覧会なので、作品の準備が必要。美術輸送で送るなんて、初めて。他のアーティストさんらの一緒に、とあるMプロダクションさんがまとめてくださる。
今後のパフォーマンスについては、ちょっとしたプランがある。森でかたつむりを見ていたら、思いついた。いやいや、思いつきではなくて、時間がかかる方法なんだが、今やらず、いつやる?的な件。
まずは、今回の旅にサポートしてくださった財団への報告書。ちょっとした印刷物をつくるプラン。どんどんやる。
わたしの回りにはわたししか、アーティストはいない。
3.5.14
Reading Cinema, Finding Words: 映画をめぐる美術展など
映画をめぐる美術―マルセル・ブロータースから始める展、見た。@東京近代美術館。アートのことで、鬱々している時には、気分転換に別のこと(たとえば、海を見る)をするのではなくて、やはり、よいアートを見るのが一番である、と私は思った。
かなり〜、面白かったなあ。
「いろいろな方法があるのだ」と、頭をうきうきさせてくれた。「こうでなくてはならない」のではないか?と思うようなことから解放される。自分のやっていることを許せるし、落ち着くし、そして、勇気づけられる。
展示の方法も、工夫があった。6つの分類。
もっと時間を作って行かないと、まるまるは見られないけど。とはいえ、まるまる見なくてもよい、というのが、美術系映像なんではないかとも、思う。
以下は、道すがら、撮った写真。
写真の構図がスクエアだと、
スクエアや丸いものを撮りたくなるみたいだ。
ニコライ堂の夕暮れ。
21.4.14
コミュニティ発酵→極私的領域
以下は、2007年の私の名作! 今、見ても楽しいです。ぜひ、見てみてください。
この時あたりから、複数人で何かやるのが好きでした。パフォーマンスも楽しかったけど、Youtubeにアップしたら、たくさんの方が見てくださいました。
以下のは、さっきVimeoにアップし直しました。前より、少し、映像のクオリティにきれいなやつ。
このような作品を国内でもやりたくて、いろいろな方たちにご相談しましたが、かなわないうちに、7年が経ってしまいました。クロアチアでは、少しやりました。
We Are Elegant 2007 edited version from Sakiko Yamaoka on Vimeo.
少し仲間のいるイベントでは以下のような、のんきで、社会批評的な作品「パブリックサービスセンター」というのもやりました。2012年です。
ところが、去年あたりから少しずつ.......
パーソナルなことに興味が出てきました。
結局のところ、イベントに誘われていなければ、私はひとりで作業していますから、コミュニティの感覚がないんですよね。パブリックスペースに出ると一人で歩いているし、人に会っても2〜3人でしょう?こうなるのは、当然の帰結かもしれません。
誰かに向けられる個人の視線、に興味を持ち、以下のような作品を作り始めました。4つ作りました。2〜4人ずつ(計9人)の友人に協力いただいて、「視線」をテーマにショートムービーを作ったのです。楽しかった。記憶と妄想が混じり合います。自分で出たかったけど、撮影がかなり大事になっていくるので、演じるのは、他の方にやっていただきました。感謝。
発表は今のところ、ブラジルでしただけです。
今年の10月にスエーデンで発表することが決まりました。(ぱちぱち)
ちなみに、サウンドも効果音も環境音も省いております。文字通り、moving imagesです。
そして、そして、今はもっともっと、極私的な空間に興味があります。2人でもなく、たった、一人の空間。それは絵画。
この時あたりから、複数人で何かやるのが好きでした。パフォーマンスも楽しかったけど、Youtubeにアップしたら、たくさんの方が見てくださいました。
以下のは、さっきVimeoにアップし直しました。前より、少し、映像のクオリティにきれいなやつ。
このような作品を国内でもやりたくて、いろいろな方たちにご相談しましたが、かなわないうちに、7年が経ってしまいました。クロアチアでは、少しやりました。
We Are Elegant 2007 edited version from Sakiko Yamaoka on Vimeo.
少し仲間のいるイベントでは以下のような、のんきで、社会批評的な作品「パブリックサービスセンター」というのもやりました。2012年です。
ところが、去年あたりから少しずつ.......
パーソナルなことに興味が出てきました。
結局のところ、イベントに誘われていなければ、私はひとりで作業していますから、コミュニティの感覚がないんですよね。パブリックスペースに出ると一人で歩いているし、人に会っても2〜3人でしょう?こうなるのは、当然の帰結かもしれません。
誰かに向けられる個人の視線、に興味を持ち、以下のような作品を作り始めました。4つ作りました。2〜4人ずつ(計9人)の友人に協力いただいて、「視線」をテーマにショートムービーを作ったのです。楽しかった。記憶と妄想が混じり合います。自分で出たかったけど、撮影がかなり大事になっていくるので、演じるのは、他の方にやっていただきました。感謝。
発表は今のところ、ブラジルでしただけです。
今年の10月にスエーデンで発表することが決まりました。(ぱちぱち)
ちなみに、サウンドも効果音も環境音も省いております。文字通り、moving imagesです。
そして、そして、今はもっともっと、極私的な空間に興味があります。2人でもなく、たった、一人の空間。それは絵画。
ちょっと、気味の悪い絵ですが。
それでも、投票用紙、という体裁で、パブリックとのつながりを残しております。小さな絵なので、皆さんは、近眼よろしく、近づいて見るはめになります。美術館にど〜んとある大きな絵みたいに、「ひいて」みんなで見る、というような絵ではありません。
あるいは、馬鹿みたいな絵。実は描いたのは3年くらい前です。
パフォーマンスをする機会に恵まれても、もう、大きな目をあけて、きょろきょろしない方が、面白いかしら、と思っています。だから、狭い穴から見ることを、皆様にも求めてしまいます。大きな目を開けると、いや〜なことも入ってきてしまいます。
などです。
28.3.14
22.3.14
近々のお知らせ 「人間」のための公共空間を名残惜しむために
明日のワークショップと、来週から始まる展覧会です。
明日のものは、
私の「パブリックスペース』課題として、本年度行なったきたものの、最終回。
「誰かを思って手紙を書く」ということをテーマにします。そして、実際に書いて、投函します。
明日、予定しているパフォーマンスを終えてから、これまでしてきたことを振り返るとともに、この成果から学んだこと、そして、今後の展望などを、参加者(パフォーマー+立ち会いに来た方々)と、話します。
思うに、公共スペースなど、実際はないのだと思います、やはり、特に日本には。このごろ、パブリック空間ということを、建築や行政の立場から聞くことが増えましたが、そこは所有の権利のある人たちが提示するルールを守れる人たち、あるいは、その基準の人たちの場所であり、ある意味、結局のところ、プライベート空間なのだと思います。
たとえば法律で定められている「公開空地」は、実際は、とりあえず、誰でも通行可能である、それだけ。可能性はもっとあるのに。そこは、警察官ではなく、警備員のいる空間です。
たとえば法律で定められている「公開空地」は、実際は、とりあえず、誰でも通行可能である、それだけ。可能性はもっとあるのに。そこは、警察官ではなく、警備員のいる空間です。
ワークショップパフォーマンス「T3+1 」vol.4
2014年3月23日(日)15:00武蔵境駅 南口集合 〜17:30
パフォーマンス/15:23@武蔵境プレイス前の公園、 およびイトーヨーカドー地下のフードコート、駅前ポスト( 23分間の同時多発パフォーマンスとフードコートでのディスカッ ション、および、手紙の投函)
パフォーマー/直方平ひろと、関谷泉、永井可那子、山岡さ希子
昨年6月から行っているワークショップ型の屋外でのパフォーマンのシリーズ。交代で、コンセプトを出し、その人のアイデアで、 4人がパフォーマンスします。 今回は永井さんのコンセプトで行います。「 誰かを思って手紙を書く」がテーマ。 公演というほどのものではないですが、4人が何をするのか、 ご興味のある方は、遊びにいらしてください。
「読むこころみ 見立て、解読、参加する、意外と身近な現代アート」展
2014年3月27日(木)〜4月6日(日) 11:30〜19:00 (最終日17:00まで) @えすぱすミラボオ 東京都新宿区神楽坂6-36-1 神楽坂ビル2F
27日(木)オープニングパーティ 17:00
アーティスト/熊澤桂子、倉嶋正彦、藤本均定成、山岡さ希子
作家である大薗弘治さんの企画で、5人の現代アートの人たちが作品を展示します。 初顔合わせな方々ばかりです。
私はへたくそなドゥローイングを10点くらい出す予定です。タイトルは「空欄」。オープニングパーティの中でちょっとだけ、パフォーマンス「 視線の彫刻」をします。
議員を選出するシステムと、representationと言うそうです。それは「表象する」と同じです。つまり、選挙に投票するということは、自分の思いを誰かに託す=「表象する」ということのようです。

22.2.14
今年の活動予定 パブリックとプライベートの空間の隙の薄さについて
今年の予定と題しましたが、今年ももう2ヶ月目が終わりかけていますね。
とはいうものの、実のところ、ブログを書いている暇もない感じでやっております。でも、なんとか書いてみます。
なぜと言えば、あるグループ展に呼んでいただき、そのために、5年ぶりくらいに絵を描いているからです。展覧会は3月末から。絵、と言っても、ご存知の方はご存知のように、私のは落書きみたいな絵でして、しかも、A4サイズくらい、机で描ける範囲。それでも、気に入るためには、描き直しに継ぐ描き直し。何日もかけているのに、まだ1点も満足なものが、仕上がっていません。いや、どうなることやら。
この一年、全体に、私としてはいっぱいいっぱいです。他の人からみたら、スカスカの予定に見えるかもしれないですが、私は、計画するのに時間がかかるタイプなので、このくらいでも、もう、無理。特に、現在、いろいろと考えたり、勉強したりの充電が必要で、身体づくりもすこしずつ。
何をするにしても、パブリックとプライベートの空間と時間、その関係についてをテーマにします。というか、それらは対立概念ではないし、それ以外のものもあるはず。ところが実際は、対立させられ、その隙間はカミソリの刃も入らないくらい、薄くなっています。
隙に滑り込む経験をする。一時的でもいい、ぐわっと広げる。人と人の間に、昨今の人々が、経験したことがあるような、してないような「場所」を開く経験(かつてはどこにでもあったもの)を提案したいのです。
自己検閲、あるいは市民が互いに検閲し合うような、狭苦しいストレスいっぱいの空間の隙間を、一瞬でもいい、ふわりと「開く」。
隙に滑り込む経験をする。一時的でもいい、ぐわっと広げる。人と人の間に、昨今の人々が、経験したことがあるような、してないような「場所」を開く経験(かつてはどこにでもあったもの)を提案したいのです。
自己検閲、あるいは市民が互いに検閲し合うような、狭苦しいストレスいっぱいの空間の隙間を、一瞬でもいい、ふわりと「開く」。
昨年からビデオ作品も作っているので、メディアについても可能性を広く考えたいです。技術の習得は重要ですね。たぶん、これまでの人生で一番、技術のことを考えています。
3月23日(日)
「T3+1 workshop performance」15:23より @武蔵境のパブリックスペースこれは、直方平ひろとさん、関谷泉さん、永井可那子さんと昨年6月から行っているワークショップ型のパフォーマンのシリーズ。毎回、屋外ですることになっています。今回で最後。交代で、コンセプトを出し、その人のアイデアで、4人がパフォーマンスします。今回は永井さんのコンセプトで行います。4人が何をするのか、ご興味のある方は、遊びにいらしてください。場所の詳細は、ご連絡します。
3月27日〜4月6日
「読むこころみ 見立て、解読、参加する、意外と身近な現代アート」展
@えすぱすミラボオ 東京都新宿区神楽坂6-36-1 神楽坂ビル2F
作家である大薗弘治さんの企画で、5人の現代アートの人たちが作品を展示します。初顔合わせな方々ばかりです。まさに、現代アートってなんだろうか、と思います。特に、私の、落書き絵は、現代 アートと呼んでよいか、あやしいものなので、正直申し訳なく思ってます。7点か10点出す予定。テーマはやはり、パブリックスペースです。タイトルは「空欄」。初日の27日(木)にパフォーマンス「視線の彫刻」をしようかと思っています。
5月14日〜17日
The fifth Friction International Performance Art Festival Uppsala Art Museum, Uppsala , Sweden
スエーデンは、ウプサラという古都の公立美術館でのイベントです。舞踏家でカンパニーを持っているスーエンさんの企画で2年に一度パフォーマンスフェスティバルが開かれています。舞踏家がなぜパフォーマンスアートを?と誰もが不思議がるようですが、どうやら、スエーデンでは、舞踏よりも、パフォーマンスアートの方がよほど、一般受けするからだろうと、私は思います。スーエンは、白桃房で8年(だったかな)学んで、自国に帰ってカンパニーを作った、実力も行動力もある女性です。
美術館内でのパフォーマンスと、植物園でのパフォーマンスの2本を依頼されています。今年のテーマは、「アクションの自由」。どちらも「視線の彫刻」をコンセプトに行うつもりですが、やりかたは、勿論違います。「視線の彫刻」は、パブリックスペースでの人々の視線をテーマにした、探求型のシリーズです。「ハイファイブガーデニング」もその方法のひとつなのです。
"Artist in Residence" in SUEN Butoh Company Uppsala, Sweden
上記のスエーデン滞在は、ニッポンササカワ財団に、旅費と制作費、そして滞在費を申請しており、うまくサポートがおりれば、スーエンさんのカンパニーのある、ウプサラ郊外の森に滞在しようと思っています。
6月後半 東京のパブリックスペースでの、ゲストを含めたデモンストレーション的なアクションパフォーマンスを、このあたりで、是非やりたいです。
7月19日〜9月7日?(詳細未定)
プロジェクト「うちのこと」アキバタマビ21@3331 アーツ千代田
プロジェクト「うちのこと」アキバタマビ21@3331 アーツ千代田
これもまだ、もろもろ未定です。オランダ在住の若い日本人とオランダ人アーティストのコラボ企画らしいです。私が、参加アーティスト扱いになるのか、それも判らないですが、昨年、オランダで知り合った、ニナ・グロッグナーさんのお誘いです。ニナと組んで何か、やります。ちょこっとかもしれないし、いろいろかもしれない。なんだか、とっても楽しみです。何にもしないかもしれないし。http://uchinokoto.com
いわゆるパフォーマンスアートフェスティバルです。2004から始まったもので、私は2回目の参加。これと、この後の中国のフェスは、旅費がサポートされないので、自分で用意しないといけません。お金をなんとか、ためないと。
9月12日〜21日
これもパフォーマンスフェスで、シンガポールのイベントの続きとして行われます。ヨーロッパからの参加の方達には、ツアーと言うべき。私は、いったん、帰国するのか、しないのか、たぶん、そのまま飛んだ方が良さそう。初めての中国なので、わくわくです。
日程や展覧会のタイトルは決まってませんが、日本人のアーティストを紹介する展覧会です。スエーデンの4番目くらいの規模の都市マルモ在住の、ライフ・ホルムストランドという人の企画。マルモ大学と共同企画らしい。招待されているアーティストは、私の他、チンポムや風間サチコさん、奥村祐樹など、数組。
まだ、詳細が全く未定です。私も何を出品したらいいのか、わかりません。ライフさんは、私の「ガーデン」というパフォーマンスが大好きなんだそうです(YOUTUBEで見ただけですが)。FACEBOOKで知り合った人です。先日、来日して、初めて会いました。
11月
?Performance art festival @Chile
まったく未定ですが、招待状を送ると、2度言われました。まだ来ていません。企画者は、アレキサンダー・デル・ラ。10年来くらいの知りあいです。これも、たぶん、旅費が出ないので、去年までの私なら、断っているのですが、今年は、お金を作ってでかけたい。少し、長滞在をして、個人的に作品を作れたら。
この他、UKでのアーティストインレジデンスの可能性もあり、昨年末にディレクターが来日して、一度会いましたが、全く未定です。
27.1.14
読書。イベント、ひとりで出かけている。誰にも会わない。
このところ、主にやっているのは、読書。それと、出かけていって、誰かの話を聞いたり、作品を見たり。どれも、1人でやっている。きのうは、アテネフランセの映画イベントにでかけて、2つのトーク、合計、7時間くらいの長丁場だったが、とても面白かった。家に帰ってからも、興奮さめやらず、夜中の2時くらいまで起きていた。誰とも話さないのに、ここまで盛り上がれるのか!と自分に感心。
一つ目は、イスラエル映画について、四方田犬彦氏のレクチャー。うまいレクチャー。イスラエルについては、私も一昨年行ったが、気がついてなかったことをいろいろと知ることができた。紹介された映画は超レアものだが、鑑賞ができるほどは、見せてはもらえなかった。四方田氏よくしゃべる。
二つ目は、台湾の映画監督エドワード・ヤンの映画を、3人の専門家が分析するトーク。とても興味深い視点の話だったので、本当に、うれしかった。とにかく、ムービーものの表現の方法について、私が手探りでやっていた方法があながち無意味ではないことがわかって、良かった。ヒントももらって、もっともっと可能性が広がった。そりゃ、確かに、映画の人たちって、なんか、オタクぽい。そんな細部まで、気がつくものなのかと驚いたり。映画人の彼らは、なんとしても、語らなくちゃ気が済まないことがある、という感じなのだ。語ることが愛?みたいに。ファインアートで、あんなに熱い人たちはあまり、見ないかも。
計7時間では、私も、さすがに、最後の方は、へろへろしてきた。夕食とる暇なくて、身体の電池が切れそうだった。でも、来週も行く。
下の写真は、東京駅のステーションギャラリーのブラインド越しに、東京駅前の様子を、スマホで撮ったもの。
一つ目は、イスラエル映画について、四方田犬彦氏のレクチャー。うまいレクチャー。イスラエルについては、私も一昨年行ったが、気がついてなかったことをいろいろと知ることができた。紹介された映画は超レアものだが、鑑賞ができるほどは、見せてはもらえなかった。四方田氏よくしゃべる。
二つ目は、台湾の映画監督エドワード・ヤンの映画を、3人の専門家が分析するトーク。とても興味深い視点の話だったので、本当に、うれしかった。とにかく、ムービーものの表現の方法について、私が手探りでやっていた方法があながち無意味ではないことがわかって、良かった。ヒントももらって、もっともっと可能性が広がった。そりゃ、確かに、映画の人たちって、なんか、オタクぽい。そんな細部まで、気がつくものなのかと驚いたり。映画人の彼らは、なんとしても、語らなくちゃ気が済まないことがある、という感じなのだ。語ることが愛?みたいに。ファインアートで、あんなに熱い人たちはあまり、見ないかも。
計7時間では、私も、さすがに、最後の方は、へろへろしてきた。夕食とる暇なくて、身体の電池が切れそうだった。でも、来週も行く。
このごろ、接しているもの、すべてが楽しいわけではない。当たり外れもある。今、心がけているのは、イベントに行っても、話者や主催者となるべく話さないこと。いや、なるべく、ではなくて、絶対!に。(例外的に、知りあいが主催関係の場合は、挨拶した。)
なぜか?
たぶん、鑑賞に「関係」を作りたくないからかしら。純粋鑑賞が、今はいい。なので、少数参加者のイベントは避けた方がいいかもしれない。
たぶん、鑑賞に「関係」を作りたくないからかしら。純粋鑑賞が、今はいい。なので、少数参加者のイベントは避けた方がいいかもしれない。
Kindleで初めて購入した図書、カズオイシグロの『浮き世の画家』読了。でかけた時に、電車の中でしか読まないので、短編だけど、少しだけ時間がかかった。タイトルがなんかきらいだったし、前半は何の話に発展するのか、全く、わからなかったのだけど、だんだん、事情がわかってきて(わざとそのように進行させているのだろう)、面白くなった。イシグロ氏は、幼い時に、イギリスに移住して、そのまま暮らしているので、日本語が書けない。つまり、だから、これは翻訳ものなんだけど、非常にすばらしい翻訳。そして、驚くのは、登場人物たちの話し方、私たちが「日本的」と思い込んでいる、宴曲表現、気遣い表現に満ち満ちている。純粋な日本人が日本語で書いた小説みたいだった。彼が、日本的感性を研究して意識的に書いたのか、とも思ったが、実のところ、そういう会話の仕方が、日本人的というのは、私の思い込みなのかもしれない? よく考えて見ると、自分の経験からして、気遣いを細やかに会話や態度で表すのは、ヨーロッパ人の方かもしれない。
とにかく、小説の中心人物の、意識の表現が見事。私たちの日常と同じく、「実際はどうだったのか」というのは、筋の中でも、結局のところ、わからないのだ。主人公は、色々と他者の考えを推察してみるが、もやがかかっている。他の人に、質問してもはぐらかされるのだ。その代わり、中心人物の気持ちが変化する様子が、描かれている。彼が思い切って、あることを発言したことで、展開が変る、しかし、他人は何も変わってないと言う。他人の反応に、敏感になりすぎていたのだろうか、などと、主人公とともに、考えてしまう。ちなみに、これは「意識の流れ」という手法の系統なのかしら。
イーフー・トゥアンの『空間の経験』(space and place)は、2度目を読んでいるところ。ノートにメモをとりながら読んでいる。なんて、示唆深い内容なんだろうかと、思う。地理と空間、経験についての画期的な著書だと思う。「空間」と「視線」に関する本は、今後、次々と読む予定。抜粋の一部は、twitterに載せています。
「共依存」についての本も読んだ。「コミュニケーション断念のすすめ」というのも一緒に買った。こちらは、エッセイ調の文章なので読みやすい。面白いところもあったけど、この手の書は、ほどほどに読むのが良さそう。
今月中に、ひとつ作品のプレゼンをしなくてはならないことがある。5月のもの。あした、それは書きます。
下の写真は、東京駅のステーションギャラリーのブラインド越しに、東京駅前の様子を、スマホで撮ったもの。
12.1.14
今年の予定と意識の流れ
今年中の予定は、ありがたいことに埋まってきた。(上のタブ、左端のScheduleをご参照ください。)もうひとつ、あるんだけど、いつか判らないし、流れるかもしれない。夏は予定なし。単発のパフォーマンスなどは入れないと思う。
プランと作品制作の時期はずれていて、プランは未来に投機する感覚。今年の私の場合、自分では決めてないから、過去と今の人々との関係が反映して、遠方から現れてくる感覚。今のところ、ごく少数しか、断っていないから(つまりダブルブッキングするほど忙しくはない)、他人次第みたいになっているようにも見える。勿論、過去の私がそれに影響している。しかも、それほど確信的に影響したわけでもない。
何を、当たり前のことを言っているかというと、どのくらい、自分で考え、行い、決めたことが、自分の運命に影響しているかの感覚をたどると、ふわっとした、バランス感覚の中にいて、どう、今この瞬間に、あがいても、変えることができない、と感じるのだ。単に、他者との関係が大事とか、そういうことではないだろう。あるいは、今、あがいたこと、苦しんだこと、そこでしていることは、未来の私に関わる、かもしれないが、しないとも言える。
つまり、瞬間瞬間の判断で、ものを推し量れないってことくらいかな、わかったのは。論理的にわかったというより、感覚的にわかった。というのも、去年は、思うように動かないことに対して、ひどく、いらだったりして、自分を責めつづけていた。自分を責めてはいけないということである。
粛々と、やります。私を思い出してくれた方々に感謝しながら。夏は予定がない分、資金調達、準備や勉強にがんばります。やれるかな、やるしかないか。期待に充分答えられないと、それはそれで自分を責めるかもしれないが、それはその時に考えよう。
という以上の文章は、昨日から読み始めた、ヴァージニア・ウルフの小説の手法、「意識の流れ」に、過大に影響されております。いや、勿論、文学における「意識の流れ」手法は、こんなもんじゃないんでしょうが、スノッブな私なので、気分だけね。
でも、いいんじゃない? 今年は、本をたくさん読みたいんだ。
プランと作品制作の時期はずれていて、プランは未来に投機する感覚。今年の私の場合、自分では決めてないから、過去と今の人々との関係が反映して、遠方から現れてくる感覚。今のところ、ごく少数しか、断っていないから(つまりダブルブッキングするほど忙しくはない)、他人次第みたいになっているようにも見える。勿論、過去の私がそれに影響している。しかも、それほど確信的に影響したわけでもない。
何を、当たり前のことを言っているかというと、どのくらい、自分で考え、行い、決めたことが、自分の運命に影響しているかの感覚をたどると、ふわっとした、バランス感覚の中にいて、どう、今この瞬間に、あがいても、変えることができない、と感じるのだ。単に、他者との関係が大事とか、そういうことではないだろう。あるいは、今、あがいたこと、苦しんだこと、そこでしていることは、未来の私に関わる、かもしれないが、しないとも言える。
つまり、瞬間瞬間の判断で、ものを推し量れないってことくらいかな、わかったのは。論理的にわかったというより、感覚的にわかった。というのも、去年は、思うように動かないことに対して、ひどく、いらだったりして、自分を責めつづけていた。自分を責めてはいけないということである。
粛々と、やります。私を思い出してくれた方々に感謝しながら。夏は予定がない分、資金調達、準備や勉強にがんばります。やれるかな、やるしかないか。期待に充分答えられないと、それはそれで自分を責めるかもしれないが、それはその時に考えよう。
という以上の文章は、昨日から読み始めた、ヴァージニア・ウルフの小説の手法、「意識の流れ」に、過大に影響されております。いや、勿論、文学における「意識の流れ」手法は、こんなもんじゃないんでしょうが、スノッブな私なので、気分だけね。
でも、いいんじゃない? 今年は、本をたくさん読みたいんだ。
25.12.13
「共同主義は自分自身からの逃避であり...個人主義は想像物にすぎない。」M.Buber
ブログを書き始めて、もう、6〜7年経つが3ヶ月も書かなかったのは初めてだ。
いろいろあった。ブラジルに行って、フィンランドに行った。状況のこともあり、それぞれで作った4つの作品は全部違う。その準備やら、なんやらで、ブログを書く余裕や、整理がなされていない。facebookの投稿で、少しずつ書いてはいたが、いきあたりばったり。変化しつつある、自分の方法について、自分自身整理すべきと思っている。少々、その変化が自分で不安でもある。でも、止まっていられない。
来年になっておいおい、それらの作品について報告しつつ、よく考えたい。
以下は、最近、facebookに投稿した文章。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今月はバイトやら請負仕事やらをかけ持ってるし、悩みもあって、ほとんどの 自分の作業がストップしている感じだ。その合間にいろいろな大事 な人にも会っている。なんだか、乱世だ。正気を保つために、最近 、とても心の糧にしている文章を書き写したい。睡眠時間よりも大 切な言葉を。
「もし、個人という言葉が人間の一部を示すものであるとしたら、 共同性とは人間の全体もしくは人間の集団を示すことになろう。個 人性とは自分自身での方針決定ということにおいて、人間と関わる ものだ。しかし、共同性は人間に関わるものでは全くなく、それは 『社会』と関わるものなのだ。このどちらの生活上の要素も、同じ 『人間性』の表現もしくは産物なのである。
事体は広く社会的な問題となっているホームレスを始めとして、 かつてない世界的な生活上の懸念や不安として顕在化している。孤 立感からくる不安から逃れようとして、人は個人主義の賞賛という ものへと逃げ込む。現代の個人主義というものは想像の産物である。だから想像力というも のが現実の状況に関わりのないものになってしまっている。
現代の共同主義とは、自分自身に面と向かうことを避けたいがた めに、人類が打ち建てた最後の障壁ともいえる。共同主義では、個 人的な裁量や責任といったものに対する権利は放棄されている。
しかしいずれにしても、躍進的解決を図れる能力などがあるわけ がない。真に人間的であってこそ、真の相互関係が成り立つと言う ことだけなのである。相互関係を打ち立てるには、ひとりひとりが 抵抗をしめすより他に選択すべき道はないのである。大いなる不満 が、人類の真の歴史のすべての過程がそうであったように、ゆっく りと地平線の彼方から現れて来ている。
人々は、以前は一般的でないことを好み、一般的と騒がれている ことには反旗を翻したものが、今はそうではない。しかし共同性の 獲得については、その誤った実現化には、正しい方向性を求めて闘 うにちがいない。
人々は事実の歪曲に対しては真実を求めて闘う。その第一歩は「 個人主義か共同主義か」という誤った二者択一的選択を打ち破るこ となのである。」
Martin Buber 「人類の課題」1948 (「都市と建築のパブリックスペース 、ヘルツベルハーの建築講義録」1995 鹿島出版会より抜粋)
いろいろあった。ブラジルに行って、フィンランドに行った。状況のこともあり、それぞれで作った4つの作品は全部違う。その準備やら、なんやらで、ブログを書く余裕や、整理がなされていない。facebookの投稿で、少しずつ書いてはいたが、いきあたりばったり。変化しつつある、自分の方法について、自分自身整理すべきと思っている。少々、その変化が自分で不安でもある。でも、止まっていられない。
来年になっておいおい、それらの作品について報告しつつ、よく考えたい。
以下は、最近、facebookに投稿した文章。
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今月はバイトやら請負仕事やらをかけ持ってるし、悩みもあって、ほとんどの
「もし、個人という言葉が人間の一部を示すものであるとしたら、
事体は広く社会的な問題となっているホームレスを始めとして、
現代の共同主義とは、自分自身に面と向かうことを避けたいがた
しかしいずれにしても、躍進的解決を図れる能力などがあるわけ
人々は、以前は一般的でないことを好み、一般的と騒がれている
人々は事実の歪曲に対しては真実を求めて闘う。その第一歩は「
Martin Buber 「人類の課題」1948 (「都市と建築のパブリックスペース











































