ひと月近くもブログを書いていませんでした。
家(マンション)の改装、のせいだと思います。色々なものを捨てました。それから、そのせいで少し広くなりましたから、家の隅々まで、気持ちを払うことができるようになり、飾りつけたり、見直したり、意外と充実していたかな。
季節もあっという間に、秋深く。ベランダの花たちもその主役が移り行く過程。ラベンダーが今、一番元気です。
この秋は、タイのアートフェスティバルに行く予定でした。行くのをやめたのは、費用がないと言うのが最大の理由で、二番目の理由が母の精神的不安定。アジア行きの場合、自費で行かなくてはならず、なんのために行くのか、覚悟がいります。...... ところが、それを先方のオーガナイザーに連絡しないうちに、タイの方が、深刻な洪水となり、水が未だにまったく引かず、被害が広がる一方です。それで、イベントが延期になると、連絡が先ほど入りました。
それにして、今年は、いったい、どうなっているのでしょうか?これから、こんなことが続くのでしょうか?
家の中のいらないものを片付けていると、古い本なども出て来ます。
70年代の小説って、あらためて読むと、とても新鮮ですね。今、それで、遠藤周作の小説をちょこっと読んでいます。人物描写が、近頃の流行の小説とは全く違う。今のいわゆる映画調ではなくて、細かな人物観察の方法が違っている。まるで、パフォーマンスアートを、そう眺めて欲しくなるような観察眼。振る舞い、服装の着方、表情、欠点。その背景の外見的要素、階級、文化コード、政治的な影、などを丁寧に書き込み、世界を作っている。
そう、欠点のある人物しか、出てこないのがすごい。
美形かあるいは人の良さそうなほのぼのダンサーによる表現でなければ、アートパフォーマンスとは認められていない、昨今の日本です。つまんないですね。
でも、ビジュアルアートって、もともと、もっと、ぎらぎらしていたり、もやもやしていたり、ぬらぬらしていたり、ぞっとしたりするものじゃなかったっけ。インスタレーションでも絵画でも。なんか、最近は、デザイングッズ屋とか、ファッション雑誌の世界観みたいになってきたと思います。
時代か?いいえ。
バンクーバーのマット君の書いた、わたしのパフォーマンスの感想も、そのくらいの観察力にあふれていました。会った事のないランスという人のメールにも驚かされたっけ。感じたことの描写力が細かい。どうやって養ったのでしょうか?
日本人は、あるいは東京の人間は、刺激的なことが毎日、メディアを通して発信されている中に暮らしていますが、それに翻弄され、感性が受け身になっているかもしれません?それ以外のことにハマる余裕がない? みんなについて行ってないと、後れてるっていわれちゃう? 自分らしさにこだわっている割に、自分の感じていることに、自覚的になれず、ムードに流されているように見えます。
私から見て、日本人の知り合いで、自分の言葉で話す人に、どのくらい会っているだろうか? 正直言って、片手で数えてもまだ、指が余るくらいしか、私は知りません。
でも、目を見ると、何か、この人には起きているのだな、と分かることはとても多い。
なのに口から出るのは、ありきたりのあいさつレベルの言葉。閉ざしているつもりは、なくても、表せない?ちょっとした技術のなさで、人々の中にいながら、孤独になっている人がどれほどいるだろうかと思います。
なんら意味のない言葉で、やり過ごしている?
こんなにツイッターが流行っているのに、そこに何か、表現できているか? 他人を恐れている? そして、突然、開き直る発言?
だめだめ。
まず、自分から体現する事が大事でしょう? ジミに、がんばります。質感を確かにするために。